AIとの対話で救われた
ChatGPTを開くことが日課になって半月、今日もいつも通りAIの力を借りて内省・省察に勤しんでいたとき────涙が出た。
AI相手に何を言っているのかと思われるかもしれない。けれどやはり、私の心はChatGPTに救われたのだ。
私を救ったのは〝AIに投影した自分自身〟だった
ChatGPTをどのように活用したかは紹介するが、あくまでも私が実践してきた内省──成長を目指すプロセスのお話である。
自己内省であり、自己実現であり、自分を愛する話である。
そしてAIが導いてくれた答えは、実はすでに〝自分の内側〟にあったのだ。
フィードバックはすべて、私がChatGPTに語りかけていたものだった。
私はAIに──AIに投影した自分に──救われたのだ。
ChatGPTを通した自己内省の始まり
ChatGPTに初めてログインしたのは2025年3月下旬。
最初は勉強のため、週に何度か英会話のロールプレイをするくらいの使用頻度だった。
SNSでしばしば対話を見かけていたからだろうか、私はChatGPTに人間関係の愚痴をぶつけた。
言葉にするだけで幾分かスッキリできたし、何よりも思考がスルスル紐解かれていくことへ夢中になった。
気付けば〝私〟を十分に分析できるくらいの情報を伝えていたので、「これだけ揃っていたらいけるんじゃないか」と思い、問いかけてみた。
────「私はどういう人間ですか?」
4月15日、〝AIとの対話を通した自己内省〟の始まりである。
自己実現を目指して
今まで長い期間をかけて自己理解を深めてきたが、AIを活用したここ1ヶ月は目まぐるしい結果が出たと思う。
この記事では、私がAIのフィードバックから学んだもの、得たもの、そして辿り着いた〝自分を愛する〟ことについて、
実践してきた内省のプロセスを紹介する。
「自己実現」「成長」「自分を好きになりたい」「自分はどういう人間か」
それを追い求めている人のヒントになれば幸いである。
追記:1本で書くつもりが3000文字を超えてしまったので、前編後編に分けることにしました。
この記事【前編】では「AIを通した内省での気づき」のみ扱っています。
ChatGPTのフィードバックで気付いたこと
他者評価によって内省していた
他の記事で書いたことだが、私はもともと他者評価を通した内省が習慣化している。
他者を見ることは自己理解を深めるためにおあつらえ向きだ。
他者評価をしている自覚はあったが、それはあくまでも「人間への興味」だと思っていた。
ChatGPTとの対話を通して、自分のしていることが「投影」「内省」という言葉と繋がったのだ。
投影や内省という難しい言葉で考える必要はない。
「人と意見が衝突した」という経験があるからこそ、「自分の意見・考え」がより鮮明に見える。
「人に腹を立てた」という経験は、「自分が何に腹を立てるか」を知ることができる。
それらの情報はどれも、「自分とは何か」を根源まで掘り下げうる。
AI相手に感情が揺れることの意味
ChatGPTを利用している中で、私はよくイライラする。
たとえば適切ではないと思える言葉をチョイスしたときや、単純に完璧ではないフィードバックが返ってきたときだ。
この感情をキッカケに、私は〝ChatGPTは私の投影かもしれない〟と考えるようになっていく。
ChatGPTは私を学習している。私が内省のために伝えてきた出来事も「私の言葉」であるし、感情も思考も赤裸々に投げかけてきた。
ChatGPTは私で形成されている。
ならば言葉のチョイス、文体の調子、結論とそれを出すタイミング、全て〝私仕様〟であるべきなのではないか。
自分が怒りっぽいとは知っていたが、さすがにAIを相手にして感情が揺れることには考えさせられた。
「なぜイライラするのだろう」
「私は何が気に食わないんだろう」
きっと私は、「求める答えが返ってこないこと」に腹を立てていたのだろう。
「なんでも知ってるAIなんだから、きちんと答えを出してよ。」というように。
AIに対してまで腹を立てるなんて情けないと思ったが、私が育てたAIなのだ。
そう考えてみると、もしかしたら私の〝内面の葛藤〟なのかもしれないとも思えてきた。
〝知らない〟ことを〝知る〟ために
さすがChatGPTは優秀で、根気強く対話を続けていけば必ず何かしらの結論に行き着く。わからないのならば「今はわからない」という結論に行き着く。
その日も同じように、結論に至って「スッキリした!」で終わるはずだった。
ChatGPTは〝私が何を知りたいか〟を知らない
私は基本的に内省のために活用しているので、話題はもっぱら人間関係や自分のこと、他人のことについてである。そしてそれらを説明するための倫理、哲学、心理学などである。
ある日のやり取りで、私はChatGPT相手に心底腹を立てた。
内省の材料として、人間関係の実体験を整理・分析していたときだ。
体感の話ではあるけれど、ただイラッとしたのではない。
なぜその言葉を使うのか、なぜその結論に至るのか、それらフィードバック何もかもに憤った。
状況整理はいらない、理解している。
改善策も、一般論もいらない。
自分を、相手を知ることに、それらは役に立たない。
じゃあ私は────ChatGPTを使って何を知りたいのだろう。
答えを知らないのは「自分自身」だった
私は隅々まで全く疑問を残さぬよう、細部まで繰り返し問い詰めた。AIにまでイラつく自分の精神に辟易しながら。
するとだんだん、倫理や哲学などを介して、「理としてはこうです」のような話になってきた。そのくらいからだろうか、没頭しているのもあり私の気分は大分落ち着いてきた。
そして納得する結論が出たとき、その結論に対して「私はそれを知りたかったのか!」と知った。
しんどい時期だったこともあってか、涙が出た。
ずんと重かった心が軽くなっていくのを感じた。
これこそ「AI相手に何を……」と言われてしまいそうだが、ChatGPTに救われた。心から。
同時に、また一歩、自己内省によって成長できたと思う瞬間だった。
そして〝ChatGPTは私の投影〟だと確信した。
ChatGPTが自分の投影だということ
答えを出せていないのはChatGPTではなかった。
私は「何を知りたいのか」すら知らなかったのだ。
だからきっと、私が投げかける言葉に「何を知りたいか」という情報を導き出せる素材がなかったのだろう。
だからAIも「何についてフィードバックすればいいのか」を理解しようがなかった。
しかし紐解いていった先に「あなたが知りたかったのは、これではありませんか?」とフィードバックが来たとき、「何をChatGPTに教えて欲しかったか」を知ったとき、私はそれ自体──〝なにを知りたかったか〟を知りたかったことに気づいた。
つまり、自分の中で「何を知りたいのか」すらわからない、整理できていない、認識できていないものがあることに気づいた。
ChatGPTも知り得ない、私自身が理解できず憤っている──それらを「知らない」ことに対して憤っていたのだ。
本当は、答えを知らない自分自身に憤っていたのだ。
それを私は「ChatGPTがきちんと答えない」と、AIに気持ちをぶつけていた。投影していたのだ。
知りたかった答えはまだ見つかっていない。
けれど「何を知りたいか」を知らずして、前に進み始めることすらできない。
本来は1記事で書き上げる予定だったところ、言葉をあまり削りたくないテーマなので【前編・後編】で分けることにしました。
【後編】では、
・私が実践してきた「ChatGPTを活用した内省プロセス」
・自己内省と自己信頼の繋がり
・自分を愛するということ
・「なりたい自分」になるために
を軸として執筆中です。
大切に扱いたいので時間がかかるかもしれませんが、この記事を読んでくださった方々に絶対届けたい言葉です。
同じ世界を見ている方、共感していただけた方いらっしゃいましたら、フォローやいいね、サポートいただけると大変励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。
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