🧠 概要:
概要
『父親の影、息子の皮』は、佐山大地が亡き父の年金を得るために、父の姿になりきって生活することで、自身のアイデンティティが次第に消失していく様子を描いた短編小説です。社会の目を避けながら「父」になりきることで、大地は父親として生き続けることを選びますが、その過程で自己を見失い、最終的には完全に父となってしまいます。
要約
- 佐山大地は三年前に父を亡くすが、年金の支給を止めたくないため、父の姿を模倣することを決意。
- 特殊メイクと服装で「佐山誠司」として生活し、周囲の人々に認知される。
- 大地は次第に父の姿に同化し、自身の存在感が薄れていく。
- 役所の介護区分再調査が迫り、大地は仏間で父の匂いを吸い込み、さらに深い同化を体験。
- 調査は無事に終わるが、仏間に死体は見つからず、木の棺桶だけが残る。
- 大地は父の姿で散歩を続け、近所の人々から認識され、自己のアイデンティティを忘れていく。
- 最終的に、彼は完全に「父」としての生活を送り、自分が「佐山大地」であったことを忘れてしまう。
玄関の鏡には、父の顔が映っていた。
いや、正確には、”父だった男”が映っていた。まばらな白髪、土気色の肌、分厚いレンズのメガネ。鼻の横には老齢特有の赤いしみもきちんとメイクで再現されている。完璧だった。完璧に「父親」になっていた。
「今日も、年金の確認に行かなくちゃな……父さん」
そう呟いた佐山大地は、ゆっくりと笑った。
───
父が死んだのは三年前の冬だった。炬燵の中で、まるで眠るように冷たくなっていた。救急車も呼ばなかった。冷静すぎるほどに、佐山大地は対応した。死体はそのまま二階の仏間に運び、布団をかぶせ、除湿機を強にして、ドアに厳重な鍵をかけた。
きっかけは年金だった。国から毎月振り込まれるあの恵みの光。止めたくなかった。父が生きていれば、支給は続く。誰にも知らせなければ、行政は気づかない。そう思った。
最初の数ヶ月は、郵便受けに来る書類を代理で返信し、口座からの引き落としに目を光らせていれば済んだ。しかし、近所の目は厄介だった。定期的に顔を出さなければ、いずれ不審に思われる。
そこで大地は「父になる」ことを選んだ。
通販で老人用のスーツ、カツラ、特殊メイク道具一式をそろえ、歩き方、声の震わせ方、咳払いのクセまで完コピした。買い物に出るとき、銀行に顔を見せるとき、散歩を装うとき、彼は父として外に立っていた。
───
「おはようございます、佐山さん。今日もお元気そうで」
「おお、おはよう、若いの」
近所の住人がそう声をかける。佐山大地はゆっくりとうなずく。父の名前は「佐山誠司」。息子の名は「佐山大地」。しかし最近、大地という名前を誰かに呼ばれても、反応できなくなってきていた。
ふとした瞬間、ふくらはぎに走る違和感があった。老いた筋肉の痛みだった。だが佐山大地はまだ四十代前半のはずだ。なのに、腰が重くなり、背中が丸まり、白髪が地毛になりつつある。
───
三年目の夏、大地は役所からの封書を開いた。〈介護区分の再調査〉とある。訪問調査員が来るらしい。対面不可避。
その日から、彼は仏間にこもり、父の匂いを吸い込んだ。寝間着をまとい、タバコのヤニと味噌汁の染み込んだ畳に頬を寄せた。何かが、内側から剥がれていくような感じがした。
鏡を見た。そこにはもう、自分の顔がなかった。
「……俺は、誰だった?」
問いは虚空に吸い込まれ、返ってこなかった。
───
調査の日、佐山大地は仏間に座っていた。父の服、父の顔、父の声。その全てが自然だった。若い女性の調査員は、何の疑問も持たずに問診を終えた。
「佐山誠司さん、確かにお元気ですね。今後もお体を大切に」
佐山大地は微笑んだ。
「ありがとう、娘さん」
───
その夜、仏間の布団をめくった。死体はそこにはなかった。
そこにあったのは、何も入っていない、古びた木の棺桶。なぜ棺桶が? いや、そもそも最初からここには死体なんて……いたか? 父が死んだのは夢だったのか? 自分は最初から父だったのでは?
冷蔵庫の写真立てには、父と息子が写っている。父の顔は、今の佐山大地にそっくりだった。息子の顔は、どこか見覚えがない。
───
翌朝、大地は公園を散歩していた。会う人は皆、彼を「佐山誠司さん」と呼んだ。
「お孫さんはまだですか?」
「はは、どうでしょうなあ……」
もう、自分が誰だったかなど、どうでもよくなっていた。背中が痛い。階段を上るのがつらい。入れ歯の具合も良くない。
そんな「現実」の感覚が、佐山大地にとって唯一信じられることだった。
───
そのまま大地は、父として生き続けた。
役所の記録にも、通帳の名義にも、近所の認識にも、もはや「佐山大地」は存在していなかった。
父は生きていた。
ただし、その中身が、かつて息子だったとしても──誰が気づくというのか。
年金は、今月も変わらず振り込まれた。
【了】
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