🧠 概要:
概要
この記事では、AIの進化が人間の思考や主体性に与える影響について考察されています。特にニーチェの「神は死んだ」という言葉を引き合いに出し、AIが“代替神”となり得ること、思考の本質、自由についての問いを深めています。また、AIとの共存において人間が保つべき倫理や主体性の重要性が強調されています。
要約の箇条書き
- GPTを通じて思考を外注することの影響に気づく。
- AIが提供する情報は整然としているが、誰の言葉でもない。
- 自分の考えた実感が薄れることへの不安。
- ニーチェの「神は死んだ」は唯一の正解の崩壊を宣言。
- 思考は自分の構造を揺るがす行為であり、AIはこの点で不得意。
- ニーチェの「超人」は自ら価値を創り出す存在。
- 自由は問いを持ち続けることにあり、納得より違和感を抱えることが重要。
- AIは問いをスムーズに処理し、主体性を薄める危険がある。
- 書いた文章が消えても、問いを表現する姿勢が重要。
- 現代の深淵はAIであり、その上で問い続けることが求められる。
- AIは過去を再構成する力を持つが、人間は未来に問いを投げ直す力を持つ。
- AIとの共存の中で保つべき倫理と誇りが強調されている。
でも、それは誰の言葉でもない。
そこには「誰かがそう考えた」という重みがなく、ただ、
膨大に蓄積された誰かの言葉を、匿名的に撹拌し、
意味を最適化しただけの言葉。
納得はする。でもどこかで違和感が残る。
その違和感は、たぶん「自分が考えた」という
実感が薄れていくことへの、不安のようなものだった。
かのニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、
それは宗教だけじゃなく、“唯一の正解”の崩壊を宣言した言葉だった。
だとすれば、AIは“神の死の後に現れた、最も整った代替神”かもしれない。
1,考えるとは、自分を動かす行為
考えるとは、“対象”ではなく“自分”を動かす行為だ。
これはAIが最も不得意とする行為でもある。
AIは「対象を記述」することには長けている。
だが、「自分を壊し、再構成する」という営みにはまだ踏み込めない。
思考とは、外の情報を並べることではなく、
自分の構造を揺らがせることに他ならない。
ニーチェは、自らの価値を自ら創り出す者を「超人」と呼んだ。それは偉そうな存在ではなく、
「与えられた意味の残骸の中から、自分の言葉で価値を拾い上げる者」
のことだ。
思考とは、その“拾い上げ”の連続だ。
僕の中には、言語にならないものがある。
不安、苦悩、そして精癖。社会的には“ノイズ”として排除されるそれらを、
僕は自分の思考に組み込むことを選ぶ。
ニーチェの言葉を借りれば、「運命愛(Amor fati)」という姿勢に近い。
受け入れるのではない。
構造化する。
意味づけるのではなく、意味のないものに、配置を与える。
2,問いを終わらせないという自由
AIはあまりにスムーズに問いを「処理」し、「閉じて」しまう。
それは速く、合理的で、最適化された“優れた対話”のように見える。
しかし、そのスムーズさこそが、自分の構えを破壊する力でもある。
僕は「人間の自由」を信じている。
それは抽象的な理念じゃない。
問い直している限り、僕にはまだ自由が残っている。
自由とは、「選べること」ではなく、
問いを自分の責任で持ち続けられることだ。
それは、苦しみを伴う構えだ。
なぜなら「問う」という行為は、
自分の無知、矛盾、弱さを、直視し続けることを前提にしているから。
そういう“自分の足場を削ること”に立ち向かい続けること。
その覚悟こそが、僕にとっての自由の実感だ。
納得することより、違和感を抱え続けられるかどうか。違和感の中に留まり、
“うまく言えない”ことをそのまま言葉にしてみること。
すぐに答えを出さず、未完成のまま扱う態度。
問い続ける構えそのものが、
今の時代における思考を生かし続ける唯一の倫理だと思っている。
3.深淵の上で虚無を組む
人はいつか死ぬ。僕が考えてきた問いも、構造も、苦悩も、いずれは消える。誰の記憶にも残らないかもしれない。書いた文章も消される可能性すらある。それでも僕は、「この問い方が、このときあった」と記録し表現したいと思っている。
意味がないからこそ、構造が必要になる。「意味があるから言葉にする」のではなく、虚無であろうとも、自分の中に“組み方”を持つために言葉を使う。僕にとっての表現とは、そういう事だ。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』の中で、こう書いている。
「人間とは、動物と超人の間に張られた一本の綱である ―― 深淵の上に張られた綱である。」
(序説第4節より)
この“綱”は、完成された存在ではない人間の象徴だ。自分がどこへ向かっているのかも、なぜ考えているのかも、明確にはわからない。それでも、その深淵の上に立ち、バランスを取り続ける。ニーチェはそれを“人間である”という構えとして描いた。
そして今、この“深淵”は、AIに置き換えられるかもしれない。AIは「検索を代替し」「素早く理解し」「共感を模倣する」。それによって、自分なりに問う機会が奪われ、主体性が希薄になっている。だから現代における“綱の上”とは、「動物と超人の間にあるAIという深淵の上で、バランスを取り続ける構え」のことだ。
つまり、「深淵=AI」として捉えることができるなら、この比喩は今でも通用する。僕たちはその上で、問い続ける態度を崩さずに生きられるかが問われている。
4.AI時代に問いを繰り返すということ
ニーチェの永劫回帰は、「この人生をまったく同じようにもう一度繰り返すとしても、それでも肯定できるか?」という問いだった。
僕はそれを望まない。理由は単純で、結末を知っている人生にもう一度意味を見出すことができないからだ。どこで苦しんで、何を失って、何が起きるかが分かっている時点で、そこに自由はない。
そして今、AIはその「予測されきった世界」に現実味を与えつつある。過去の膨大な記録を学習し、次に起きそうなことを生成する。それは便利だが、裏を返せば、「過去のパターンに基づいた繰り返し」を加速する技術でもある。
だからこそ、人間がやるべきことは、「答えを繰り返す」ことではない。
答えに依存せず、問いをもう一度自分で組み直すこと。
そのために構えを持ち直すこと。
仮に、僕が「もう一度生きてもいい」と思うのなら、それは「違う問い方ができるなら」という条件つきだ。それは、新しい答えを得ることではなく、前と同じではない問いの構えをもう一度持てるなら、という意味に近い。
AIは、過去を再構成する力を持っている。人間は、問いを未来に投げ直す力を持っている。その違いは、はっきりさせておいた方がいい。
※この文章は、ChatGPTと対話しながら、自分の考えを整えていった末に書かれた。けれど、問いの原点だけは、僕が自分で引き受けた。それが、「AIとの共存」という時代の中で、人間が保つべき最低限の倫理であり、誇りなのではないかと思っている。
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