水曜日, 11月 26, 2025

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国際法の父フーゴー・グロティウス(蘭)【1583-1645年】

現代のニュースでも時々耳にする「国際法」「公海の自由」「講和条約」なんて言葉ですが、その源流をたどると17世紀オランダの法学者フーゴー・グロティウスに行き着きます。 国家どうしに最終判決を下す“裁判官”がいない世界で、何 Source link

合戦には馬も刀も使わないのが常識だった? その1

『白兵戦は消耗が大きい』白兵戦とは白兵(刀のついた武器)のみを使って戦いこと。つまりは近接戦のことを指します。戦国時代のイメージといえば、さかんに刀を振り回しな Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その3

『足長坊主』武器としてポピュラーなのは、やはり手裏剣なのでしょう。張り出した数本の切っ先にトリガブトの抽出液や破傷風菌の入った土などを塗っておき、これを追手に投 Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その2

『忍術とは道具しだい』よく映画などで忍者が水面を歩いたり、城壁をすいつくように登ったりする場面を見ることがあります。これらはいわゆる忍術と呼ばれるものですが、忍 Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その1

『戦国時代は日雇い身分?』忍者の役割は敵の情報を入手したり、あるいはかく乱を行うことであり、そのためには窃盗や殺人など非合法活動も行わなくてはならない。いわゆる Source link

近代産業の発展②【松方財政と企業勃興】

前編では、鉄道・郵便・電信や地租改正、国立銀行から日本銀行(1882)へ至る基盤整備、そして、官が見本を示すこととなった富岡製糸場の始動や内国勧業博の開催までの経緯をたどりました。 後編の今回は、松方財政による引き締めと Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その3

『戦国時代に諸武術が出現』その後、流派はさまざまに分かれ、一刀流、新陰流、佐々木巌流などが誕生し、剣豪小説に登場するような剣士が多数生まれ、やがて一流一派を唱え Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その2

『流派の誕生』戦闘の必要な能力も馬上から放つ弓矢に代わって、地上での薙刀や刀の能力が求められるようになる。兵法二天一流このような地上戦になれば、剣でも槍に秀でた Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その1

『流鏑馬(やぶさめ)の流行』戦国時代は、鎌倉時代までに比べると戦闘方法が大きく変わった時期です。戦国時代に入るまでは、騎馬による個人戦法が中心であった。まず、敵 Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その3

『それでも伝統文化の中心として権威を保ち続けた天皇家』朝廷が力をふるっていた院政期には、ある一地域に限っただけでも220もの荘園があったことを考えたら、激減など Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その2

『朝廷の収入』その次の後奈良天皇も、皇位を継いだのは1526年(大永6)であったが、やはり10年後の1536年、大内・毛利の両大名の支援を得られるまで即位式は行 Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その1

『後柏原天皇、後奈良天皇』戦国時代の天皇家は、後ろ盾となる室町幕府も実質的な力をもたず、また天皇領もわずかしか残っておらず、経済的には非常な困難な状況にあった。 Source link

とにかく早熟! その3

『女の子の元服・鬢曾木(びんそぎ)』女子にも男子の元服にあたる「鬢曾木」という儀式があった。「鬢」とは頭の左右の髪の毛「曾木」は「そぐ」の意で、少女がはじめて髪 Source link

近代産業の発展①/富岡製糸場から八幡製鉄所へ【日本の産業革命近代産業の発展】

日本が“農業国”から“工業国”へ転じた道のりは簡単なものではありませんでした。 こうした流れを経て工業国に変わっています。ここでは年号を丸暗記する前に日本が工業国になるまでの流れとしてたどっていこうと思いますが、ちょっと Source link

とにかく早熟! その2

『加冠の儀』元服では「加冠」という重要な儀式が行われた。これは髪を整えた少年に烏帽子をかぶせるというもので、この加冠の役を務める人を烏帽子親といった。悠仁さま「 Source link

とにかく早熟! その1

『早かった元服』時代劇や時代小説にしばしば登場する「元服」という言葉。ご存じのとおり、男子が成人、すなわちひとり前の大人になることをいう。元服式「元」は頭、「服 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その3

『木綿は高級品』さらに戦国時代に入ると、最後に着た小袖を肌脱ぎ、つまり上半身だけ脱いで腰の周りに巻き付けて着たのである。これを腰巻と呼んだが、和服の下着である腰 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その2

『小袖、肩衣、袴』もうひとつの直垂から変化した略装に素襖がある。素襖が武家社会で定着すると、活動に不便な袖を取り去って、活動的、実用本位の肩衣となってくる。肩衣 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その1

『公服は大紋』武家の男の装束は、平安時代の狩衣を上に着て、下には狩衣袴、後に指貫をはいたものから、改良されて鎌倉時代の直垂へと変化した。大紋を着用する毛利元就公 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その3

『礼儀作法は細やかだった』この他、主人への書状を渡すときには左手に持ち、申し上げることがあれば同時に言上する。跪座(きざ) 主君への最上級の礼読めといわれた場合 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その2

『出仕時には餅を食べて』出仕時をはじめ、武士の日常生活にはさまざまな作法があった。『早雲寺殿二一箇条』では、出仕してもすぐに主人の御前には行ってはならず、次の間 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その1

『武士は早寝・早起き』戦国時代の武士はふだんどのような生活をしていたのか。この疑問を解く手がかりとなるのが、小田原の後北条氏の祖・北条早雲が家臣に与えた処世訓『 Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その3

『信長が謀反にあわなかったら、日本の食文化は変わっていた』日本では仏教の影響で古くから肉食がタブー視されていましたが、実際にはウサギ、イノシシ、タヌキなどの獣や Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その2

『安土桃山時代には懐石料理が成立』中・下級武士の食生活の実態は、石田三成の家臣・山田去暦の娘おあむの手記『おあむ物語』(1711~1716年頃)に垣間見ることが Source link

日露戦争後の国際関係:韓国併合・満鉄・辛亥革命を一連の流れで

1905年に日本は日露戦争に勝利し、国際的地位を高めていきました。 この事実を教科書では“列強入り”の象徴として語りがちですが、実際の現場で起きていたのは軍事の勝利を、国際社会の黙認確保と統治・経済の制度化による既成事実 Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その1

『主食は雑炊や粥』武士の食生活と一口にいっても、大名や大将クラスの上級武士と中・下級武士では天と地ほどの差がある。中・下級武士の食事は「粗食」という言葉がぴった Source link

日本史視点から見た日露戦争とその前後の国際関係

江戸後期、日本に漂着した「はんべんごろう」(ベニョフスキー)の手紙は翻訳の行き違いも手伝って「ロシアが攻めてくる」というイメージを日本社会に残しました。この一件は、誇張半分ではあったものの恐露感情という“北からの不安”を Source link

戦国時代のマイホーム その3

『早寝早起きで子だくさん』台所や風呂場は剥き出しの土間。それに燃やす薪は濡れないように、土間や軒下に積み上げてある。井戸はこの近くに掘ってあると便利だった。便所 Source link

戦国時代のマイホーム その2

『瓦葺は大へんな贅沢品』武士の家を訪れると、まず門が出迎える。立派なものでは長屋門、やや簡素になって四足門、腕木門が出迎える。長屋門それに続くのが板塀だったり、 Source link

戦国時代のマイホーム その1

『武士の屋敷は広かった』なによりも万事実用的にというのが、戦国時代の家の建て方。上級武士の従者であれば、その武士の門の脇が長屋になっていて、そこに住んだ。会津の Source link

切腹には作法があったの? その3

『江戸時代の切腹は首打ち?』この「内臓をつかんで投げる」という行為は、苦痛に耐える勇気と潔さの表現だったのだが、人によっては腹を切る激痛のために、実際にはそのよ Source link

切腹には作法があったの? その2

『初期の切腹は悲惨』それでは、実際の切腹の方法とはどのようなものだったのでしょう。室町時代の資料によれば、切腹には、切腹する本人、介錯人の他に、立会いの武士、控 Source link

【変な名前の外国人①】はんべんごろう──翻訳の誤解が恐露感情を生んだ漂着者ベニョフスキー

日本史の片隅に、ちょっと変わった名前が記録されています。 その名も「はんべんごろう」。まるで江戸の浪人のようですが、実は18世紀ヨーロッパで“冒険譚の主人公”として名を馳せた モーリツ・ベニョフスキー(Maurice B Source link

切腹には作法があったの? その1

『切腹は体面を保った』時代劇の影響なのか、切腹というと、何かの犯罪を犯した刑罰として与えられるものと思われがちであるが、そもそもは自害の手段であった。切腹例えば Source link

戦場でのケガ治療は その3

『如何わしい治療方法よりも温泉』また、小便も魔法の水のように考えられていたらしく、刀でつけられた傷がひどく痛む場合には「自分の小便を飲め、陣笠にためおいて、あと Source link

戦場でのケガ治療は その2

『獣の糞は特効薬』『雑兵物語』から、いくつか「治療例」とされるものを紹介しましょう。出血したり、鉄砲の弾が当たり激しい内出血がおこった場合には、傷の血が胴に溜ま Source link

【社会契約説】ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年)の思想について詳しく解説

ホッブズやジョン・ロックに少し遅れたジャン=ジャック・ルソーも、彼らと同様の枠組みである社会契約説を唱えた人物です。ただし、前提条件となる自然状態などが異なるため、同じ“社会契約説”でも中身はだいぶ異なります。 ※社会契 Source link

戦場でのケガ治療は その1

『金創医』戦国時代に限らず、戦場には怪我はつきものです。しかも、身分の低い者にとっては、「ケガの功名」という文字の通りに、怪我が戦いの功績につながっていたのだか Source link

夏の終わりに

『御宿に行ってきました』暑い夏が終わらないので、外房の御宿に泳ぎに行ってきました。いつものお気に入りのホテルです。海に行くにあたり、お風呂で犬かきの練習をしまし Source link

戦いの主力は騎馬戦

『合戦で上手く馬をあやつるための秘訣 その3』鞭の入れ方は、『家中竹馬記』に、犬追物には馬に尻を打つが、平常時に尻を打つのは見苦しいので、左の首または耳の先を打 Source link

戦いの主力は騎馬戦

『合戦で上手く馬をあやつるための秘訣 その2』では、馬の乗り方には、どのような方法があったのでしょう。当時の乗り方は『今川大双紙』にあります。右手で馬の右のおも Source link

【社会契約説】ジョン・ロック(1632-1704年)の思想について詳しく解説

ジョン・ロックは17世紀のイギリスに生まれ、祖国では「経験論の父」と呼ばれる哲学者です。 ちなみに、経験論とは「人の知識は経験に由来する」という考え方。古代ギリシアから存在した考え方ではありますが、17~18世紀頃の合理 Source link

戦いの主力は騎馬戦

『合戦で上手く馬をあやつるための秘訣 その1』武田信玄というと、絶大な破壊力をもっていた騎馬隊を思い出す人も多いと思いますが、この時代の戦いは馬上での戦いが中心 Source link

戦場でも女性が主役

『戦場で欠かせない産業は女性が仕切っていた? その3』位が高い武将の場合、妻や側室を陣中に同行させることも珍しくなかった。前述の小田原遠征の際、秀吉は包囲攻めに Source link

戦場でも女性が主役

『戦場で欠かせない産業は女性が仕切っていた? その2』もちろん、戦国時代も例外でなかった。商売をするため自発的に遊女たちが戦場に集まってくるほか、敵城を包囲して Source link

17~18世紀の政治思想と経済思想①【社会契約説とは何か─ホッブズ・ロック・ルソーをやさしく比較】

『科学革命』とは自然科学が大幅に発展した出来事や時期のこと。その自然科学に向けられていた旺盛な探求心は、やがて「人間社会はどんな原理で動くのか?」という問いへ向かいます。そこで前面に出てきたのが自然法でした。 自然法とは Source link

戦場でも女性が主役

『戦場で欠かせない産業は女性が仕切っていた? その1』戦場となる場所はいうまでもなく危険きわまりないので、合戦が始まるとなると付近の住民はみな安全な場所へと非難 Source link

戦国時代軍勢の構成

『戦闘員より非戦闘員が多かった戦国時代の軍勢とは? その3』例えば、『軍侍用集』によると、154騎の大将の場合、武者奉行1人、軍者1人、弓、鉄砲頭15人、旗奉行 Source link

【社会契約説】トマス・ホッブズ(1588-1679年)の思想について詳しく解説

17世紀に活躍したイギリスの政治哲学者ホッブズ。 イギリスの内戦(清教徒革命/イギリス革命)の混乱期を生きたホッブズにとって、最優先は「安全に生き延びる」ことでした。 そうした背景の元で育った彼の思想は、著書である『リヴ Source link

戦国時代軍勢の構成

『戦闘員より非戦闘員が多かった戦国時代の軍勢とは? その2』他にも興味深い役割がいくつかあります。槍・弓・鉄砲をもつ人々をそれぞれ御持槍・御持弓・御持筒。大将の Source link

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