「今月も180時間でストップね。お客様への請求上限だから」
金曜日の夕方、自社の営業から届くお決まりのメール。でも、目の前にはまだ終わらないタスクの山。
「あの、まだ機能実装が3つ残ってて…」
「それは分かってる。でも契約は140~180時間。君たちエンジニアで何とかして」
SESエンジニアの現実です。客先のプロジェクトマネージャーは平然と言います。
「来週までに全機能テスト完了でお願いします。工数?それは御社の問題でしょ」
180時間の契約上限。でも実際に必要な作業時間は250時間。差分の70時間は「エンジニアの努力」という名のサービス残業で埋められる。
自社に相談しても返ってくるのは、こんな言葉。
「君の基本給には固定残業代45時間分が含まれてるから大丈夫」
「あ、そうそう。来期からチームリーダーね。管理職だから残業代なくなるけど、頑張って」
部下なし、決裁権なし。でも「管理職」の肩書きだけはしっかりつく。
こんな状況を労働基準監督署に相談しても…
「SES契約の実態は複雑でして…」
「勤怠記録上は180時間以内に収まってますよね?」
まるで取り合ってもらえない。でも諦めるのはまだ早い。
実は労働基準監督署には「監察室」という、監督官の業務を監査する部門が存在するのです。
本記事では、厚生労働省の公式情報と法令に基づいて、IT業界のサービス残業問題と労基署を効果的に動かす方法について解説します。
厚生労働省の公式Webサイト1によると、労働基準監督署の監督指導業務に対する苦情・ご要望・ご意見を受け付ける窓口として「労働基準監察室」が設置されています。
監察室の主な業務は、労働基準監督署の監督指導業務が適正に行われているかを監査し、必要に応じて改善を促すことです。つまり、監督官の対応に問題がある場合の「監督官を監督する部門」として機能しています。
監察室への連絡方法
1. メール窓口
厚生労働省のWebサイト1から直接苦情を申し立てることができます。
2. 郵送
厚生労働省労働基準局監督課労働基準監察室
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2
3. 各都道府県労働局
事業場の所在地を管轄する都道府県労働局の監督課でも相談を受け付けています。
重要な点として、このメールフォームで受け付けた苦情は「監督指導を担当した労働基準監督官に直接送付されることはありません」と明記されています。これにより、安心して相談できる仕組みになっています。
平成29年1月20日付け基発0120第3号「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」2により、使用者には以下の義務があります。
- 始業・終業時刻の確認と記録
- 原則として客観的な記録(タイムカード、ICカード、パソコンの使用時間記録等)による把握
- 自己申告制は例外的措置であり、厳格な要件が必要
さらに、2019年4月施行の働き方改革関連法により、労働安全衛生法第66条の8の33が新設され、労働時間の客観的な把握が法的義務となりました。これは管理監督者を含むすべての労働者が対象です。
労働時間を適正に把握していない場合、労働基準法第37条4による時間外労働の割増賃金支払い義務違反となり、6か月以下の懲役又は30万円以下の罰金が科される可能性があります5。
みなし残業制度の適正な運用
IT業界で多く見られる「みなし残業代(固定残業代)」制度には、最高裁判例6により以下の要件が必要です。
- 基本給と固定残業代の明確な区別(明確区分性)
- 固定残業代が時間外労働の対価であることの明示(対価性)
- 実際の残業時間が固定残業時間を超えた場合の差額支払い(差額精算合意)
これらの要件を満たさない場合、固定残業代制度自体が無効となり、改めて残業代の支払いが必要となります。
「労働者派遣事業と請負により行われる事業との区分に関する基準」(昭和61年労働省告示第37号)7により、適正な請負と認められるためには以下のすべての要件を満たす必要があります。
- 業務の遂行に関する指示その他の管理を自ら行うこと
- 労働者の業務の遂行に関する評価等に係る指示その他の管理を自ら行うこと
- 労働者の始業及び終業の時刻、休憩時間、休日、休暇等に関する指示その他の管理を自ら行うこと
- 労働者の労働時間を延長する場合又は休日に労働させる場合における指示その他の管理を自ら行うこと
これらの要件を一つでも満たさない場合、偽装請負として職業安定法第44条違反8(1年以下の懲役又は100万円以下の罰金)となる可能性があります。
労働局需給調整事業課の役割
偽装請負の相談は、労働基準監督署だけでなく、都道府県労働局の需給調整事業課も窓口となります。需給調整事業課は労働者派遣法に基づく指導監督を行う専門部署であり、偽装請負の認定や是正指導を行います。
厚生労働省の「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準」(令和3年9月14日基発0914第1号)9により、以下が過労死ラインとされています。
- 発症前1か月間におおむね100時間を超える時間外労働
- 発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働
過労死ラインを超える長時間労働により労働者に健康被害が発生した場合、企業は安全配慮義務違反10として民事上の損害賠償責任を負う可能性があります。
医師面接指導の義務
労働安全衛生法第66条の811により、月80時間を超える時間外・休日労働を行った労働者から申出があった場合、事業者は医師による面接指導を行う義務があります。2019年4月からは、管理監督者も対象となりました。
監察室に相談する際は、以下の点を明確にすることが重要です。
労働基準監督署の監督指導業務に対する苦情・ご要望・ご意見|厚生労働省
【A. 基本情報】
・日時、2024年4月10日 14:00〜14:45
・労働基準監督署名、東京中央労働基準監督署
・担当監督官名、第2監督課 佐藤太郎 監督官
・相談内容概要、サービス残業是正指導の要請
【B. 問題となった対応】
- 監督官の具体的発言
「自己申告の記録がないと時間外と認められません」と繰り返された。 - 提出証拠への反応
PCログ提出時に「提出不要」として受取拒否。 - 発行文書の内容
調査票の残業時間欄が空欄のまま返却された。 - 不適切と考える理由
客観記録を無視する行為は労働時間適正把握ガイドラインに反する。
【C. 法的根拠】
・労基法第37条(割増賃金)違反
・労働時間適正把握ガイドライン(基発0120第3号)
・最判H12.3.24(三菱重工事件)、PCログを証拠採用
・2023年A社事例、同様証拠で是正勧告
【D. 改善要求】
- 未払い残業代是正勧告の発出
- 立入調査の再実施
- 証拠未精査のための再調査
- 月次で進捗報告
申請時の注意事項
相談内容は具体的かつ事実に基づいたものである必要があります。感情的な批判ではなく、法令に基づいた指摘を行うことが効果的です。また、証拠となる書類(メール、録音、写真等)がある場合は、その存在を明記しておくことも重要です。
IT業界には、サービス残業、偽装請負など、様々な労働問題が存在します。しかし、法的な枠組みと相談窓口は整備されています。
労基署の監察室は、監督官の対応が不適切な場合の重要な相談窓口です。労働時間の客観的把握は法的義務であり、偽装請負には明確な判断基準があります。また、過労死ラインを超える労働には健康管理義務が発生します。
「IT業界では当たり前」という言葉に惑わされず、法的な権利を正しく理解し、適切な窓口を活用することが重要です。私たちエンジニアは、優れたシステムを作るだけでなく、健全な労働環境も作っていく必要があります。
監察室の存在があまり知られていないのは残念ですが、実際に機能する仕組みです。この記事が、同じような状況で悩んでいる方の参考になれば幸いです。
もしこの記事が参考になったら、LGTMをお願いします。労基署や労働局を活用した経験、SESの偽装請負問題で困った経験がある方は、コメントで共有していただけると嬉しいです。知識の共有が、業界全体の改善につながります。
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