🧠 概要:
この記事の概要と要約は以下の通りです。
### 概要
この記事は、生命の起源、特にDNAやウイルスについての哲学的考察を行い、自動化システムとそれに伴う意識の発生について論じています。著者は、自動化されたプロセスが人間や生物にどのような影響を及ぼすかを探求し、その理解がもたらす不安や恐怖について語ります。また、社会や経済の中での競争やクリエイティビティの維持についても触れています。
### 要約の箇条書き
– 生命は自動生成システムから生まれ、魂や意志としての自覚はない。
– DNAの機能が組み合わさることで、高度な知能が形成され、洗練される。
– 自動機能は、魂の介在なしに生物の行動を制御する。
– 魂の定着には自己理解とメタ認知が重要。
– 自然災害をなくすためには、自分自身を完成させる必要がある。
– 著者は自己設計の世界を目指しているが、その道のりは独自である。
– 科学の発展がもたらす不安や恐怖は、未知の状態から既知の状態への移行に関連している。
– 自動化されたプロセスが失われれば、何が残るかが全く不明であることが人を不安にさせる。
– 今後の創作活動には、高度な感受性や思考が求められるが、その人材は希少である。
– 地球を出た後も競争を生き抜くためには、自己の力を強化する必要がある。
– AIが普及する中でも、人力での確認が不可欠な場面が多く存在する。
ゼロから生命が生まれるには自動生成システムが必要になる。つまりその時点で魂も意志らしい意志も存在しない。
一つの機能だけでは単純なDNAも、複数のDNAと機能し合うことで高度な知能が形成されていく。あるいは必要なものと不要なものが選別されることで洗練されていく。
結合を求める意志も分離を求める意志も、DNAやタンパク質などの化合物あるいは物理の外環境側からの作用による自動機能によって、魂からの制御なく自動化される。
つまり魂側から見れば、あるいは「魂がない状態から魂らしい意識の在り方を作り始めようとする時」には、それらの「自分が自動的に動いている個々の瞬間」に対して、同時に「それを俯瞰する自分の瞬間」を作り、「さらに俯瞰する自分を俯瞰して認識する自分」を作る。
後は自動機能の内にメタ認知受容体が築かれ、自分の自動化を監視する自分の存在を肉体の自分と魂の自分とが相互に認可することによって、魂は定着する。
つまり哲学的にはこう推察できる。この世界から地震などの自然災害を無くすには「自分を完成させる他ない」と。すると完成した自分を完成した世界に入れることができる。
僕の場合は「自分で自分が設計開発した世界に自分で設計した魂を送る」という目標設定で、これまでの進捗を得てきている。だからその点ではどうしても一般的な理想モデルとなることはできない。
しかしその間で得た進捗は共有できる。つまり僕の最終地点までは行き先は同じではないが、その途中までは同じということもある。僕は駅が未だ存在しない空き地を目指している。
とは言え「最適な進捗を得るためのモチベーター=強力な目標設定として使っているもの」でもあるため、それがどこまで真実のものとなるかは分からない。いずれにしても、日々成長し続けていく。天井はない。生きている間には地球の全ての知識を網羅しきれないと分かりきっている。
しかし皮肉にも、網羅しきれなくとも自動生成システムは地球と同等のものを全く異なる体系で作り出せてしまう。グレードによってサイズと時間の進行速度の違いが出るというものではあると思う。
そのようなシステムを実現した小さな模擬的な宇宙であれば、地球の内部でコンピュータを使って再現することも可能だろう。
失礼な話かどうかはこの際無視して口にすれば、もし地球の創始者もあらかじめ予見で現象や知識を網羅する前にシステムを用いて地球を開いたのだとすれば、その後には途方もない剪定作業に追われていることになる。
ウイルスや世界の存続に不都合な菌の殲滅や間引きなどもその剪定作業の一環と言える。科学も来るところまで来て、ここまで来たらそれらの摂理を隠し通す方も知らぬふりをする方も難しいというものなのかもしれない。
この記事は当初の冒頭を読んでのものとなり、遺伝学を網羅した知見に基づいてのものではないことを了承ください。
DNAのセキュリティの部分とブラックボックスの部分が特に気になってこの本を手に取った僕には、医学者の意識と生物学者の意識とで重要視される題材や方向性が異なることを思った。
グリフィスとアベリーの実験過程は、彼らの前提認識を想像しながら読む分には、ホラーな展開のように感じられた。彼らは実験によって事を明らかにするまでの間で、身の毛がよだつような霊的なものの作用も仮に検討したに違いない。
その「未知の状態から既知の状態を拓いていく怖さ」を思えば、最先端の研究者が信仰深くなるのも必然かと思った次第だった。
結論は「肉体は滅んでもDNAは残る」という今では常識となっているものだが、重要なのはその事実そのものではない。
「地球で自動化されている諸々の条件を失うことで自分から失われるものの数々を意識できていないことに自覚がない」場合が多いのだ。
足元に床がないのに床があると思い込んでいるかのような状態に、不安や恐怖を感じざるを得ない。生物学を知れば知るほど、魂の有無に不安や恐怖を感じるようになる。
統合失調症患者あるいは自閉症、あるいは繊細な感性を拓いた作家たちなどが言う「得も言われぬような漠然とした不安」というのを、言葉にして説明するなら、そういうものだろう。
「自動化されたプロセスに依存している自分たちが、その自動化されたプロセスから急に切り離されたら、何が残るかが全く見当もつかない」という、そんな魂の有無を問う不安や恐怖なのだ。
僕はここに「芥川や太宰、三島のこと」を書き、文壇は過去の泥沼から足を引っこ抜いて前を向くべきだと書きましたが、改めて芥川のことを考えた。
何故、僕が「編集と馬が合わずに揉めて滅茶苦茶になる予見」ばかりを繰り返して書く気になれなかったか。
たかだかの商業上の都合で出版社や編集局から「書け」と言われても、商業的な動機によって書けるような内容のものではないのだ、これは。
「営業も沢山勉強を積んでおかないとすぐにクビを切られる時代」であると告げておきたい。
簡単に表現できる程度のものは既に出尽くしていて、だとすれば更にそれより新規的で高度な作品を商業的な都合で求めるならば、より感度が高く繊細な思考回路を構築した人材が必要になる。そのような人材は「高くつく」のだ。
ただでさえ希少価値の高い人材を、簡単に他人を使い潰してしまうような奴隷使いに渡してしまっていては、世界的な損失となる。
そのことを重々熟慮しておけなければ、そのような会社は大したものを作り上げることができず、結果として大した稼ぎも出せない。
もしも地球を出た後、地球の平均レベルよりも高い平均レベルの世界に移ることになった時には、それでは少なくとも競争環境を生き抜くには心許ない。競争をやめるか力をつけるかのどちらかを選ばなければならない。
ここまで認識や感覚の粒度が細かくなると、さすがに不安定で、僕も芥川より長く生きられるか不安になってくる。場合によってはガウディのように、設計書だけを置いて退散することになるのではないかと、そう思う。
目の前に頼めば何でもやってくれるようなAIの数々がある中で、まだ人力での詳細な確認を要している現場の数々がある。デバッグほど慎重を徹さなければならない工程はなく、その環境を揺るがしてしまうわけにもいかない。
Views: 0