はじめに
なぜ“東京カメラ部風”の写真は炎上しやすいのか。全てが東京カメラ部のハッシュタグをつけているからと言って加工バリバリというわけでもないのですが、かなり現実とは違うよね。と思う写真が東京カメラ部風としてSNS上で認識されていると思います。
この手の写真に今から13年くらいほど前に、写真を始めたての知人から「東京カメラ部みたいな写真が撮れる様になりたい」と何気ない相談をされた事があります。深いツッコミはせずにその時には「なら撮影技術よりも現像やフォトショの技術覚えた方がいいよ」と答えたことがあります。その時の知人が理解できていたのかは不明ですが、知人は目にする東京カメラ部的な写真は無加工ワンショットでJPG撮影で撮れるものだと本気で信じていました。中には本当に無加工な写真はあるのかもしれませんが。
当時は一眼レフの時代。そしてものすごく純粋に「東京カメラ部の写真すげ〜」と言っている人が多かった様に思いますが、その後東京カメラ部風の写真はSNS上で多くの反対的な意見が見られるようになりました。
私自身は別に表現の一つだからいいんじゃね?とも思わんでもないですし、カラーグレーディングなどは色で演出する手法なので東京カメラ部風の写真を否定するものではありません。
ですが、行き過ぎたり、現実にないものを合成で作り出して「〇〇が〇〇だった」とか「〇〇が綺麗すぎた」みたいなコメントや、いかにもそれっぽい「マンションポエム」を添えた投稿、同じ写真アカウントクラスター同士で行われる明らかなバスり狙いのリポストを見るとなんだかなぁと思う人は少なくないでしょう(ちなみに、多くの人が気づいているでしょうけど、写真アカ界隈では一定のフォロサー数を持ったアカウント同士が互いにリポストすることで閲覧数、フォロワーを増やす行為は日常的に行われています)。
ではなぜ、今の世の中でこれだけ“東京カメラ部風”の写真が炎上するのかを、考えてみたいと思います。ちなみに、以下の文章の30%程度はAIを使って分析・生成した結果です。
なぜこんなに賛否がわかれるのか
カメラマンなら一度は見たことがあるであろう、“東京カメラ部風”の写真。
HDR調の空、きらびやかな光芒、色乗りのいい葉や水面の描写。
たしかに目を引く。でも、ときどき妙に荒れたコメントがぶら下がっていたり、場合によっては炎上していたりもします。
いったいなぜ、この手の写真はこんなにも賛否が分かれるのかを自戒も込めて、ちょっと考えてみます。
「映え」と「やりすぎ」の境界線
たとえば以下のポスト。
「エスカレーターの隙間から見える東京タワーがカッコよすぎた」
Xのポストより
というポスト。ちなみに〇〇が〇〇すぎたというキャプション。それに対して、元ポストよりも引用ポストで批判的な内容が広まりました。例えば下記の様なもの
など。
いわゆる“東京カメラ部風”の写真は構図も色も劇的で目を引きます。
でも逆に言えば、「わざとらしさ」や「作り込みすぎ感」も同時に出やすい。特にこの写真の例で言うと、実際にはこの場所のエスカレーターの場所からは東京タワーは見えません。
それ以前に写真の知識がある人であれば、、この手前のエスカレーターの構図は「広角」で撮影されているものに対して、奥の東京タワーが明らかな「望遠」で撮影されているので目の肥えた人であれば合成で不自然なのは明らかに分かる写真です。ちなみに奥のエスカレーターの底面が見えてない部分も不自然やなと思って最初のポストを見ていたらいつの間にか炎上していた。
この写真が「こんなシチュエーションあったらいいな」ではななく、「エスカレーターの隙間から見える東京タワーがカッコよすぎた」といういかにもこのシチュエーションを自分で見つけたぜ。と思わせるキャプションが炎上を招いていると思われます。そして、その“やりすぎ感”が「この写真はウソくさい」みたいなツッコミにつながっているのでしょう。
「またこれか」と思われるテンプレ化
もうひとつの問題は、“見慣れすぎ”ということ。
たとえば夜の湖にリフレクション、森の中の光芒、真っ赤な紅葉に差し込む斜光……。
確かにキレイ。でも、SNSで何万回と見た構図や色味だと、「またこのパターンね」と思われる。
東京カメラ部のようなコンテストや投稿メディアが一定の「ウケる写真像」を提示し続けると、それに寄せた写真が量産される。
その結果、「オリジナリティがない」「表面的な美しさだけ」といった批判も生まれてくる。そして実際にそこにいくと全く違う風景があるなんてことはザラです。
見た目はいい。でも、やってることは大丈夫?
火を焚いているような演出、ドローンでぎりぎりの高度からの撮影、進入禁止エリアからのアングル……の写真があったとします。
見る人からすれば「この景色、どうやって撮ったの?」と気になる。
そこで撮影のマナーやルールに引っかかっていそうな気配があってだれかがそのことを指摘すると、一気に雰囲気が変わります。写真の背後にある“ストーリー”や“配慮”が見えないと、「映えのためなら何でもアリなんですか?」という声も上がってしまう。(AIによる生成)
「写真は表現」か「写真は記録」か
写真を表現の手段と捉える人にとっては、「加工も演出も自由」。
でも、見る側が「写真は現実の記録だ」と思っていると、「この景色、本当にこうだったの?」と疑問を持ちます。
つまり、見る側と撮る側の前提がズレているのです。
このギャップが、誤解や反感、ひいては炎上につながっていると考えられます。先に出した例だとこのパターンに当てはまると思います。
東京カメラ部という記号
“東京カメラ部風”という表現自体が、すでにひとつのスタイルの記号になっていると思います。
そこに「承認欲求」や「賞レース狙い」みたいな、良くも悪くも“戦略的な匂い”を感じてしまう人もいるでしょう。
「いいねが欲しいための写真」「SNSで承認欲求を満たすために撮ってる感じがする」
──そんな見方が、批判につながることもあるでしょう。先に述べた、「有力なアカウント同士がリポストしたりレスしあう」という半ば「約束事」のようなものがあり、そのスキームが情報商材界隈と同じ匂いが感じて、私は写真よりも、その部分は見ていてモヤモヤします。
写真界隈の炎上
炎上は、東京カメラ部に限った話ではないです。たとえば有名なインスタグラマーが、他人の写真を「自分が撮った」として投稿していた件など。その時も、「加工」や「演出」がどこまで許されるかという議論が盛り上がったようです。
また、報道写真の世界でも、2016年に有名なスティーブ・マッカリー氏がPhotoshopで被写体を消したり構図を変えたりしていたことが判明して、信頼問題に発展しました。
japancamera.org
表現の自由と、誠実さ・説明責任。このバランスが崩れたとき、人は怒るのかもしれません。(AIによる生成)
ぶっちゃけスルーしたらいいんじゃね?
と、いろいろ書いてきましたが、こういった写真が権威ある加工禁止のコンテストで入賞するとか、報道写真で使われるとかなら問題だと思うけど、SNSではこういう写真は無数にあるし、それ以前にもう世の中写真も動画もAIで生成される時代なのでみんな過剰反応しすぎとも思える。最近は広告写真までかなり炎上する傾向にあります。
一方で、流行りの溶岩動画も生成AIですが、それを知らずに多くの人が現実とAI生成動画の区別も付かずにすげーってなる世の中になっています。
なので、もう人の写真とか動画にツッコミを入れること自体が無駄なエネルギー消費であると思うのは私だけではないと思います。
「非現実的な写真をバズらせて承認欲求を満たしているんだ」「けしからん」とポストする気持ちもわからんではないですが、私はスルーする様にしています(とは言え、こういう記事書いているので少し矛盾してますが)。
一方で、私も映える写真をどうしたら撮れるかという発想で、いかにも映えるスポットに足繁く通った時期もありますが、10年近く前にやめました(今も通う千里川は映えスポットなのかもしれんけど)。
わざわざ写真を動画を撮りに行くのは何のため?と考えた時に、「なんか虚しくなった」からです。仕事で映える写真・動画を求められて撮ることはあるにせよ、趣味でそれを撮ってSNSにアップする意味をまったく見出せなくなったからです。なので私が趣味で撮る動画も写真も99.9%はSNSに出さないし、そのほぼ全ては映えないものばかりです。承認欲求は誰しも持つものですが、私は写真、動画ではそれを得ることはできないし、意味がないものと思う様になりました。
そういえば昔、何か似たことを書いていたなと思ったら下記の様なことを書いていました。このエントリは2019年なので、この頃とは少し考えは変わってきています(機会があればまた書こうと思います)。
sumizoon.hatenablog.com
「いかにもポスターになりそうな写真は撮ってて恥ずかしい」と思う部分は、今も変わらないですが、写真を始めたての頃はポスターやジャポニカ学習帳の表紙のような写真を撮ってみたいと思う気持ちはすごく分かる。
でも一周すると虚しくなる。よくも悪くも私自身、「スレて」しまっている考えかもしれません。
映えることは悪じゃない。でも、配慮が要る
私は最近、写真や動画を撮るとき、シチュエーションが映えていると、撮るのに気が引けます。それは「撮ってて嘘っぽいな。。。」という感覚が付きまとうから。それが本当にグレーディングなしでこれを撮ったんだよと言ってもわざとらしい。仮に加工しているなら実際はそうじゃないんだよと書くべきかもしれない。ちなみに下の写真は色とトーンはほぼ撮って出しだけどアオリ補正を入れているのでその旨書いとくべきか?そもそもこんな写真をSNSにアップする意味がどこにあるの?とか。。。


10年くらい前まではこういう写真ばかり撮っていた…
で、結局HDDにだけデータが残る。別に誰にも見せなくとも自己満足でいいやと。
映える写真は誰でも、それこそスマホでも撮れる時代。一枚の写真ですげーと言われたい気持ちもわからないでもないけど。それが滲み出る写真は見てても分かるし、見ててしんどくなる。なので基本スルー。おそらくその感覚は「一通りを経験した人」だと誰もが持っている感覚だと思います。
見る側も目が肥えてきたので、趣味の写真を気軽レタッチしてアップするのもはばかられる時代になったのかもしれません。その気軽にレタッチもAIでゴリゴリに簡単に変えてしまえる時代。
今回の件は、写真そのものの問題というよりも、
「映えのためにどこまで手を加えるか」が問われる時代になっているということなんだと思いますが、私自身はSNSなんだから最低限誤解を与えない様にすれば自由じゃない?というスタンスです(ゴリゴリ加工の写真には全く興味もないですが)。
そいういやアサヒカメラの2019年9月号の米美知子さんのこの記事もかなり物議を醸したっけ。。。今は休刊になってしまいましたが
prtimes.jp

目が肥えると写真も動画も純粋に楽しめなくなるという弊害
今回の写真、二十年前の私が見ていたらすげー。綺麗!と純粋に思ったでしょう。そして今回もそう思っている人が一定数います。ある意味それが幸せなことだと思います。綺麗な写真を見て疑いの目で見るのは不幸なのかもしれません。今の世の中疑う能力は必要ですが、私自身、心が汚れてしまっているのかもと。
先日もiPhoneだけで撮られた下記のショートフィルムを見ていましたが、ボケ境界の不自然さや不自然なトーンに気づくともうストーリーが全く頭に入ってこない始末。冷やかな目で見てしまっていた自分がいました。
なので、純粋にiPhoneすげーよ!とは楽しめない自分がいました。なんとも不幸な話かもなと。。
どうにか写真や映像を始めた頃の純粋な気持ちに戻れないものか。。。
筆者:SUMIZOON
Facebookグループ一眼動画部主宰
Youtubeチャンネル STUDIO SUMIZOON の人
2011年よりサラリーマンの傍ら風景、人物、MV、レビュー動画等ジャンルを問わず映像制作を行うビデオグラファー。機材メーカーへの映像提供や映像関係メディアでレビュー執筆等を行う。Youtubeチャンネル「STUDIO SUMIZOON」登録者は1.4万人以上。Facebookグループ「一眼動画部」主宰。「とあるビデオグラファーの備忘録的ブログ」更新中。
