アメリカのワシントン大学セントルイス校医学部(WashU Medicine)で行われた研究によって、哺乳類の精子が体温より数度低い“冷え性”の状態から、雌の子宮や卵管に入ると突然ハイパーアクティベーションと呼ばれる激しい鞭打ち運動へ切り替わる「温度スイッチ」機構を発見しました。
「冷え好きな精子」は、ゴール直前であえて“湯船”に飛び込み、温度を合図に最後のギアを入れるわけです。
このスイッチは、精子の尾部に存在するセンサーが約37~38℃の暖かさを感知すると開口し、一気にイオンを取り込んで受精に必要な動きを引き起こします。
では、なぜ“冷え性”を好む精子が、温かな雌の体内で巧みに受精を成功させられるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年4月17日に『Nature Communications』にて発表されました。
目次
- 精子を活性化する『温度スイッチ』とは?
- 38℃でスイッチオン:精子が超活発になる瞬間
- 精子の温度スイッチは不妊治療に応用できる
精子を活性化する『温度スイッチ』とは?

哺乳類の精子は「温度にうるさい」ことで知られています。
ヒトを含む哺乳類では、精子は体温より数℃低い環境で最も活発に生存します。
そのため、多くの哺乳類は精巣を体内より涼しい場所に配置する進化を遂げました。
(例:ヒトや大半の哺乳類は精巣が体外にあり、イルカは血液を背びれで冷却してから精巣に送り、ゾウは耳で血液を冷やします)。
一方で、受精の舞台となる雌の生殖器官(子宮や卵管)は体温より高めの温度環境です。
この「涼しい場所を好む精子」が「温かい場所にいる卵子」を受精できるのはなぜか――長年の謎でした。
もし精子が本当に高温に弱いのならば、雌の体内に入ると同時に活力を失ってしまいかねません。
少なくとも精子の寿命とされる1週間は生き残れないでしょう。
研究者たちは、精子が温度そのものを手がかりにして自らを活性化させているのではないかと考え、その仕組みを探りました。
精子が受精直前に示す激しい運動は「ハイパーアクティベーション(超活性運動)」と呼ばれ、卵の殻(透明帯)を突破するために不可欠です。
この超活性運動を引き起こすカギとして、精子の尾部に存在しある種のセンサーとして機能する「CatSper(キャットスパー)チャネル」というカルシウムイオン通路が知られていました。
CatSperは精子にカルシウムイオンを流入させ、鞭を打つような力強い尾の動きを生み出します。
実際、CatSperが欠損したマウスやヒトの男性は不妊になることから、CatSperは受精に必須の分子機構と考えられてきました。
しかし、どのような条件でCatSperが作動スイッチを入れるのかについては謎が残されていました。
従来は「女性生殖器内のpH(酸・アルカリ度)の変化」や「霊長類では卵子周囲の黄体ホルモン(プロゲステロン)」が精子を活性化すると考えられてきましたが、後者は霊長類以外の多くの哺乳類には当てはまらず決定打ではありませんでした。
そこで注目されたのが「温度」です。
オスの精巣がわざわざ低温に保たれている事実からしても、温度が精子のスイッチを入れる直接の要因ではないかと推測されたのです。
本研究の目的は、この推測を確かめ、精子が温度センサー機能を持つかを明らかにすることでした。
38℃でスイッチオン:精子が超活発になる瞬間

研究チームはまず、マウスの精子に微小電極を取り付けて電流を測定する先端的な手法を用い、精子のイオンチャネル活動を直接観察しました。
徐々に周囲の温度を上げていく実験により、精子のCatSperチャネルが約33.5℃という特定の閾値で開き始めることが突き止められました。
33.5℃前後でCatSperに由来する電気信号が立ち上がり始め、それを超えるとカルシウムイオンの流入が急激に増大したのです。
この温度閾値33.5℃は奇しくもマウスの精巣内の温度とほぼ同じであることが分かりました。
つまり、平常時(精巣内)の温度ではギリギリ作動せず、それより少し温かい環境になると一気に作動するようチューニングされているのです。
実験では実際に、精子の周囲温度が38℃(マウス雌の体内と同程度)を超えたタイミングでCatSperの電気信号に明瞭なスパイク(急上昇)が観察されました。
CatSperが開通すると精子内にCa²⁺が流れ込み、精子の泳ぎ方はナビゲーション用の穏やかな動きから、受精に必要な激しい鞭打ち運動へと切り替わります。
これは、精子自体が「温度計」を内蔵しており、雌の体内という“暖かい目的地”に到達したことを感じ取って、自ら受精モードに入ることを意味します。
しかし、ここで新たな疑問が生まれます。
それほど敏感な温度スイッチが備わっているなら、オスの体内(精巣や精管の中)で体温が上がったときに精子がフライングで暴走してしまわないのでしょうか?
高熱を出した時や入浴・サウナで精巣が温まった場合など、受精前に精子がエネルギーを使い果たしてしまっては困ります。
この点について、研究チームは精液中に含まれる「スペルミン」という天然分子に注目しました。
スペルミンは精液(精嚢や前立腺の分泌液)中に豊富に存在する有機分子で、精子を取り囲む環境成分の一つです。
実験の結果、スペルミンにはCatSperの温度スイッチ機能を一時的にロックする働きがあることが判明しました。
言い換えれば、スペルミンは精子が男性の体内にいるあいだCatSperを安全装置のようにオフの状態に保つことで、たとえ温度が33.5℃を多少上回る状況になっても精子が早まって活性化しないよう防いでいるのです。
射精されると精子は精液から離れ、女性の生殖器官内に入っていきますが、その過程で徐々にスペルミン濃度が低下していきます。
するとロックが外れ、精子は初めて温度センサーのスイッチをオンにできるようになり、雌の体内の温かさを合図にCatSperが作動、受精に向けたラストスパートの泳ぎが始まるのです。
以上の結果から、精子は「温度」と「精液中の天然物質」の二重の仕掛けによって受精直前にのみパワー全開になるよう制御されていることが示されました。
精子の温度スイッチは不妊治療に応用できる

本研究により、哺乳類の精子は自前の「温度スイッチ」を使って受精のタイミングを図っていることが明らかになりました。
この発見はまず、生物学的な観点で哺乳類の精巣が涼しく保たれている理由を裏付けています。
精巣温度が約34℃以下に維持されるのは、CatSperチャネルが誤って作動し精子が寿命を縮めないようにするためだったのです。
実際、きつい下着の着用や長時間の入浴、あるいは高熱(発熱)などで精巣の温度が上がると精子数が減ったり受精能力が低下したりすることが知られていますが、新たな研究はそのメカニズムの一端を示唆しています。
言い換えれば、生活習慣や健康状態による精巣温度の上昇が精子内の温度スイッチを狂わせ、不妊の原因になり得るということです。
精子の質を保つためにも「精巣を熱から守る」ことが改めて重要だといえそうです。
一方、この温度スイッチは将来的な応用の面でも注目されています。
CatSperは精子にしか存在しないチャネルであるため、このスイッチを狙い撃ちすれば他の体細胞に影響を与えないピンポイントな介入が可能です。
事実、以前からCatSperを阻害する物質を使った男性用避妊薬の研究も行われてきましたが、必ずしも有効な成果は得られていませんでした。
本研究のリーダーであるポリーナ・リシュコ博士は、新知見に基づき「阻害剤を作る代わりに、温度でCatSperを活性化してスイッチを早送りで入れ、精子のエネルギーを先に消耗させてしまう方法も考えられます。そうすれば、いざ卵子に到達したときには精子は力尽きているでしょう」と述べています。
精子の“燃料切れ”を意図的に起こさせることで受精を防ぐこのアイデアは、まさに精子の温度センサー特性を逆手に取った新しい男性避妊アプローチと言えるでしょう。
また、CatSperの温度スイッチ機構やスペルミンの保護作用を詳しく解明することで、原因不明の男性不妊症の理解や治療にも役立つ可能性があります。
顕微鏡下では正常に見えるのに受精できない精子の事例において、温度感受性やスペルミン調節の異常が隠れた要因になっているかもしれないからです。
さらに、この知見は体外受精(IVF)など生殖補助医療の改善にも繋がるでしょう。
例えば、精子を保存・凍結して将来使用する場合に、温度変化や精液成分の管理を最適化することで精子の受精能力を維持できる可能性があります。
温度という身近な要因が、実は精子のスイッチを握る重要な信号である――この事実は、受精のプロセスがいかに繊細に制御されているかを物語っています。
自然は、生殖において「タイミングがすべて」であることを知っており、必要なときにだけスイッチを入れる巧妙な仕組みを進化させてきました。
今回の研究成果により、その精妙なシステムの一端が解き明かされ、人間を含む哺乳類の生殖戦略をより深く理解できるようになりました。
今後さらなる研究が進めば、この温度スイッチを活用した不妊治療や避妊法が現実のものとなり、私たちは新しい命の誕生に至る過程をより自在にコントロールできるようになるかもしれません。
科学者たちは、新たに得られた知識を武器に、生殖医療や避妊技術の革新へと歩みを進めています。
元論文
The essential calcium channel of sperm CatSper is temperature-gated
https://doi.org/10.1038/s41467-025-58824-0
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部
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