
量子力学の世界では、電子がとれる状態を厳しく制限する「パウリの排他原理」という重要理論があります。
この原理を見つけ、1945 年にノーベル物理学賞を受けたヴォルフガング・パウリは、理性と計算の権化のような存在でした。
ところが彼は、“偶然の一致”や“夢と現実のつながり”という一見非科学的な現象にも強い関心を抱き、無意識と象徴を研究していた心理学者カール・グスタフ・ユングと交流がありました。
物質の最小世界を解き明かした物理学者と、心の深層を探る心理学者。この二人の意外な出会いが生んだのが「共時性(シンクロニシティ)」という概念です。
ユングは集団的無意識など特殊な理論の数々を発表していますが、証拠がなく基本的には正式な科学としては扱われていません。
しかし、現代においても彼の提言には多くの人々が関心を寄せています。
ユングとパウリ。まるで異なる分野の二人は、一体どのようにして出会い、どんな議論を重ねたのでしょうか?
今回は、正式な科学として受け入れられてはいないものの、この二人が生んだ興味深い哲学的な理論について紹介します。
目次
- なぜ量子物理学者が、無意識の研究者に出会ったのか?
- 共時性――心と物理が交差する“意味のつながり”
なぜ量子物理学者が、無意識の研究者に出会ったのか?
ヴォルフガング・パウリ(Wolfgang Pauli)は、量子力学の誕生において欠かすことの出来ない重要人物であり、20世紀初頭の理論物理学を牽引した天才の一人です。
かなり早熟の天才だったパウリは、学生時代には授業が退屈だからと机の下に隠して相対性理論の論文を読んでいたと言われており、21歳のとき書いた相対性理論の解説には、アインシュタイン本人も称賛を送ったといいます。
そして20代で排他原理を打ち立て、原子の構造と化学結合の謎を一気に説明し、後にノーベル物理学賞を受賞します。
しかし、その輝かしい業績の裏で、パウリは私生活ではかなり精神を病んでいました。
母の自殺、短期間での離婚、それに非常に難解な量子力学の世界。
パウリのような天才にも、物理学の世界から新たに広がった量子力学はかなり難解であり、苦労することが多かったようです。彼は「ともかく物理学は難しすぎて、自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのにと思う」という言葉も残しています。
さらに、仲間の物理学者ラルフ・クローニヒ(Ralph Kronig)が示した電子が実は自転しているという「電子スピン(electron spin)」のアイデアを相談された際、「電子はそんなふうになっていない」とかなり冷淡な態度で退けてしまったことも、パウリに深い後悔をもたらしました。
ラルフは天才のパウリに否定されたことで、電子スピン理論の発表を諦めてしまうのですが、そのすぐ翌年に、そっくりなアイデアを、ウーレンベック(Uhlenbeck)とゴーズミット(Goudsmit)という二人の学者が発表し、あっさり世間に受け入れられ、高く評価されてしまうのです。
そのためラルフはかなりパウリを恨んだといいます。
こうした出来事が重なってかなり精神的に参っていたパウリは、1932年、友人たちのすすめで心理分析を受けることにしました。
そこで彼が尋ねたのが、チューリッヒ大学の心理学者カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)だったのです。
そこでパウリは「自分の無意識に理性が侵されている」と語り、いくつもの夢の記録を報告します。このパウリの夢の内容はユング自身を驚かせるものでした。
夢に現れる象徴の数々――たとえば「4つの視点を持つ回転する鏡」や「幾何学的に分割された円盤」、「数秘的な構造を持つ対称図形」などは、ユングが“心の構造”を探るために用いる「マンダラ(mandala)」という象徴に非常に近いものだったのです。
しかしそれだけではありません。ユングがこうした夢の内容を分析した説明は、「二重性」「鏡像」「同時に成立しない視点の統一」などを示しており、それはニールス・ボーアが提唱した相補性のアイデアを想起されるものだとパウリは感じたのです。
相補性というのは後にコペンハーゲン解釈と呼ばれることになる理論の元になるもので、つまりは「観測するまで物事の状態は確定しない」という考え方に通ずるものです。
このため、パウリはユングの分析に自分の無意識下の物理的原理が反映されていると驚き、ユングもまた、パウリが無意識の深層と強く結びついている特異な被験者であると興味を抱きます。
パウリのように、科学の最先端を扱う理性の人が、まるで物理学の抽象概念そのものを象徴するような夢を自らの内面から生み出している――これはユングにとって極めて興味深いことだったのです。
やがてパウリは1000を超える夢を記録し、ユングとともにそれを分析していくことになります。
この分析を通じて二人がたどり着くのが、「心」と「物質」の世界をつなぐ共通の基盤が存在するのではないか、という仮説でした。
そしてそれは「共時性(synchronicity)」という理論へと結実していきます。
共時性――心と物理が交差する“意味のつながり”
二人の議論からまず生まれたのが「共時性(synchronicity)」という概念でした。
これは、時間や場所の因果関係では説明できないのに、意味によって結び付く出来事の一致を指します。
たとえば何年も会っていない友人を夢に見た翌日に、その友人に偶然再会する、といった現象があった場合、これを本当にただの偶然と考えるのではなく、因果関係はないとしても、夢と現実の間に何らかのつながりが存在すると解釈する考え方です。
パウリもこの考えに共鳴し、二人は因果関係がなくとも『意味で繋がっている現象』を共時性と呼んで共同で探究していったのです。(ここでいう「意味」とは、本人が「重要なことだ」「意味のあることだ」と感じる感覚を指します)
1952 年にユングが発表した論文を、パウリが何度も読み直し、論理のほころびを指摘しながら整えたことで、概念が形になりました。
そして二人の議論したもう一つの概念が、ラテン語で「ひとつの世界」を意味する「ウーヌス・ムンドゥス(Unus Mundus)」です。
これは意識(主観)と物質(客観)が結びついた、私たちの世界より上位にある次元の領域を指しています。物質と意識はそこからの投影であり、互いに因果関係がないように見えても繋がっていると考えたのです。
先程の共時性が起きるのも、物質と意識がこのウーヌス・ムンドゥスの領域で繋がっているからだということになります。
この考えはユングが提唱したものですが、パウリはこの考えが量子力学の「観測問題」や「量子もつれ(entanglement)」につながるのではないかと考えました。
量子力学には観測という主観的行為が、物理的な現実を確定させるという、直観に反した奇妙な性質があります。
「観測問題」は一般にはシュレーディンガーの猫などの話で広まっている考え方で、観測するまで物事の状態は確定しない(逆に言えば観測で状態が確定する)という問題です。
「量子もつれ」とは、2つの粒子がもつれた状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態も即座に確定するというものです。重要なのは、この2つの粒子が、空間的に非常に遠く離れていても、片方を観測することで同時に状態が決まる、という点です。
アインシュタインはこの奇妙な現象に対して、「不気味な相互作用(spooky action at a distance)」だと批判しました。
これは、自然界の出来事が空間的な接触や時間的な順序によってつながるという従来の因果的理解を、根底から揺るがすものです。
こう聞くと、先程の共時性の話となにか似ている気がします。パウリも同様に、この量子の非局所的な振る舞いが、意識と現実が繋がり合う共時性の構造と似ていると考えたのです。
もっとも、こうした理論は実験で確かめる方法がなく、科学コミュニティでは「検証不可能=科学ではない」とされています。学術誌でも疑似科学の範囲と見なされるのが現状です。
それでも量子論の不可解さに直感で迫ったパウリの姿勢や、学問の枠を越えて議論した歴史的意義は評価されています。現代の脳科学や複雑系研究では「全体のネットワークが非線形(連続していない)に働くことで意味が生まれる」という視点が登場しており、パウリとユングの対話を再び参照する研究者もいます。
パウリとユングの協働は、厳密な科学の枠には収まりませんでした。それでも、量子力学の創始者が「心」の世界に飛び込み、心理学者とともに物質と意識の橋を架けようとした事実は、科学史のなかできわめてユニークです。
パウリは厳密な証拠や根拠が求められる物理の世界で、非常に緻密な理論を作り上げた学者でした。だからこそ、なんの証拠がなくても自身の直感で世界を語れるユングとの対話を楽しんでいたのかもしれません。
共時性やウーヌス・ムンドゥスはいまも証明を欠く概念ですが、量子論の奇妙さと人間の主観体験を並べて考えるきっかけを与えてくれます。
意外と知られていないこの歴史の一幕は、科学と哲学の境界を行き来する面白さを、私たちに改めて教えてくれるのです。
元論文
Jung and Pauli: A Meeting of Rare Minds(PDF)
Click to access s7042.pdf
https://assets.press.princeton.edu/chapters/s7042.pdf
The Pauli–Jung Conjecture and Its Relatives: A Formally Augmented Outline
http://dx.doi.org/10.1515/opphil-2020-0138
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部
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