金曜日, 6月 6, 2025
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MUSIC AWARDS JAPANの “大局的な” 意義と、日本の音楽文化の「自己認識」に関する課題音楽史 (by JUN)

🧠 概要:

概要

JUNによる記事「 MUSIC AWARDS JAPANの "大局的な" 意義と、日本の音楽文化の「自己認識」に関する課題音楽史」では、2025年に創設される音楽賞「Music Awards Japan(MAJ)」について紹介し、日本の音楽文化が抱える課題、特に「自己認識の困難さ」を論じています。MAJが日本版グラミーを目指す中、音楽業界の既存の賞の問題点や日本音楽の国際的な位置づけが求められている現状を考察しています。

要約

  • Music Awards Japan(MAJ)創設: 2025年に始まる音楽賞が設立され、日本版グラミーを目指している。
  • 第1回受賞式: 5月に京都で開催され、NHKとYouTubeで生放送。オープニングにYMOのコラボ作品「RYDEEN REBOOT」が注目された。
  • 賛否の声: MAJに対する評価は分かれており、簡単に全否定する意見には反発。
  • 既存の音楽賞の課題: 日本レコード大賞などの賞が影響力を失い、不透明な基準が批判されている。
  • 音楽環境の変化: インターネットやサブスクリプションにより音楽の質や聴かれ方が変わり、日本音楽が世界的に注目される時代。
  • 自己認識の課題: 日本音楽文化は自己認識を示す資料が不足しており、成長に向けた基盤が不足。
  • 国際的なプレゼンテーションの必要性: 日本の音楽を正当に評価するため、国内外に向けた伝え方が急務である。
  • 批判への姿勢: 建設的な批判の重要性を強調し、ただの否定し合いでは進展がないと警鐘を鳴らす。
  • 音楽文化の理解: 日本の音楽の独自性を理解し、歴史的評価を確認することが重要で、個々の価値再発見が必要。

2025年から新しく創設された音楽賞「Music Awards Japan (MAJ)」が話題となっています。音楽業界の主要団体が結集し、”日本版グラミー” を目指して立ち上げられたとされます。5月に京都で第1回受賞式が開催され、NHKの生放送に加えてYouTubeでの全世界ライブ配信という “ダブル中継” が実現し、大きな注目を集めました。また、オープニングショーとして制作された「RYDEEN REBOOT」も、YMOの名曲「RYDEEN」を再構成して多世代のアーティストがコラボした上質な作品として、多くの人々の関心を集めました。

このMusic Awards Japanに対しては多くの賛否が集まっているように見受けられますが、個人的には、このアワードに対する評価についてまだ一概には答えを出せていません。この音楽賞が創設された影響が明瞭になってくるのは、もう少し時間が経ってからではないだろうかとも思います。

ただ、「要らない賞だ」「価値のない内容」「無意味だった」などというふうに、単に全否定するだけの意見に対しては、反対を表明したいです。そのような短絡的で感情的な批判は、建設的な議論をむしろ阻害し、音楽文化の発展を妨げてしまうだろうと感じます。

国内では、たとえば日本レコード大賞などといった既存の音楽賞に対して、影響力の低下や受賞基準の不透明さが指摘されるようになっていました。事務所の規模や業界内の力学など、音楽とは直接関係のない「音楽的な政治」が影を落としていることが顕在化してきたことで、不信感が広がっています。

一方で、音楽を取り巻く状況は昨今、目まぐるしく変化しています。インターネットやサブスクリプションサービスの普及によって、音楽の聴かれかたや産み出されるものの質も変化してきており、こうした日本の音楽が世界から注目される機会も増加。グローバルな視点での評価が求められる時代に突入しているということは間違い無いでしょう。そのような状況下にありながら、日本の音楽文化はその実態について、未だに自分たちの言葉で十分にわかりやすく体系化・可視化されていないというのも実情ではないでしょうか。

当では現在、古代から令和までの音楽史を概観する試みを記述していますが、その前提知識を勉強していく過程で改めて感じたことは、「各分野それぞれの視点に偏った詳しい資料はバラバラに存在しているが、伝統邦楽からJPOPまでを概観できるシンプルな “通史” としての資料が全く存在していない」ということでした。自分たちの音楽文化がどのようなものであるのか客観的・総合的に説明できない状態のままグローバル時代に突入していくことは、極めて危うい状態だと言わざるを得ません。

その意味で、「日本人の視点で、国内外に向けて日本の音楽文化を提示し、正当な評価の軸を示すこと」は喫緊の課題であり、「Music Awards Japan」がその第一歩を踏み出したことには、その出来不出来に関わらず、間違いなく意義があることだったと僕は思います。第1回目が終わり、これからその役割をさらに自覚し、多くの人に理解され、音楽リテラシーと日本音楽文化の理解が広まっていくことを期待したいと思います。


このように、たとえ粗削りであっても、現状に対して何か問題意識を持って前向きにアクションを起こした人や物事に対して、しかしその問題意識がそもそも共有されないまま、「建設的な批評」ではない「否定」や「攻撃」が先行してしまう風潮が非常に強いように感じてしまいます。これはMusic Awards Japanだけに限らず、オリンピックであったり大阪・関西万博の開催についての開催前からの激しい批判、さらには当でも触れているように僕の取り組みに先駆けて「邦楽通史」の出版にチャレンジしたYouTuber・みの氏に対して発売前から批判が噴出した件などにも言えることだと思います。

何かの取り組みに対して、「問題点を解決するため」「より良くするため」の批評であれば、改善のきっかけとなり得るでしょう。しかし、そうではなく、単なる価値の否定や誹謗中傷ばかりが目立つのは残念な現状です。そのような意見に対しては、月並みですが、「じゃあお前がやってみろ」「否定だけではなく代替案を出せ」と思ってしまいます。

よく、このような「批判するなら代替案を出せ」という意見に対しては、「代替案がなくても批判する権利はある」と反発する声も多く見られます。確かに、悪事による直接的な被害を受けた場合、代替案がなくても批判や抵抗は正当でしょう。作品・商品やサービスの提供者に対して、お金を払っている消費者側が、その不備を指摘するというのも、いわゆる「カスハラ」にならない限りは、一定の権利はあるとは思います。

しかし、そうではなく、何かを頑張って行動を起こした人やプロジェクトに対してやみくもに否定するだけの「批評」は、あまりに責任感が無さすぎるのではないですか?

Music Awards Japanのような試みは、荒削りであっても日本の音楽文化を前に進める可能性を秘めています。批判する側も、具体的な改善案を提示する姿勢が求められるはずです。


先ほども書いたように、僕は日本の音楽文化が直面する大きな課題として、「自己認識の困難さ」があると感じています。日本の音楽が世界の中でどのような特徴を持ち、どこが独自性としてアピールできるのか。そして、過去から連綿と続いてきた「日本の音楽史」の中で、今という時代がどう位置づけられるのか。このような、「世界の中での現在の日本音楽」と「日本音楽史の中での現在」という二重の論点においての立ち位置の把握が、非常に難しいのです。このような状況では、日本の音楽が世界から誤解されたり、国内のリスナー自身が自国の音楽文化を正しく理解できないリスクがあります。

だからこそ、当で現在取り組んでいる「概観・日本音楽史」や、みのミュージックの邦楽通史本、さらに今回のMusic Awards Japanなどといった日本発信の世界的なプロジェクトを積極的に試みていくアクションが重要であり、喫緊の課題であると思うのです。

私たち一人ひとりが、自国の音楽文化とその歴史を理解し、価値を再発見し、そしてその未来を応援していくこと。それが今の時代、非常に大切なことなのではないでしょうか。



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