🧠 あらすじと概要:
あらすじ
『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』は、イーサン・ハント(トム・クルーズ)が率いるIMFチームが、暴走するAI「エンティティ」に立ち向かう姿を描いたシリーズ最終作です。本作は前作『デッドレコニング PART ONE』の続編で、エンティティのソースコードを巡るミッションが展開され、過去のキャラクターも再登場する中で壮大なストーリーが繰り広げられます。
記事の要約
映画を観た感想として、筆者は今作が“エモ”である点が強調されています。AIとの戦いが描かれる中で、観客に感情を呼び起こす演出がなされており、AI時代において人々が何を求めているのかという問いも提示されます。
"エモ"を武器にAIに挑むイーサンたち。AIに予測されない行動をとることで人間的な感情を表現し、AIには生成できないエモーショナルな瞬間を描くことが試みられています。記事では、パターン化されたエモを「エモ 1.0」とし、非物質的で対人間的なエモを「エモ 2.0」として分類。この「エモ 2.0」が本作の核心であり、ストーリーの複雑さとも関連しています。そして、映画のエピローグで提示される「Nothing is written.」というメッセージが示すように、AIに対抗するために必要な感情の重要性が語られています。
全体として、この感想文は映画の深いテーマやキャラクターの感情を探求しており、観客に新たな視点を提供しています。
『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』を観てきた。
『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』(2025年)は、シリーズ第8作にして最終章。イーサン・ハント(トム・クルーズ)率いるIMFチームが、暴走するAI「エンティティ」の脅威に立ち向かいます。前作『デッドレコニング PART ONE』の続編で、エンティティのソースコードを巡るミッションが展開されます。シリーズ初期のキャラクターも再登場し、過去と現在が交錯する壮大なストーリーが描かれます。トム・クルーズ自らが挑むアクションシーンも見どころです 。
今作は、想像していたよりも“エモ”かった。
映画界の旗手トム・クルーズによるシリーズ最終作だからという理由を加味しても、“エモ”が装置として物語の中に組み込まれ、観客にも“エモ”を投げかけている作品だと感じた。
「レコニング」2作はAIとの戦いを描いていたが、そもそもAI時代の現実世界では、人々は何を求めているのだろうか。
AIによるハイクオリティなコンテンツ?
否。
もう誰もジブリ風の画像生成をやっていない。みんな飽きた。
AI生成コンテンツを浴び続けると人は何も感じなくなる。“Nothing means anything.”(©️ヴェン from『マウンテンヘッド』)の境地。
AI不感症になった人々は、何を求めるのか。
ひとつは、理屈を逸脱した感情の起伏や発露。わかりやすいのは、ケンカコンテンツ※1。
(※1:3月に催された「討論倉庫 Vol. 0」にて、「いま一番人が集まるコンテンツは?」の問いに三宅香帆氏がまず“ケンカ”を挙げていた。その通りだと思う)
だから「令和の虎」や「BreakingDown」が人気になって、ひろゆきやホリエモンがブチ切れるたびにバズる。
人は、意味のわからないタイミングでブチ切れる人たちのわちゃわちゃをエンタメとして楽しむ。
そもそも人間は元来そういう生き物だが、AI生成コンテンツが蔓延した今、相対的にそういった過激なコンテンツをより有り難がり、面白がるようになった気がする。ブチ切れコンテンツは、まだAIには生成できない。
“理屈を逸脱した感情の起伏や発露”の例は、ケンカなんて物騒なものだけでなく、普通に愛とか、友情とか、信頼とかもそう。
『M:I/ファイナル・レコニング』がまさにそうだった。
ヴィランであるAI=“それ”(entity)を欺くために、イーサン(トム・クルーズ演)たちはAIが予測できない行動を取ろうと試みる。
そこで出てくるのが“エモ”。
彼らはAIを相手に、“エモ”を武器として戦う。いわば、AI(=概念)vs. エモ(=概念)の戦争になっていく。
多方で指摘されている今作のストーリーのわかりづらさ(複雑すぎる、抽象的すぎる、など)は、ある意味で必然。概念 vs. 概念の戦争を具体化してストーリーに落とし込むには限界がある。
ここで改めて“エモ”を定義してみる。
まず頭に浮かぶのは、“パターン化されたエモ”。通称パタエモ。2023年1月のツイートを発端にバズったやつ。
もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ、純喫茶でクリームソーダ、フィルムカメラで街を撮る、薄暗い夜明け、自堕落な生活、アルコール、古着屋、名画座、ミニシアター、硬いプリン、もう全部飽きた 面白くない
— 薺 (@_capsella_) January 8, 2023
「これらの固有名詞ってエモいよね」という共通認識の上で成り立っているパタエモは、2010年代以降のオタクやサブカル的なノリに、メンタルヘルスやエモラップ、シティポップやY2Kを筆頭とした昭和/平成ブームなどがごちゃ混ぜになって発生したもので、おそらく多くの人が理解はできる。
このツイート主は当時、これらの“エモ”が“パターン化”されたことを憂いている。つまり、感情と結びついた実体のない概念であるはずの“エモ”にパターンが生まれ、データベース化し、生成可能になったことを指摘している。
加えて、ここで指摘されている“エモ”は、どれも物質的なものである。「自堕落な生活」が少し怪しいが、不摂生な生活リズムや行動パターンのことで、これもある程度のフォーマット化はできる。
つまりパタエモは、文字通りパターン化できる物質の集積ということになる。
パタエモに代表される“エモ”を、「エモ 1.0」とする。
だとすれば、『M:I/ファイナル・レコニング』で描かれる“エモ”と、そこから観客が受け取る“エモ”は「エモ 2.0」な可能性がある。
パターン化不可能で、対人間でしか生まれない非物質的な“エモ”。
物質的でパターン化可能な「エモ 1.0」と、抽象的でパターン化不可能な「エモ 2.0」。
パリス(ポム・クレメンティエフ演)のセリフ “It is written.” が象徴しているように、今作はひたすらキリスト教※2の決定論的な展開で進む。
(※2: 一応の人的ヴィランであるガブリエルの名前は聖書に由来し、神=“それ”に選ばれた大天使の役回りをするが結局は失敗に終わる。)
AIがこの世の物語を設計し、メタ的に言えばこの映画の最後の展開まで設計している以上、スパイ映画/アクション映画を成立させるためのマクガフィンすら必要なく、あっても機能しない。
なんだかんだチームが結成されて、なんだかんだカウントダウンギリギリでイーサンが人類を救う、というプロンプトが最初に書かれている。それだけだ。
しかし、エピローグで遺言を残していたルーサー(ヴィング・レイムス演)はパリスとは対照的に、この映画の構造を否定するように “Nothing is written.” と語る。
神が構築するプロンプトに書かれていないことがあるとしたら、それは「エモ 2.0」だ。イーサンたちは、それを見つけ出し、うまく使った。
いつかAIも「エモ 2.0」を学習するだろうけどね。シンギュラリティ。
どうでしょう、「エモ 2.0」に毒された私のこの文章、エモかったですか?
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