日曜日, 6月 1, 2025
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竹美映画評109 思想戦争の鬼、アグニホトリ監督 『The Kashmir files』(2022年、インド・ヒンディー語)竹美(タケミ・ガ・ミエタラ・オワリ)

🧠 あらすじと概要:

あらすじ

『The Kashmir Files』は、1990年にカシミールで発生したヒンドゥー教徒への迫害と虐殺を描いた映画です。物語は大学生クリシュナが、祖父の遺骨を持って故郷のカシミールを訪れるところから始まります。彼はかつての祖父の友人たちと再会しますが、彼らは過去の「事件」について話すことを避けます。クリシュナは、カシミール問題に関連する重要なミッションを抱えながら、それぞれ異なる「真実」と向き合っていくことになる。作品は、彼が抱える葛藤と共に、衝撃的な残虐シーンが続き、観客に強い印象を与えます。

記事の要約

この記事は、Vivek Ranjan Agnihotri監督の『The Kashmir Files』についての感想であり、映画が持つ深いテーマに焦点を当てています。著者は、アグニホトリ監督が自身の思想戦争に対する執念を表現し、特に思想転向の痛みを描いた点を称賛しています。映画は反イスラム主義の印象を持たれることもありますが、著者は、それがインド政府と国民に対する手厳しい批判として読み取れることを強調しています。クリシュナの冒険と内面的な葛藤を通じて、アグニホトリ監督は知識人層に対して問題提起を行い、観客に考えさせる作品に仕上げています。映画は、当時の社会問題を映し出しつつ、深く掘り下げた演出により、著者に強い感情的影響を与えました。

竹美映画評109 思想戦争の鬼、アグニホトリ監督 『The Kashmir files』(2022年、インド・ヒンディー語)竹美(タケミ・ガ・ミエタラ・オワリ)

何度か言及してきたものの、観る勇気がなくて3年もの間保留してきたVivek Ranjan Agnihotri監督渾身の政治スリラー、『The Kashmir files』を観た。

概要

本作は1990年にカシミールで起きたヒンドゥー教徒への虐殺と迫害、そして多数のヒンドゥー教徒が故郷を捨てざるを得なくなった事件をもとにしている。

大学生のクリシュナは、祖父プシュカル(アヌパム・カー)の遺骨を持って家族の故郷であるカシミール地方を訪れる。彼を迎えるのは、かつての祖父の友人たち。30年前の「事件」について口を閉ざす彼らだったが、クリシュナは、ひそかにカシミール問題に関連する重要なミッションを抱えていた。

祖父の友人たちの口から語られる「真実」、大学教員と学生団体が語る「真実」、カシミールで知る「真実」がクリシュナの中で激しく対立し、もつれ合う。

そうした内面的な葛藤に覆いかぶさって来る目を覆いたくなるような残虐で衝撃的なシーンが最後まで続く。ぐったりしてしまった。

鬼気迫る映画なんて最近殆ど観ていない気がして、心を削られた。アグニホトリは本作で、己が政治思想戦争を死に物狂いで戦い続ける修羅の男であることを証明した。

現時点で彼の最高傑作だと思う。

思想戦争の鬼、アグニホトリ監督の執念

本作は、一部の狂信的ヒンドゥー教徒が勘違いしたように、一見反イスラム主義の映画のようにも見えるし、その見方も間違いではないと思う。

上記の記事は何とかバランスを取ろうとしている方だと思うし、3年前ならば概ねこの記事の通りに解釈したと思う。

しかし、インド歴4年目の私には、インド国内の反イスラム感情と国家主義の危険なマリアージュという見方を超えて、アグニホトリ監督が新しいインドのためにと考えていることがひしひしと伝わってきた。

彼は、新しいインドは資本主義と自由主義を守れる「まともな」人間たちによって更に成長するのだと信じている。そして、現状その健全な発展を阻害しているのは、左翼的知識人による分裂主義的で反インド的な世論形成だと見ている。

大学、マスメディア、映画界、言論界などにひそむ極左シンパを「Urban Naxals」と呼んで、この10年戦って来た。『Buddha in a traffic jam』はそうした作品群の始まりだったと言える。

https://.com/takemigaowari/n/nc46ff4804312

本作のクリシュナは最後、明らかに左翼学生の集会と分かる場所で演説をぶち、彼の見つけて来た「真実」を学生たちと教員にぶつける。

おそろしく勇気のいる行為だ。その場の皆が信じる世界をたった一人でぶち壊す賭けに出るのだから。

思想転向とは自分のそれまでの居心地の良い結界をぶち壊して外の世界に飛び出していく激しい精神運動だと私は思う。本作でアグニホトリは血の涙が流れるような苦しい体験として思想転向を描いた。

それがアグニホトリ監督自身が歩んできた道であり、彼の戦場だ。

言葉で人をずたずたにするのだ!!しかしそこでのセリフが非常に刺さった。

カシミールをこうしたのは誰か。それは僕であり、ここにいるみんなだ。誰も真実を知ろうとしないからなんだ!

The Kashmir filesより

本作の中でも最も血しぶきの上がるセリフの一つであろう。裕福なインテリなのに何やってんだよと。

繰り返すが、本作が反イスラム教徒映画に見える人もいる。狂信的ヒンドゥーにとっては血沸き肉躍るという感じになった人もいたようだ。

が、私は、これはインド政府と国民に対する手厳しい批判と読めた。全員に、そして特に富裕なインテリ層に猛省を迫っている。宗教は関係なく、あなたはインド国民として、インド政府と国民から見捨てられ忘れられてしまった同国人をどう思うんですか?と訊いているのだ。

ちなみに、カシミールを追われたヒンドゥー教徒はPanditと呼ばれ、作中でも高位カーストに属すると説明され、主に裕福な層だったとみられる(ちなみにアグニホトリ監督はバラモンの出身で、裕福なインテリ家庭の出身)。

アグニホトリ監督の批判のターゲットも呼びかける相手も、裕福なインテリ層であることは分かっておく必要がある。

またこの事件を取り上げた映画は何と本作の2年前、2020年に公開されていた模様。

読み切れない位のテキスト量でこの事件について書かれたWikipediaを読めば、もっと色々な背景が出て来るのであろう。

https://en.wikipedia.org/wiki/Exodus_of_Kashmiri_Hindus

Urban Naxalsと思想転向

クリシュナを熱心に極左シンパに導いていく大学教員のラーデカ役は、Pallavi Joshi。彼女はアグニホトリ監督作品の常連(私生活では監督の妻)だが、今回は監督の言うところのUrban Naxalsで、カシミール独立運動のシンパを演じている。非常に魅力的でカリスマ性のある、いかにも「真実」を知っていそうな教授には迫力があった。

余談だが、彼女は作中自分で歌を歌っているが、これがとても上手い。歌手としても活躍できるほどの腕前に驚かされた。

アヌパム・カーは、監督が最も苦しかった時の作品で上述の『Buddha in a traffic jam』にも出演し、また、アンチ・ボリウッドのフェミニストで現与党の国会議員であるカンガナー・ラーナーウトの『EMERGENCY』にも出演している名優だ。

恐らくだが、カーは信念を持って物事に向き合うが故に不遇をかこっている映画人を見過ごせないのではないかという感じがする。

ラーデカが支持する「カシミール独立」とは彼らにとってかけがえのないものだ。アーザーディ=自由という言葉が何度も叫ばれる。彼らにとっての自由とは、民族自決のことを指しており、国家によってバックアップされるしかない自由民主主義のことではい。民族自決は善なのだから、それを邪魔するものはすべて悪だと考える。

極左シンパかつカシミール独立派シンパ(テロリストを活動家として肯定ないしは容認する立場)のラーデカ―ははっきりとクリシュナに言う。「政治は物語だ。悪役を探しなさい。悪役、それは国家よ」と告げている。

これを生活苦に追われる少数派の闘士が言うなら分かるのだ。だが、アカデミズムという国の支配層に属する富裕なインテリ層が言うからショッキングなのだ。

言論の自由とは罰のレベルで、なぜそうなるのか?ということと、そうしたアカデミアやマスメディアの反国家的な言論が、実際にはインドに何を引き起こしてきたか?とアグニホトリ監督は憤っているのだ。

『Buddha』ではアヌパム・カーが、本作ではPallavi JoshiがそうしたUrban Naxalsとして若者に立ちはだかる。 

カシミール独立派のリーダーは恐ろしい。革命家としての狂気を隠しもしない。アーザーディ=民族自決を信じ、そのためならどんなに残虐なことでもやってみせる。

露悪的な描き方でもあったが、説得力はあった、革命家とは、変革に犠牲はつきものだと言えてしまう冷酷な人間なのだと。そして皆のためになる何かを作り出す(イノベーション)のではなく、そこにあるものを壊し、奪い、別のものをでっち上げる(極左的革命)のだとはっきり分かるのだ。

彼らはイスラム教徒として動いているが、極左が宗教をバックアップにするテロリズムを支援する…まさに世界のあちこちで起きていることを捉えており、恐ろしい映画だと思った。

プロパガンダ映画としては駄作の『The Kerala story』なんか足元にも及ばない。

その恐ろしい革命家を演じたのは、マラーティー語映画で、マラーター王国の英雄Shivaji Maharajを何度も演じているChinmay Mandlekarだと知ってびっくらこいた。えーーーあの人なの???

全く気がつかなかった

「国家=お上は悪いものだ」という信念とは?

日本のみならず、欧米のマスメディアやアカデミアは基本的に「国家とは悪だ」と言っている。

国家の利益より個々人の人道的配慮を優先することが無上の価値を持つ…これはこれで大事な建前だ。それが建前として通用しているのが、所謂先進国の特権性だったのだと思う。

日本の多くのマスメディアは「お上の言うとおりにするやつ」は悪い人間なのだというナラティブを繰り返し語るし、映画も、大半の研究者の発信もそうなっている。

韓国映画やタミル映画、意識高い系ホラーのソーシャル・スリラー作品が手放しで称賛される状況とはそういうことなのだと私は思う。

私は20年前に恩師から「もう左翼は終わったから、思想転向しなさい」と指導され、それがうまくできずに大学院を去り、今でもそれを考え続けている。

そういう私にとっては、先進国の社会が、人道主義は建前ではないのだと示す道の中で左傾化したことにはかなりショックだ。二十年もかけて思想転向=己の訂正と向き合ってきたのに。

オワコンなんかじゃなかった。Urban Naxalsがそこら中にいる。埼玉県や世田谷区は既に彼らに包囲されているのではないか。そんな気さえするようになった。

インドでは、アイデンティティ政治が必要な側面もあったと思う。ただしそれは、いつか役割を終えて発展的に解消されなければ国としてのインドはいつまでもバラバラのまま。

作中でも、アイデンティティ政治を厳しく批判するシーンがあった。そういうやりとりの中でクリシュナは思想戦争に身を投じていく。それが監督の人生なんだろう。

アグニホトリ監督の言動すべてに同意はしないが、そうした己の信念を貫き通している監督への尊敬の念は増した。この時代の肥やしになるんだという気概でいる。鬼だ。

他方でインドではアイデンティティ政治的な映画は相変わらず元気で、それはそれで意味があるとも思う。映画としては面白いしそれでよい。国家ばっかり見つめるようになったらそれはそれでバランスが悪い。

しかしながら、現在先進国では、人道主義の最優先と抱合せのようなアイデンティティ政治的な価値観のもとでの左傾化した社会はさほどいいものではなかったのではという疑問が提起され、訂正が始まっている。移民や難民の受け入れや、進歩主義的なジェンダー施策などが特にやり玉に挙がっている。

現在の左傾化は、経済政策においては資本主義を堅持しており、経済的に富裕な人びとによって推進されている、人道主義チャリティーみたいなものだ。

日本では周回遅れで今やあの自民党がはっきりと左傾化している。マスメディアやアカデミアは大分前から左傾化している。

左傾化した社会だから、左傾化の『訂正』とは極右的反動であり、悪が蔓延っているかのように批評される。インドのように人道主義そっちのけで国益優先に突っ走る国が特に英米メディアから非難を浴びるのは分かる。そうでしょうとも。

でもインド社会と国家は、多様性を包摂することがいかに難しいかを知っている。数々の紛争や暴動やテロを経験した結果として、権威主義的になり、人道主義なんか建前なんだという姿勢を隠さない。

はっきりとヒンドゥー教徒以外を差別することを決めたし、ガイジンにも厳しい。しかしながら、人道主義に基づいた(あるいはそれを偽装した)アイデンティティ政治ばかりやっていると、すぐに紛争や内乱、暴動になる…そういう風に恐れている気がする。小さい悪を容認することで大局的に物事を乗り切る。

恐ろしくタフな国、インド。アグニホトリ監督の考えるインドとはそういう国なのだろう。



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