🧠 あらすじと概要:
映画「親密さ」あらすじと要約
あらすじ:
濱口竜介監督の映画「親密さ」は、舞台劇の制作過程を描いた作品。劇中劇の形式で進行し、演出家令子と脚本家良平の恋人同士の関係が軸となる。前半では、劇団員たちの準備期間を通じて彼らの人間模様が浮かび上がり、後半では実際の舞台が上演される。物語の核心は「親密さ」とは何か、そしてそれが生きることとどう繋がるのかを探求している。
要約:
映画は主に令子と良平の不安定な関係を描写し、言葉の意味や変わることの必要性について考えさせられる。彼らの間には愛情が存在する一方で、意見の相違や葛藤も生じる。対話を通じて互いに理解しようとするものの、結局関係は変わっていくという現実が描かれる。
特に感動的なシーンとして、口論の後に橋を歩くシーンが挙げられ、光によって美しさが増す瞬間が共感を呼ぶ。物語の終盤では、再会する二人がもはや異なる道を歩んでいることを知りながらも、会話の中で新たな親密さを感じる瞬間が描かれ、観客に多くの思索を促す。
この映画は、出会いや別れ、生きることの意味を深く考察するものであり、観る者に難解ながらも心に残る体験を提供する。
人は、ただ一回の人生の中であるべき物語を生きることができないから色々な物語を求めるのだと思う。
4時間15分の映画の中に、何度も人生を照らし、変えてくれる瞬間があった。
濱口竜介監督、親密さ(2012)を観た。映画に興味を持つきっかけになったドライブマイカー(2021)出会ってから、悪は存在しない(2023)を通り、ずっと観たかった映画なのだけど、やっと観ることができた。これ以上ない、映画体験になりました。堂々のオールタイムベスト。
物語はいわゆる劇中劇の形で構成されていて、「親密さ」という舞台劇にまつわる劇団員の人間模様が中心に映される。前半2時間は演出家と脚本家である令子と良平の関係を軸に劇団員の準備期間が描かれ、呼応する形で後半2時間に丸々、演劇が上映される。文字通り親密さについて、畢竟、生きることについての映画である。
話すこと・歩くこと
観るたびに濱口監督は言葉の人だなと思う。言葉の効用と究極的な無意味さ。
中心人物である令子と良平。同じ舞台劇に関わる2人は同棲している恋人ではあるものの、関係性には不穏な空気が流れている。脚本家である良平は自身の理想と現状で葛藤しており、令子に対して冷たい態度をとる。お互いの意見の些細な違い、性格の違いから衝突が増える。
令子は良平に対しあらゆる手段で関係の修復を試みる。間違いを指摘したり、半ばカウンセリング的なインタビューを行ったり、時には橋の上からバイト帰りの終電に乗る良平に投げキッスをおくる。
しかし、増大するエントロピーを止めることは誰にもできず、ある種2人の「親密さ」は失われていく。
良:なんで俺を変えようとするんだよ令:一緒にいたいからだよ、一緒にいたいから変わって欲しいんだよ良:なんでおめえが変わんねえんだよ令:私も変わるよ、望んでくれたら変わる*
令:本当は変わって欲しいわけじゃない。でもそのままでいいって思ってもらうっていうことは、やっぱり変わることなんです。
2人のインタビューのシーンと令子の本音
本当の意味で変わることって一体なんだろうか。そしてそのためには本当に言葉が必要なのだろうか。
この映画で最も美しいシーンについて。この数十分で短編映画にでも出来ちゃうくらいには良かった。
激しい口論の後、橋の上を2人で歩く。最初、画面は闇に包まれている。会話にならないような会話をして、2人は歩く。もうここで、令子は何も良平に対して話すことはしない。公演が終了すれば2人の関係性も終わることをなんとなく意識しながら、ただ歩く。
橋を渡り切るといつの間にか朝焼けが差し込む。カモメが飛び、2人の後ろ姿のパンショットが映される。なんて上品で美しい瞬間だろうか。
ずっとこの道が続いていけばいいのにと思う
一つの答え
生きる上で変わることは必要なのか。あるいは、親密さには言葉が必要なのか。濱口監督は一つの答えを提示する。
言葉は想像力を運ぶ電車です急行のような言葉や、各停のような言葉、地下を走る言葉もありますほんの一瞬 同じ速さで走るとき急行の中の想像力がうらやましげに各停をながめることもあるのですほんとうに大事なのは
想像力が降りるべき駅で降りること 次に乗り込むべき言葉に乗ること
劇中の詩の引用
出会いは別れであり、生まれるとは死ぬことである。それぞれの終着駅に向かって、物事は進んでいき、誰もその力学を止めることはできない。発した言葉は翼を持って関係性を生み、時に人生を変える影響力を持ち、また時にどこにも届くことなく消えることもある。
それが状況により暴力性や好意性を孕む事になる。
しかし僕たちはそれらに対して無力はなく、色々な速さの言葉について考え、想像することができる。例えば尊敬や思いやりや人文知に触れるという形で。
親密さ、あるいは生きること
ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論が示すように我々はこの世界の中で理解し合うことなんてできず、矛盾や誤謬を抱えながら幾つもの物語の中の役を演じていくしかない。
ーー舞台上映から数年後、2人は偶然田町駅のホームで再開する。お互い別々の道を歩んでいることがわかる。
それでもなお、だからこそ、2人の会話は恋人だった時の会話よりも、はるかに親密さに満ちている。
そしてもう交わることがない未来を感じながら、2人は同じ方向の、違う車線の電車に乗り込む。
山手線と京浜東北線は静かにスピードを上げて離れていく。刹那、窓の外お互いを発見し、2人は窓を観ながら電車の中を逆走する。眩しいほどの数十秒がすぎ、二つの電車は違う方向へと分かれていく。
劇中で橋を歩き、朝が立ち上がっていった時、さまざまなセリフが登場人物の中で紡がれた時、
そしてラスト、2人の物語が奇跡的に交差した時、
その瞬間における魂の振動こそが親密さなのではないのでしょうか。
ユーロスターの一等車のワインを盗んで走った数十秒、ボートの上でチームメイトの背中越しに見た見た朝焼け、
いくつかの海岸の景色。
僕たちは、劇的な快楽よりも、生きていて良かったと思える数十秒や一瞬と出会うために生きているのだと思う。
そんな瞬間がそれぞれの中に存在していること、そして出会っていけることを切に願います。
そういち
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