そんな噂を耳にした僕は、興味本位でそこを訪れた。
古びた木製のドアを押し開けると、店内は思いのほか小ぎれいだった。
カウンターの奥に座っていたのは、青白い顔をした、痩せぎすの男。目元に深いクマを刻んだ彼は、客である僕をじっと見据えた。
「……転送希望年数は?」
挨拶もなしに、男は低い声で尋ねた。
「十年後、でお願いします」
僕は答えながら、持参した封筒をカウンターに差し出した。
男はそれを無言で受け取り、しばし封筒を見つめた後、奇妙なことを言った。
「中身、見ても?」
冗談かと思った。しかし、男の目は真剣だった。
僕はしぶしぶ首を縦に振った。
彼は封を破り、中身の便箋を取り出すと、すらすらと目を走らせる。
――そこには、僕が十年後の自分に宛てた、たわいないメッセージが書かれていた。
《生きていますか?結婚できましたか? まだ絵を描いていますか?》
そんなありきたりな文面だった。
男は読み終えると、くすりと笑い、封筒を丁寧に閉じた。
「問題なし。これで、十年後に確実に届く」
そして、男はさらに奇妙なことを告げた。
「代金は、あなたの未来の一日分の時間で結構です」
「……え?」
「つまり――十年後、あなたは一日だけ、存在できなくなる」
冗談にしては、真剣すぎた。 僕は戸惑ったが、こんなファンタジーめいた話を本気にするのも馬鹿らしく思えた。
結局、男に同意し、署名を済ませた。
それから、十年が過ぎた。
──十年後。
僕は、立派とは言えないが、そこそこの生活を手に入れていた。
小さなデザイン事務所を経営し、結婚もし、娘も一人できた。
そんなある日、自宅の郵便受けに、見覚えのない古びた封筒が届いた。
開封すると、そこには、十年前の僕からのメッセージがあった。
《生きていますか?結婚できましたか? まだ絵を描いていますか?》
僕は懐かしさに胸を打たれながら、そっと微笑んだ。
そしてその夜、妻と娘とささやかな祝杯をあげた。
……その翌朝、目が覚めると、僕は、いなかった。
正確に言えば、「僕」という存在が、世界からまるごと消え失せていた。
家族は僕を認識していない。 事務所の従業員も、旧友も、誰一人として僕を覚えていなかった。
この世界に、僕という人物が、最初から存在していなかったように。
呆然とする中、僕は気づいた。
あの「未来郵便局」の男が言っていた意味を。
――代金は、未来の一日分の時間。
たしかに、たった一日だけ、世界から消える。
だが問題は、「一日不在だった」僕を、誰も自然には認識できないことだった。
一度消えた存在は、周囲の記憶からも抜け落ちる。 家族写真からも、社員名簿からも、戸籍からも。
この世界のあらゆる記録から、「僕」は一瞬にして削除された。
たった一日。
だが、それで十分だった。
もはや僕がいた世界に、僕の居場所はなかった。
……夜の街を彷徨いながら、僕は、あの「未来郵便局」へ向かうことを思いついた。
もしかしたら、元に戻す手段があるかもしれない。
あの店に、もう一度、行けば。
――だが、見つからなかった。
住宅街のその場所には、今やただの空き地が広がっていた。
風に吹かれて、空き缶が転がるばかりだ。
もう、どこにも、ない。
僕は空き地の真ん中で、ひとり呆然と立ち尽くした。
誰にも気づかれることのない、透明な存在として。
かつて自分があった場所さえ、何ひとつ残っていない。
ただ、足元に、白く風化した一枚の紙切れだけが落ちていた。
拾い上げると、そこには、こう書かれていた。
《転送完了》
思えばあの時、なぜあの封筒を持って行ったのか、自分でもわからない。
たまたま部屋の片隅に置いてあった便箋とペン、何気なく書き綴った数行。それが、十年後の自分のすべてを変えてしまうなど、誰が予想しただろう。
妻の表情が、まるで初対面の他人を見るような無関心さで僕をすり抜けた時の感覚は、言葉にできない。
娘の目にすら、僕の姿は映っていなかった。抱き上げても、彼女は泣くどころか、空気を掴もうとするような、奇妙な仕草を繰り返しただけだった。
職場では、僕の机がまったく異なる人物の所有物になっていた。
パソコンに保存されていたはずのデザイン案も、名刺の束も、まるで最初から存在しなかったように跡形もない。
恐怖とは、目の前に得体の知れない怪物が現れることではなく、世界がこちらをまったく認識しなくなった瞬間に、ひやりと背後から忍び寄るものだと、その時初めて知った。
そして僕は思い至る――あの郵便局は、本当に「郵便局」だったのか? なぜあの男は僕の手紙を開封した? なぜ中身を確認した?
あれは確認ではなく、「審査」だったのではないか?
つまり、送っていいか否か、ではなく。誰を、どこに、どんな方法で“転送”するのかを――。
転送。あの言葉を、文字通りに受け取るべきだったのだ。
未来に届くのは、手紙だけではない。あるいは、手紙はただの引き金であり、本当の目的は、僕という「存在」そのものを、十年後に送り込むための装置だったのではないか?
では、“送り込んだ先”の世界は、どこなのか?
今、僕が立っているこの世界は、本当に十年前にいた世界と地続きなのか?
それとも……。
ある瞬間から、時間の流れさえも自分だけが取り残されているように感じ始めた。
時計は進むが、季節の移ろいも、町の喧騒も、どこか上滑りしていて、まるで映画のスクリーンの向こう側を見ているようだった。
透明な僕には、もはや世界が干渉してこない。空腹も、疲れも、痛みさえも感じなくなっていた。
ただ、意識だけがある。考えることだけが残されている。
もしかすると――僕はもう、とっくに「転送」されたのではないか。 この場所が、未来などではなく、何か別の、概念上の倉庫のようなものだったとしたら。
誰にも見られず、触れられず、ただそこに保管されている存在。
そうだ。まるで……手紙のように。
【了】
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