街角を見上げれば無数の監視カメラ、手元のスマホには位置情報、SNS では閲覧履歴――いまや私たちの暮らしは “誰かの目” に包まれています。
オーストラリアのシドニー工科大学(UTS)で行われた研究によって、「見られている」と感じるだけで脳が即座に警戒モードへ入り、他人の顔を“発見した”と自覚するまでの時間が平均で約1秒も短縮されることが示されました。
もし監視カメラの赤いランプひとつが、気づかぬうちにあなたの注意力やストレス反応までも左右しているとしたら――私たちはこの監視社会とどう向き合えばよいのでしょうか?
研究内容の詳細は『Neuroscience of Consciousness』にて発表されました。
目次
- “見られる社会”の落とし穴
- 見られるだけで脳が即フル稼働
- サバイバル脳が招く代償
“見られる社会”の落とし穴

いつも誰かに見張られている——そんなプレッシャーは、私たちの表向きの行動を変えることが知られています。
心理学では古くから「観衆効果」として、他人の目があると人は頑張ったり良い行いをしたりする傾向が報告されてきました。
例えば、誰かに見られていると思うだけで、寄付を多くしたり、盗みや嘘・ごみのポイ捨てを控えたりすることが多いのです。
私たちは評判を気にして行動を調整し、「見られている場面」で恥をかいたり罰を受けたりしないよう無意識に努めているわけです。
しかし、オーストラリアのシドニー工科大学(UTS)の神経科学者カイリー・シーモア氏ら研究チームは、監視の影響はそれだけに留まらないのではないかと考えました。
防犯カメラに代表される現代の監視社会は年々高度化し、プライバシーへの懸念が高まる一方で、その人間への心理的影響、とりわけ無意識レベルの影響については分かっていない点が多くあります。
人は他者の視線や顔を敏感に感じ取る特別な能力を進化させてきましたが、もし「見られている」と感じたときに私たちの脳内で自覚できない変化が起きているとしたら、それは社会にとって見過ごせない問題かもしれません。
シーモア氏は「従来の研究が明らかにしてきたのは意識的な行動の変化だけでした。
そこで私たちは、監視されている状況が人間の基本的な知覚や認知といった不随意(自動)過程に及ぼす影響を初めて直接検証しました」と述べています。
見られるだけで脳が即フル稼働

監視はヒトをどう変えてしまうのか?
謎を解明するため研究チームは、54名の被験者を「監視あり」グループと「監視なし」グループに分け、その知覚能力を比べる実験を行いました。
監視ありグループの被験者には実験前に自分たちのいる実験室の様子が隣室のモニターにライブ中継されるのを見せ、部屋の中の複数のカメラが自分を映していることを強調しました。
一方、監視なしグループではそうした演出は行わず、被験者は通常通り実験に臨みます。
両グループの被験者には共通して、コンピュータ画面に現れる「顔」をできるだけ早く見つけ出す課題が与えられました。
この課題には、人間の顔に対する脳の反応速度を測る工夫が凝らされています。
被験者は特殊なめがねをかけ、左右それぞれの目に別々の映像が映し出されました。
一方の目にはカラフルで目を引く画像(いわゆる「モンドリアン模様」)が高速で点滅し、もう一方の目には人間の顔写真がごく薄暗く表示されます。
このように派手な画像で注意を逸らすことで、反対の目に映った顔を一時的に意識から隠すのです。
徐々に顔写真のコントラストが上がり被験者に見えるようになってくると、ある瞬間にふっと人間の顔が知覚できるようになります。
被験者は「今、顔が見えた!」と思ったらすぐにボタンを押す決まりで、その反応時間から「顔が意識にのぼるまでにかかった時間」を測定しました。
言い換えれば、脳が無意識下でどれほど早く「そこに人の顔がある」と察知できたかを比較できるわけです。
では結果はどうだったのでしょうか。
シーモア氏によれば、監視カメラに見られていた被験者は、見られていなかった被験者よりも顔に気づくまでの時間が平均で約1秒も短縮したとのこと。
たった1秒と思うかもしれませんが、この種の無意識的な知覚過程において1秒の差は非常に大きな効果です。
実験では顔写真の中でもこちらを見つめる「正面を向いた視線」の顔と横を向いた「そらした視線」の顔を混ぜて提示しましたが、どちらの場合でも監視ありグループの検出速度向上が認められました。
さらに研究チームは、この結果が「監視されて緊張したから反応が速くなっただけ(社会的期待に応えようとしただけ)ではないか」という疑いも検証しました。
追加の対照実験として、全く同じ手順で人の顔ではない模様(ガボールパッチと呼ばれる中立的な縞模様)を見つける課題を行ったところ、監視あり・なしグループ間で反応時間に差は見られませんでした。
つまり、監視カメラに見られることで特に人の顔に対する感度が高まるのであって、何に対しても単に反応が速くなるわけではないことが分かったのです。
また被験者への事後アンケートでは、監視ありグループの人々も「監視のせいで自分の成績が変わったとは思わない」と答えており、主観的には影響に気付いていませんでした。
シーモア氏は「被験者自身は監視されていることにそれほど不安や意識を向けていないと報告しましたが、それにもかかわらず基本的な社会的情報処理にこれほど大きな変化が生じていたのです」と語っています。
サバイバル脳が招く代償

この研究は、「見られている」という状況が私たちの無意識的な知覚を変容させうることを初めて実証的に示しました。
では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか?
専門家たちは、人間の脳に備わった生存本能的な仕組みが関与していると見ています。
シーモア氏は「私たちが他者の視線や顔に素早く気付ける能力は、元々は捕食者や周囲の人間から身を守るために進化したハードワイヤード(生得的)な機能です。それが監視カメラに見られている状況でさらに強化されるようだ」と説明しています。
言い換えれば、防犯カメラの“目”が自分に向けられていると知った途端、脳内では無意識のうちに太古からのサバイバルモードのスイッチが入り、周囲の人間の存在や視線に対して過敏な状態(ハイパー覚醒)が引き起こされるのかもしれません。
実際、精神医学の世界でも極度の被監視感は重要な症状として知られており、シーモア氏は「統合失調症や社会不安障害では、他人に見られているという考えにとらわれるあまり、他者の視線に過敏に反応してしまう視線過敏が見られます」と指摘しています。
今回の研究結果は、監視社会に生きる私たち健常な人々の中にも、知らず知らずのうちに軽い視線過敏のような状態が広がっている可能性を示唆していると言えるでしょう。
一方で、この変化は必ずしも私たちに良い方向ばかりをもたらすとは限りません。
ウォータールー大学(カナダ)で社会的認知を研究するクララ・コロンバット氏は、「この無意識過程において約1秒もの差が生じたのは非常に大きなことです。注目すべきは、その効果が人の顔という社会的な刺激に限定され、抽象的なパターンでは見られなかった点です。ただ緊張感で反応が速くなったのではなく、他者から向けられる関心に対して選択的に脳が反応したことを示しています」と解説しています。
コロンバット氏らの最近の研究では、人の目だけでなく「自分に向けられた他者の注意」全般に対して人は敏感に反応することが示唆されています。
例えば、視線が合わなくても相手の口元がこちらを向いているだけで作業記憶(ワーキングメモリ)が低下したり、三角錐のような無生物の図形であっても尖った先端が自分の方を向いていると感じれば脳が素早く検知したりするという報告があります。
これらは『マインド・コンタクト(心的接触)』と呼べる現象です。要するに、他人の視線そのものだけでなく、自分が誰かの注意の的になっているという事実そのものが、私たちの認知に影響を及ぼすのです。
シーモア氏は「監視カメラがこれほど社会に浸透している現代では、その影響を公衆のメンタルヘルスの観点からも注意深く検討すべきだ」と強調します。
本人の自覚なく脳に負担がかかり注意力が削がれてしまう可能性や、常時軽いストレス状態に晒されることによる長期的な影響について、今後さらなる研究が求められています。
防犯や利便性のために導入された監視技術が、皮肉にも私たちの心の健康に見えない代償を強いているのだとしたら――私たちは「安全とプライバシー」のバランスについて、これまで以上に慎重に考える必要があるのかもしれません。
今回の研究は、絶え間ないビッグ・ブラザーの視線の下で生きる私たちの無意識の世界に光を当て、その重要性を教えてくれているのです。
元論文
Big brother: the effects of surveillance on fundamental aspects of social vision
https://doi.org/10.1093/nc/niae039
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部
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