土曜日, 1月 10, 2026

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古典派経済学の出発点/アダム・スミスと『国富論』

アダム・スミス(1723-1790)は、近代経済学の出発点に位置づけられるイギリスの思想家です。 重商主義が国の介入によって産業と貿易を動かそうとし、それを批判した重農主義で「経済は自然の秩序に沿って自由に回る」と主張し Source link

ケネーらによる重農主義とは?重商主義から自由放任主義へ

これまで紹介してきた啓蒙思想は、人間の理性と自然の秩序を信頼し、それまで力を持っていた宗教や王権の権威を改めて検証しようとした動きのことです。啓蒙思想は政治や社会の領域に限らず、経済にも適用されていました。 今回紹介する Source link

【図解】重商主義はどう変わった?重金主義→貿易差額主義の流れと歪み

古代ギリシア以降、経済思想に関しては色々ありますが、近代経済学に繋がる近世ヨーロッパの体系的な経済思想のはじまりと言えば重商主義です。 重商主義といっても時期によって中身が少々異なります。 ここでは、重商主義の初期に見ら Source link

『法の精神』の著者モンテスキューは何をした人?【1689-1755年】<人物伝>

今回紹介するフランスの啓蒙思想家・モンテスキューは現代の民主政治の基本原理・三権分立の考え方を『法の精神』で展開したことで知られています。 ここではモンテスキューのざっくりしたプロフィールや彼が活躍した頃の時代背景、当時 Source link

【啓蒙専制君主】神聖ローマ皇帝/オーストリア大公・ヨーゼフ2世(1741-1790年)合理化改革とその限界<人物伝>

ヨーゼフ2世(在位1780〜1790)は、18世紀ヨーロッパで「啓蒙専制君主」と呼ばれる君主の中でも、とくに改革を徹底しようとした人物です。 宗教や行政、身分秩序にまで手を入れ、国家を合理的に組み直そうとしました。ただし Source link

百科全書

18世紀半ばのフランスで『百科全書』と呼ばれる事典の大規模な出版計画が実行に移されます。 これはフランスの啓蒙思想を象徴する企画で「知の体系化」を目指したものです。自然科学や哲学だけでなく、職人の仕事や工場の仕組みまで含めた技術と学問、あらゆる当時の知識を一つの事典として整理し直していきました。 その『百科全書』の編集を担ったのがディドロとダランベールです。 しかし、この企てはすぐに歓迎されたわけではありません。カトリック教会や裁判所の一部からは「宗教と道徳を乱す危険な本」として激しく批判され、発禁処分や出版特許の取り消しも経験します。 それでも『百科全書』の刊行は完全には止まりませんでした。この記事では百科全書がどのような内容か、なぜそこまで強い反発を受けたのか、その理由を整理してみたいと思います。  百科全書とは?簡単に解説 18世紀のフランスで刊行された『百科全書(Encyclopédie/エンサイクロペディア)』は、1751年から1772年にかけて出版された大規模な事典です。初版の中心となる本体は、17巻の本文と11巻の図版、あわせて28巻で成立しています。のちに補巻や索引も追加されました。 編集の中心人物は、哲学者ディドロと数学者ダランベールです。ディドロが企画全体を統括し、多くの記事も自ら執筆しました。一方、ダランベールは数学や物理学など自然科学の分野を担当し、『百科全書』の冒頭に置かれた「序論」で、人間の知識を分野ごとに整理した全体構想を示しました。 内容は、自然科学・哲学・宗教・政治・法律・経済・歴史・文学などの学問分野に加えて、手工業や工場技術、農業など実際の生産にかかわる知識まで幅広く含まれます。 百科全書が目指したものとは? 序論を書いたダランベールは、神学を頂点においた中世的な体系ではなく、人間の認識能力から出発して知の全体像を描き、知識の普及を目指しました。 百科全書の大きな特徴が「自然科学や哲学だけでなく、職人の仕事や工場の仕組みまで含めた技術と学問、あらゆる当時の知識」が書かれていることです。 図版巻には、織物や製鉄、印刷など、さまざまな手工業や工場の工程が細かく描かれており、学者だけでなく、現場で手と道具を使って働く人びとの技術も、人類の知の一部として記録し共有しようとしています。 あらゆる人間の知識をまとめることで、自分で学びたい人や他の人に何かを教えようとする人たちが必要な時に参照できるような事典を作ろうとしたわけですね。 なぜ宗教勢力や裁判所に嫌われたのか? 『百科全書』は読者の支持を集める一方で、カトリック教会の一部やパリ高等法院などの保守的な司法機関から「宗教と道徳を乱す危険な本」とみなされました。 宗教に関する記事が、信仰告白というより「理性の目で検証すべき対象」として書かれており、奇跡や啓示より理性と経験を重んじる姿勢が目立ったからです。神の存在そのものを全面否定はしないものの、自然宗教的な書き方や聖職者の権威を相対化する表現は、教会側には脅威と映りました。 さらに、『百科全書』には身分制や貴族・聖職者の特権、封建的な慣習を歴史的に説明し、理性に照らして妥当かどうかを問い直す記事もふくまれていました。宗教だけでなく政治や社会制度の権威まで「理性の基準で点検し直す」という姿勢そのものが、既存秩序を守ろうとする裁判所や宗教勢力から警戒されたのです。 ヴォルテールのような個々の啓蒙思想家が弾圧されてきた流れが、百科全書という大規模な出版企画に対しても続いていたわけですね。 その結果、『百科全書』はたびたび発禁処分や出版特許の停止に追い込まれますが、一方で検閲当局の一部高官や宮廷内の理解者が裏で支えたことで、版元や編集者たちは形を工夫しながら刊行を続け、最終的に全巻を完成させました。 弾圧されながらも王権の内部に協力者を得て続行されたこの事業は、宗教的・政治的な権威への無条件の服従を見直そうとする象徴的な取り組みとして、啓蒙の時代を代表する存在になっていきます。 百科全書の影響はどんなものだったのか? 多くの人が関わって長い期間苦労して作られた全28巻の『百科全書』は、決して安いものではありませんでした。 すべてを揃えられたのは主にパリや地方都市の裕福な市民層や教養ある貴族たちです。とは言え読者層は『百科全書』を揃えた人たち以外にもいて、共同で購入して回し読みするケースも多く、中には地方行政や裁判、教育にたずさわる人たちもいたようです。 当時のサロンやカフェは政治や難しい話題を議論する場でもありました。『百科全書』に載った新しい知識は度々議論の的となっていきます。 やがて様々な分野をまたいで議論したり検討したりする習慣は都市の知識人や中産階級の間にも広がり、議論の広がりや読者層も相まってゆっくりと社会の土台に影響を与えました。自由や平等といった言葉なども議論のテーマとして共有されていくことになります。 『百科全書』はフランスで18世紀半ばから後半にかけて出版された事典ですが、この 事典が出版されて十数年後に起こったフランスの大きな出来事と言えば、やはりフランス革命。このフランス革命のスローガンは「自由・平等・博愛」です。 『百科全書』はフランス革命に直接原因となったとは言えませんが、啓蒙思想を集約し、宗教や王権、身分制度を理性で見直すきっかけ、議論のきっかけとなったという意味で影響を与えたと言えるかもしれません。 百科全書派ってだれのこと? 「百科全書派」とは、『百科全書』の執筆・編集にかかわった啓蒙思想家たちをまとめて呼ぶ名前です。中心となったのは編集長ディドロと自然科学を担当したダランベールで、その周囲にヴォルテール、ルソー、モンテスキュー、テュルゴーなど18世紀フランスの代表的な知識人が集まりました。 かたい組織というより、「理性を重んじ、権威や偏見を批判的に検討しようとする」人びとのネットワークと考えるとイメージしやすいと思います。 ABOUT ME 歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。 Source link

ロシアの啓蒙専制君主・エカチェリーナ2世<1729-1796年>

18世紀後半のロシアを代表する君主エカチェリーナ2世(在位1762〜1796)は、世界史で啓蒙専制君主の代表例として必ず名前が挙がります。フリードリヒ2世と同世代で、ヴォルテールやディドロとも交流しながら、国内改革と領土 Source link

『哲学書簡』啓蒙思想家・ヴォルテールってどんな人??【1694-1778年】<人物伝>

ヴォルテール(1694〜1778)は、主にルイ15世の時代に活躍したフランス啓蒙思想の代表的な思想家・作家です。体制批判でバスティーユ監獄送りになった文学者でもあります。 彼が活動した18世紀前半〜後半は絶対王政を築いた Source link

【フリードリヒ大王】プロイセンを近代国家へ導いた“啓蒙専制君主”の生涯<人物伝>

プロイセン王国のフリードリヒ2世は、世界史の教科書では「フリードリヒ大王」「啓蒙専制君主」の代表として紹介されます。 軍事に優れた国王でありながら、哲学や文学、音楽にも強い関心を持ち、自分を「国家第一の僕」と位置づけたこ Source link

啓蒙思想とは?【ヴォルテール・百科全書・経済思想・啓蒙専制君主】

17〜18世紀のヨーロッパでは、国家と個人の関係を理性的に説明しようとする政治思想が発展しました。自然法を掲げて社会契約説の土台を作ったグロティウス、社会契約説をめぐって議論したホッブズ・ロック・ルソーといった人物につい Source link

国際法の父フーゴー・グロティウス(蘭)【1583-1645年】

現代のニュースでも時々耳にする「国際法」「公海の自由」「講和条約」なんて言葉ですが、その源流をたどると17世紀オランダの法学者フーゴー・グロティウスに行き着きます。 国家どうしに最終判決を下す“裁判官”がいない世界で、何 Source link

合戦には馬も刀も使わないのが常識だった? その1

『白兵戦は消耗が大きい』白兵戦とは白兵(刀のついた武器)のみを使って戦いこと。つまりは近接戦のことを指します。戦国時代のイメージといえば、さかんに刀を振り回しな Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その3

『足長坊主』武器としてポピュラーなのは、やはり手裏剣なのでしょう。張り出した数本の切っ先にトリガブトの抽出液や破傷風菌の入った土などを塗っておき、これを追手に投 Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その2

『忍術とは道具しだい』よく映画などで忍者が水面を歩いたり、城壁をすいつくように登ったりする場面を見ることがあります。これらはいわゆる忍術と呼ばれるものですが、忍 Source link

忍者は本当に水の上を歩けたの? その1

『戦国時代は日雇い身分?』忍者の役割は敵の情報を入手したり、あるいはかく乱を行うことであり、そのためには窃盗や殺人など非合法活動も行わなくてはならない。いわゆる Source link

近代産業の発展②【松方財政と企業勃興】

前編では、鉄道・郵便・電信や地租改正、国立銀行から日本銀行(1882)へ至る基盤整備、そして、官が見本を示すこととなった富岡製糸場の始動や内国勧業博の開催までの経緯をたどりました。 後編の今回は、松方財政による引き締めと Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その3

『戦国時代に諸武術が出現』その後、流派はさまざまに分かれ、一刀流、新陰流、佐々木巌流などが誕生し、剣豪小説に登場するような剣士が多数生まれ、やがて一流一派を唱え Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その2

『流派の誕生』戦闘の必要な能力も馬上から放つ弓矢に代わって、地上での薙刀や刀の能力が求められるようになる。兵法二天一流このような地上戦になれば、剣でも槍に秀でた Source link

戦闘方法や基本戦術にも流行があったの? その1

『流鏑馬(やぶさめ)の流行』戦国時代は、鎌倉時代までに比べると戦闘方法が大きく変わった時期です。戦国時代に入るまでは、騎馬による個人戦法が中心であった。まず、敵 Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その3

『それでも伝統文化の中心として権威を保ち続けた天皇家』朝廷が力をふるっていた院政期には、ある一地域に限っただけでも220もの荘園があったことを考えたら、激減など Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その2

『朝廷の収入』その次の後奈良天皇も、皇位を継いだのは1526年(大永6)であったが、やはり10年後の1536年、大内・毛利の両大名の支援を得られるまで即位式は行 Source link

貧乏過ぎて即位式ができなかった天皇がいた? その1

『後柏原天皇、後奈良天皇』戦国時代の天皇家は、後ろ盾となる室町幕府も実質的な力をもたず、また天皇領もわずかしか残っておらず、経済的には非常な困難な状況にあった。 Source link

とにかく早熟! その3

『女の子の元服・鬢曾木(びんそぎ)』女子にも男子の元服にあたる「鬢曾木」という儀式があった。「鬢」とは頭の左右の髪の毛「曾木」は「そぐ」の意で、少女がはじめて髪 Source link

近代産業の発展①/富岡製糸場から八幡製鉄所へ【日本の産業革命近代産業の発展】

日本が“農業国”から“工業国”へ転じた道のりは簡単なものではありませんでした。 こうした流れを経て工業国に変わっています。ここでは年号を丸暗記する前に日本が工業国になるまでの流れとしてたどっていこうと思いますが、ちょっと Source link

とにかく早熟! その2

『加冠の儀』元服では「加冠」という重要な儀式が行われた。これは髪を整えた少年に烏帽子をかぶせるというもので、この加冠の役を務める人を烏帽子親といった。悠仁さま「 Source link

とにかく早熟! その1

『早かった元服』時代劇や時代小説にしばしば登場する「元服」という言葉。ご存じのとおり、男子が成人、すなわちひとり前の大人になることをいう。元服式「元」は頭、「服 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その3

『木綿は高級品』さらに戦国時代に入ると、最後に着た小袖を肌脱ぎ、つまり上半身だけ脱いで腰の周りに巻き付けて着たのである。これを腰巻と呼んだが、和服の下着である腰 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その2

『小袖、肩衣、袴』もうひとつの直垂から変化した略装に素襖がある。素襖が武家社会で定着すると、活動に不便な袖を取り去って、活動的、実用本位の肩衣となってくる。肩衣 Source link

戦国武将の普段のファッションは? その1

『公服は大紋』武家の男の装束は、平安時代の狩衣を上に着て、下には狩衣袴、後に指貫をはいたものから、改良されて鎌倉時代の直垂へと変化した。大紋を着用する毛利元就公 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その3

『礼儀作法は細やかだった』この他、主人への書状を渡すときには左手に持ち、申し上げることがあれば同時に言上する。跪座(きざ) 主君への最上級の礼読めといわれた場合 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その2

『出仕時には餅を食べて』出仕時をはじめ、武士の日常生活にはさまざまな作法があった。『早雲寺殿二一箇条』では、出仕してもすぐに主人の御前には行ってはならず、次の間 Source link

武士の日常生活はどんなものだった? その1

『武士は早寝・早起き』戦国時代の武士はふだんどのような生活をしていたのか。この疑問を解く手がかりとなるのが、小田原の後北条氏の祖・北条早雲が家臣に与えた処世訓『 Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その3

『信長が謀反にあわなかったら、日本の食文化は変わっていた』日本では仏教の影響で古くから肉食がタブー視されていましたが、実際にはウサギ、イノシシ、タヌキなどの獣や Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その2

『安土桃山時代には懐石料理が成立』中・下級武士の食生活の実態は、石田三成の家臣・山田去暦の娘おあむの手記『おあむ物語』(1711~1716年頃)に垣間見ることが Source link

日露戦争後の国際関係:韓国併合・満鉄・辛亥革命を一連の流れで

1905年に日本は日露戦争に勝利し、国際的地位を高めていきました。 この事実を教科書では“列強入り”の象徴として語りがちですが、実際の現場で起きていたのは軍事の勝利を、国際社会の黙認確保と統治・経済の制度化による既成事実 Source link

武士は誰でも白米を食べていたの? その1

『主食は雑炊や粥』武士の食生活と一口にいっても、大名や大将クラスの上級武士と中・下級武士では天と地ほどの差がある。中・下級武士の食事は「粗食」という言葉がぴった Source link

日本史視点から見た日露戦争とその前後の国際関係

江戸後期、日本に漂着した「はんべんごろう」(ベニョフスキー)の手紙は翻訳の行き違いも手伝って「ロシアが攻めてくる」というイメージを日本社会に残しました。この一件は、誇張半分ではあったものの恐露感情という“北からの不安”を Source link

戦国時代のマイホーム その3

『早寝早起きで子だくさん』台所や風呂場は剥き出しの土間。それに燃やす薪は濡れないように、土間や軒下に積み上げてある。井戸はこの近くに掘ってあると便利だった。便所 Source link

戦国時代のマイホーム その2

『瓦葺は大へんな贅沢品』武士の家を訪れると、まず門が出迎える。立派なものでは長屋門、やや簡素になって四足門、腕木門が出迎える。長屋門それに続くのが板塀だったり、 Source link

戦国時代のマイホーム その1

『武士の屋敷は広かった』なによりも万事実用的にというのが、戦国時代の家の建て方。上級武士の従者であれば、その武士の門の脇が長屋になっていて、そこに住んだ。会津の Source link

切腹には作法があったの? その3

『江戸時代の切腹は首打ち?』この「内臓をつかんで投げる」という行為は、苦痛に耐える勇気と潔さの表現だったのだが、人によっては腹を切る激痛のために、実際にはそのよ Source link

切腹には作法があったの? その2

『初期の切腹は悲惨』それでは、実際の切腹の方法とはどのようなものだったのでしょう。室町時代の資料によれば、切腹には、切腹する本人、介錯人の他に、立会いの武士、控 Source link

【変な名前の外国人①】はんべんごろう──翻訳の誤解が恐露感情を生んだ漂着者ベニョフスキー

日本史の片隅に、ちょっと変わった名前が記録されています。 その名も「はんべんごろう」。まるで江戸の浪人のようですが、実は18世紀ヨーロッパで“冒険譚の主人公”として名を馳せた モーリツ・ベニョフスキー(Maurice B Source link

切腹には作法があったの? その1

『切腹は体面を保った』時代劇の影響なのか、切腹というと、何かの犯罪を犯した刑罰として与えられるものと思われがちであるが、そもそもは自害の手段であった。切腹例えば Source link

戦場でのケガ治療は その3

『如何わしい治療方法よりも温泉』また、小便も魔法の水のように考えられていたらしく、刀でつけられた傷がひどく痛む場合には「自分の小便を飲め、陣笠にためおいて、あと Source link

戦場でのケガ治療は その2

『獣の糞は特効薬』『雑兵物語』から、いくつか「治療例」とされるものを紹介しましょう。出血したり、鉄砲の弾が当たり激しい内出血がおこった場合には、傷の血が胴に溜ま Source link

【社会契約説】ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年)の思想について詳しく解説

ホッブズやジョン・ロックに少し遅れたジャン=ジャック・ルソーも、彼らと同様の枠組みである社会契約説を唱えた人物です。ただし、前提条件となる自然状態などが異なるため、同じ“社会契約説”でも中身はだいぶ異なります。 ※社会契 Source link

戦場でのケガ治療は その1

『金創医』戦国時代に限らず、戦場には怪我はつきものです。しかも、身分の低い者にとっては、「ケガの功名」という文字の通りに、怪我が戦いの功績につながっていたのだか Source link

夏の終わりに

『御宿に行ってきました』暑い夏が終わらないので、外房の御宿に泳ぎに行ってきました。いつものお気に入りのホテルです。海に行くにあたり、お風呂で犬かきの練習をしまし Source link

戦いの主力は騎馬戦

『合戦で上手く馬をあやつるための秘訣 その3』鞭の入れ方は、『家中竹馬記』に、犬追物には馬に尻を打つが、平常時に尻を打つのは見苦しいので、左の首または耳の先を打 Source link

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