アメリカのベイラー医科大学(BCM)で行われた研究により、マウスの脳の主要な視覚機能をコンピューター上で高精度で再現するというSFじみた話が実現しました。

研究では脳内の膨大な神経回路の働きをAIが学習し、目の前に提示された映像を神経細胞レベルでどのように処理しているのかを精密にシミュレートできることが示されています。

この“電子脳”があれば、従来は実験動物を必要としていた視覚実験やテストを、なんと仮想空間だけで行うことができ、わずかな追加データだけで個々のマウスに合わせた脳活動を極めて高精度で予測できるようになったのです。

私たちは本当に、コンピューター上の電子脳を使ってマウスの実験を自由に実施できる未来に近づいているのでしょうか?

研究内容の詳細は2025年4月9日に『Nature』にて発表されました。

目次

  • マウスの電子脳を作る試みが始まった
  • 深掘り解説:マウスの電子脳はどのように作られたか?
  • 脳をクラウド化する時代への第一歩

マウスの電子脳を作る試みが始まった

脳という存在は、何層にも入り組んだ迷路のように複雑で、私たちの想像をはるかに超えた情報を日々処理しています。

脳を研究するうえでマウスは重要な実験動物として長年使われてきましたが、頭蓋骨の中にはおよそ七千万~一億個もの神経細胞(ニューロン)が存在し、お互いに電気信号をやりとりしながら連携し合っています。

しかも、そのつなぎ目である“シナプス”のネットワークはあまりにも膨大で、全貌をつかむのは非常に難しいとされてきました。

一方で、研究技術の進歩はめざましく、マウスが映像を見ているときにどのニューロンが活動しているかを一度に何万個も観察できるようになりました。

さらに、電子顕微鏡を使って脳の微細な構造まで調べるプロジェクトも進行しており、ニューロンの形やシナプスの配置を詳細に把握できるようになっています。

これらの取り組みは脳研究の“ビッグデータ化”とも言える大変革で、大量の情報が日々蓄積されているのです。

しかし、その膨大なデータをどう整理して“脳の全体像”に近い機能モデルへつなげるかは、また別の大きな課題でした。

なぜなら、たとえばある映像をマウスが見たときに反応するニューロンのパターンは、マウスの個体差や映像の種類、マウスが置かれた環境の変化などで大きく変わるからです。

イメージとしては、同じ地図を使っているつもりでも、マウスによってコンパス(方位磁針)のずれ方が少しずつ違うような状態だと言えます。

ここで注目を浴びているのが、最近あちこちで耳にするAI、特にディープラーニング(深層学習)の技術です。

マウスの視覚野がどのように情報を処理するかを、人工ニューラルネットワークの各モジュール(視点情報、行動情報、核となる処理部、出力部)で図示
マウスの視覚野がどのように情報を処理するかを、人工ニューラルネットワークの各モジュール(視点情報、行動情報、核となる処理部、出力部)で図示 / この図は、マウスの視覚野がどのように情報を処理するかを、人工ニューラルネットワークの各モジュール(視点情報、行動情報、核となる処理部、出力部)で図示した、いわば「脳の仕組みの地図」です。マウスが見た映像や動きがどのように分解され、最終的に各ニューロンの反応として再現されるかという、全体の流れを示しています。/Credit:Eric Y. Wang et al . Nature (2025)

たとえば、写真の分類や文章の生成を行うAIの世界では、大量かつ多様なデータを事前に学習させる“ファウンデーションモデル”が次々と実用化されています。

犬や猫、風景、文字など、あらゆる画像や文章を一括で学んでしまえば、新しい分野の写真や文章にも柔軟に対応できる――こうしたアイデアは、複雑なマウスの脳研究にも応用できるのではないかと考えられているのです。

従来の脳モデルでは、たとえば自然の動画だけを使って学習させると、ギャボールパッチ(白黒の縞模様)やノイズなど人工的な刺激を与えたとき、一気に精度が下がってしまうことが多々ありました。

まるで「特定の町の地図だけは詳しいカーナビ」が、新しい道に入った瞬間に道に迷うようなものです。

これでは、脳がどうやって幅広い映像や状況に対応しているのかを十分には説明できません。

そこで最近注目されているのが、“ファウンデーションモデル”を脳科学に取り入れようとする研究です。

イメージとしては、「複数のマウスから集めた大量の映像・行動データを一つにまとめて、そこから“基礎となる要素”を抽出しよう」という感じです。

たとえば、いろんな街の地図を全部重ねてみて、「このへんは住宅街が多い」「ここは山がちで道が少ない」といった“共通項”を浮かび上がらせるイメージに近いでしょう。

そうやって見つけた“共通のコア”をAIに覚えさせれば、新しいマウスが登場しても、そのわずかな差分をちょっと補正するだけで「このマウスはこう反応しそうだな」と脳活動を予測できるようになる、というわけです。

さらに興味深いのは、電子顕微鏡で調べたニューロンの形やシナプスの配置が、AIが学習した「機能的な特徴」(脳がどんな計算をしているかを示す指紋のようなもの)と対応づけられる点です。

これによって、コンピュータ上で動いている“電子脳”が本当に実際の脳構造に近いかどうかを確かめられるようになってきました。

もし整合性が高ければ、その“電子脳”を使って仮想的な実験を行い、まだ試していない映像や条件での脳活動を予測したうえで、実際のマウス実験に役立てる――そんな効率的なサイクルが実現するかもしれません。

「電子脳」という言葉が使われる背景には、このシステムが数値モデルというよりは、実際のニューロンの活動や情報処理のメカニズムを“電子”の世界に移植し「仮想空間のなかに脳をそっくり作り上げる」という点があります。

もし本当にコンピュータ上の“マウス脳モデル”が、生きたマウスと同じようにいろいろな映像や状況に対応できるのなら、脳研究は新たな段階へと突入するでしょう。

実験動物を長時間観察する必要がないだけでなく、人の手間やコスト、さらには生命倫理上の負担も大幅に軽減できる可能性があります。

いつでも呼び出せる“電子脳”を通じて、私たちは脳の仕組みを仮想空間で詳しく調べ、理解を深めるチャンスを手にしはじめているのです。

こうした流れを背景に、今回研究者たちは複数のマウスから何時間もかけて集めた豊富な視覚データをAIに学習させ、まずは全マウスに共通する“コア”を作りました。

さらに、新しく登場したマウスには最小限の追加データだけ与え、自然界の動画だけでなく人工的なパターンにもどれほど対応できる“マウスの電子脳”が作れるかを確かめようとしています。

深掘り解説:マウスの電子脳はどのように作られたか?

全体の「共通のコア」となる脳の処理モデルを作り上げる流れ
全体の「共通のコア」となる脳の処理モデルを作り上げる流れ / この図は、まず多数のマウスから集めた自然動画データを使って、全体の「共通のコア」となる脳の処理モデルを作り上げる流れを示しています。 この共通のコアは、いわば「基礎地図」のように、複数のマウスで共通する視覚処理のパターンを学習するためのものです。 その後、新たなマウスに対しては、コア部分はそのまま固定し、各マウスに合わせた微調整(視点や行動、出力部分の調整)のみを追加で学習させます。 実験では、わずか4分から最大76分の自然動画データだけで、新しいマウスの視覚野の活動を高い精度で予測できることが確認され、従来の個体ごとに一から学習する方法と比べ大幅なデータ効率の向上が実証されました。 また、図は新たな刺激領域(静止画像や合成パターンなど)においても、このファウンデーションモデルがしっかりと機能することを示し、まるで「共通の地図」を少し補正するだけで未知の地域でも正確な位置が把握できるかのような柔軟性を表しています。/Credit:Eric Y. Wang et al . Nature (2025)

マウスの電子脳はどのように作られたのか?

研究チームの最初のアプローチは、まず「たくさんのマウスが、いろいろな映像を見たときに脳のどこがどんなふうに動いているか」を一気に集めて、大きな“共通の地図”を作ることから始まりました。

イメージとしては、違う国の地図を全部まとめて、どこに山があり、どこに街があるのかを一本化した“世界地図”を用意するような感じです。

すると、新しく測定したマウスが登場しても、その“世界地図”をベースにして少しだけ微調整すれば、たちまち「このマウスの視覚野はこんなふうに動くのか」と予測できるようになるわけです。

しかも、このモデルがすごいのは、自然界のリアルな映像だけでなく、模様や点々が動くだけのような“特殊な映像”に対しても、実際のマウス脳が見せる反応をかなり近い形で再現できる点です。

たとえば「山や川がちゃんと描かれた詳しい地図」を持っていると、街の配置だけを簡略化した地図でも大体の位置関係を推測できる――そんな想像をしていただくとわかりやすいかもしれません。

さらに、もうひとつの面白い発見は、こうして作られた“マウスの電子脳”が、実際のマウスの脳細胞の構造と見事にリンクしていたことです。

要するに、“脳活動”をバーチャルに再現するだけにとどまらず、その元になっている細胞の形やつながり方とも対応がとれている。

これは、「視覚処理の仕組みをほぼそっくり仮想空間に移植した」とでも言いたくなるような未来を感じさせる結果です。

この成果がなぜ画期的かというと、大ざっぱに言えば「動物実験でごそっと集めたデータをまとめてしまえば、新しく測ったマウスにも手早く応用できる」というところにあります。

まるで共有の“ベースマップ”を作るようにしておけば、あちこちのマウスでいちいちゼロから地図を作り直す必要がなくなるのです。

これによって膨大な時間や手間を省きながら、多種多様な“脳の動き方”を一気に予測できるようになるわけです。

そしてもし、この“電子脳”がさらに進化すれば、研究者はコンピュータの中で好きなだけ実験を試し、うまくいきそうなものだけを実際のマウスで検証するといったスピーディーな研究手法が可能になるかもしれません。

これは神経科学の常識を大きく塗り替えるだけでなく、“脳を理解する”という人類の長年の挑戦を加速させる大きな一歩と言えるでしょう。

脳をクラウド化する時代への第一歩

脳をクラウド化する時代への第一歩
脳をクラウド化する時代への第一歩 / Credit:Canva

今回の研究から見えてきた最も大きな収穫は、コンピュータ上で作り上げた“電子脳”が単なるシミュレーションにとどまらず、現実の神経細胞の構造や多様な映像刺激への応答を幅広く再現できる可能性がはっきり示された点です。

これまで脳の活動を理解するには、その都度動物実験を行い、膨大なデータを個別に解析しなければなりませんでした。

しかし、すでに蓄積されたビッグデータをもとに“共通コア”を一度作ってしまえば、新しいマウスへの適応や全く別の種類の刺激に対する予測を素早く行えるという画期的な道筋が拓けたのです。

これは研究者にとって、試行錯誤のプロセスを仮想空間に持ち込み、最小限の追加実験だけで目的を達成できるという大きなメリットを意味します。

同時に、このアプローチは脳科学の枠を越え、生命科学全般にも影響を及ぼすかもしれません。

いくつものマウス脳のデータが統合されることで、脳内ネットワークの一般的なパターンや、細胞形態と機能がどう結びついているかを深く探れるようになりました。

さらには、今回の手法をより多くの脳領域や行動下の状態へ拡張することで、私たちがまだ知らない脳の高次機能にアクセスできる可能性も高まります。

ヒトの脳や他の動物種に応用すれば、脳疾患の解明や神経ロボティクスへの転用といった新たな応用分野も見えてくるでしょう。

一方で、モデルがいかに万能化したとしても、最後の仕上げには現実の実験で確かめるステップが欠かせません。

仮想空間で得た結果を実際のマウス実験で検証し、その差分を再びモデルにフィードバックする循環こそが、今後ますます重要になっていきそうです。

また、今回取り上げられたのは主に視覚野における例ですが、人間の脳を含め、他の脳領域や多彩な感覚・行動領域にまで広げるには、まだ多くの技術的・倫理的課題も残されています。

たとえば、もし仮にAIの力によって人間の脳の完全な神経ネットワークが生成された場合、それは人間と言えるのかという複雑な問題にも発展しかねません。

現状はマウス脳の視覚機能という局所的な成功に留まっていますが、計算速度の加速度的な進歩を考えれば、人間の全脳の神経回路をAIが簡単に作成できる紐来るかもしれません。

それでも、複数のマウスから集めたビッグデータを活用し、高精度な“基盤モデル”を構築しておけば、実際の実験を最小限に抑えつつ脳研究を大きく前進させられるという発想は、神経科学のあり方を大きく変える可能性があります。

いわば「動物実験もクラウド化される」ような感覚で、研究者同士が共通のモデルやデータベースを活用しながら、より壮大で複雑な仮説にも対応していく未来が見え隠れしているのです。

脳という“究極の謎”に迫るうえで、コンピュータの中にもうひとつの脳を作り上げる手法は、今後さらに大きな飛躍をもたらしてくれるかもしれません。

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元論文

Foundation model of neural activity predicts response to new stimulus types
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08829-y

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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