🧠 あらすじと概要:
この記事は映画「芝居に見える」を通じて、クイア・アクティビズムや人間関係における心理的なドラマを探っています。著者は、相手の期待や感情の動きを観察し、自らが演技をしているかのように感じる経験を描写しています。この感覚は、時に現実と虚構が交錯し、自分の行動が他者の期待にどのように影響するかを考えさせます。また、ニューロダイバーシティやトラウマの観点から精神的健康についても触れ、社会における規範や期待に対する疑問を提起しています。
この映画は、クイアな視点からドラマとリアリティの境界を探求し、観察と反応のスローモーションのような感覚を通じて、より深い自己認識と社会理解を促す作品です。
クイアは頭の回転が速い人が多く、そのテンポが好きだし、のびのびする。気楽に感じる。
よく、相手の心の動きが手に取るように分かって、馬鹿馬鹿しいと思うことがある。何だか、一気に冷めてしまう。覚めてしまう。
相手が、何かの気持ちを感じて、それに影響されて反応をするのが、スローモーションで起きているように観察できる。
全てがお芝居みたいに見える。
現実なのか 、演技をされて、騙されているのか、分からなくなる。
相手のしてほしいことが分かることが、よくある。それは、誰にでも起こると思うけれど。そうして、誰でもがしたことがあるように、相手の期待から自分の反応を、あえて、外してしまう。
相手がガッカりするのを観察して、やっぱりなと思い、自分でやったのに落胆する。
そういうやり取りは、敢えてすることを期待されていることもある。それが差別をはぐらかしたり、嘲笑して返したり、ファイトバックしたりするもので、それにオーディエンスがいる場合。
ドラマ。
クイア・アクティビズムや、イベントの舞台裏では、ドラマが起きるのは常だ。
自分で、期待に答えて、そういう反応をすると、泣きたくなる。嗚咽して。
そういうドラマをよく知っていて、避けるべき、という人たちの期待や行動も、よく見える。
私が観察している、この全体像とは何なんだろう。
起きているのは現実だ。でも、全てが、それぞれの重要なポイントでは、スローモーションで起きているように、見える。つまり、手に取るように観察できる。
ドラマトゥルギー。
アーグィング・ゴフマンの目にも、世の中は、そんなふうに映っていたのに違いない、と、思う。
ニューロダイバーシティゆえに。あるいはトラウマゆえに。
発達特性が典型でない場合持つとされる特性と、CPTSDの症状は重なっている。判別は困難だ。なぜなら、どちらかは、精神医学のリサーチに基づく、一つの分類の試行であるから。現段階での。
それは、これまでも、さまざまな精神疾患の症状であり、鑑別のポイントだとされてきたもの、であったのだけれど、精神病の、あるいは精神疾患の下位分類やり方の試行錯誤や改訂の中で、どれかに振り分けられてきたのだ。
加えて、そういう「症状」みたいなものは、強弱の差はあれ、誰でも経験したことがあったりするし、強く経験されて、生活に支障が出るような「イレギュラー」な場合に「アブノーマル」なのだし「次元が違う」から「病」や「障害」になる。
それを敢えて言語化すると「構築主義」などと「呼ばれる」が、なぜなら、精神医学の担い手の期待に背いて、彼らの営みを観察していて、メインロード彼らにとって、好ましくないから、だ。
敢えてあけすけに言うと、そうなんだけれど、そういう言い方は、学問の作法として問題があるの、ということになっている。
なぜなら、期待こそがnormと呼ばれるものだから。
背くとどうなるか?
みんな既に知っている。
さて、私の疑問は、皆の気持ちの動きや、期待が、スロモーションのように見えて、冷めた気持ちで、それを敢えて外してしまうときに、自分が一体、何をしているのか、だ。
トラウマの再演??
これまた演劇用語。
暗転。
ここで、いったん、幕間。
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