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東府屋ファミ坊こと塩崎剛三氏,とみさわ昭仁氏が語るゲーム業界の黎明期とは。「198X年のファミトーク!!!」イベントレポート



 2025年6月22日,東京都杉並区の阿佐ヶ谷ロフトAにおいて「東府屋ファミ坊とトミサワ芸能の198X年のファミトーク!!!」が開催された。往年の「ファミコン通信」(以下,ファミ通)の読者には東府屋ファミ坊としてお馴染みの塩崎剛三氏,トミサワ芸能のペンネームで寄稿していたライターとみさわ昭仁氏が,1980年代のゲーム業界の黎明期を生き生きと,まるで昨日のことのように語り合った。

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才能の行き来がまだ活発だった時代

 イベントの冒頭,とみさわ氏はファミ通以前に携わっていた雑誌「スコラ」の経験を振り返る。「当時はグラビアでポエムを書いたりするライターがヒエラルキーのトップ。その次にモノクロ記事でジャーナリスティックな記事を書いている人たちが来て,ゲーム記事を書いている僕らはイロモノ扱い。だったらファミ通で一流を目指そう」と,一念発起してファミ通にやってきたという。

とみさわ昭仁氏
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 一方,塩崎氏はファミ通の創刊当初を「全然売れなくてピンチだった」と振り返り,その頃にやってきたとみさわ氏を「すごい人材が来てくれた」と思ったそうだ。

塩崎剛三氏
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 田中パンチこと加川 良氏の後任として,アイドルの紹介ページを引き継ぐことになったとみさわ氏。正直なところ,「ゲームで一流を目指そうと思って門を叩いたのに,アイドル記事を書くのか」と思ったそうだが,そこは1980年代に一世を風靡したアイドルミニコミ誌「よい子の歌謡曲」でも活躍していた氏である。芸能事務所との交渉,スタジオの手配,インタビューまで,1人でこなしていく。
 当時,「国民的美少女」として大人気だった後藤久美子さんの取材では「かっちかちに緊張してしまった」エピソードをはじめ,「Love Song 探して」(「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」の収録曲に歌詞を付けた楽曲)でデビューした牧野アンナさんの回は事務所側からオファーがあったこと,山瀬まみさんが大好きで何度も記事に取り上げていたことなど,まさに「青春時代の1ページ」を振り返った。

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 一方,塩崎氏は「1987年の後半頃,ファミ通から大量のスタッフが離脱していた」と回顧する。加川氏は「MSXマガジン」のテコ入れのために異動し,のちに「ポケモン」をヒットさせる田尻 智氏ら一部のスタッフやライターは,ヒッポンこと「ファミコン必勝本」に移っていったという。
 思い返えば,筆者もその頃からMSXマガジンやヒッポンを読んでいたような気がする……。
 塩崎氏は「当時,ヒッポンがとても羨ましくて,ファミ通でもああいうサブカル的なことをやりたかった」と複雑な心境を明かす。しかし,それはマイナー路線と紙一重の難しいライン。ファミ通はメジャー路線を走りながら,誌面の隅っこでサブカル的な面白さを発信するしかなかった,と当時の編集方針を語った。

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 堀井雄二氏が「ドラゴンクエストIV 導かれし者たち」の制作に追われていた1989年頃になると,とみさわ氏は「カルロス」として「週刊少年ジャンプ」のファミコン神拳にも関わる。同時期,塩崎氏はファミ通の副編集長から編集長に昇格し,ゲーム誌の熾烈な部数争いを制すため,話題作のスクープをさらに重視するようになる。
 当時の出来事として,とみさわ氏は「MOTHER」を発表した糸井重里氏のインタビュー取材を熱望し,それが叶ったときの嬉しさを語った。
 一方,塩崎氏は糸井氏に対して複雑な思いがある様子。加川氏やゲヱセン上野こと上野利幸氏といった,当初のアスキーの主力スタッフやライターが糸井氏のインタビューを機に雑誌を離れていったからだ。そこに糸井氏の持つ「引力」のようなものが関わっていたことは想像に難くない。
 塩崎氏にとってのファミ通の思い出とは,「大部数の雑誌を育て上げた栄光」だけでなく,仲間たちが離脱していくほろ苦さも伴っているようだ。

「べーしっ君」荒井清和氏も急遽参戦!

 イベントの後半では,ファミ通の連載「べーしっ君」やファミコン版「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」「いただきストリート」などのキャラクターを手掛けた荒井清和氏がゲストとして登場した。ファミ通の創刊時は誌面デザイナーとして携わったという荒井氏だが,「オホーツクに消ゆ」に関わったことが仕事の転換点になったという。

荒井清和氏
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 実は,塩崎氏もファミ通の創刊以前からゲーム制作に関わっており,PC版「ポートピア連続殺人事件」をきっかけに堀井氏の元を訪れ,プロデューサーとして一緒にPC-6001/PC-8801版「オホーツクに消ゆ」を制作している。
 その頃から,雑誌編集者の業務とゲーム制作の割合は常に7:3くらいだったそうだ。また「オホーツクに消ゆ」のファミコン移植企画が浮上したときは,堀井氏がなかなか乗り気にならなかったため,説き伏せる役回りだったとのこと。
 ファミコン版の発売が決まると,堀井氏はヒロインの「まきこ」のキャラを立たせるために,新たに「めぐみ」を登場させることを提案した。そしてオリジナル版のように自分で絵を描くのではなく,ファミ通で活躍する荒井氏に「キャラクターデザインを依頼しては?」とも伝えてきたそうだ。
 おかげで荒井氏は,昼はファミ通のカット描きや付録の下敷きの制作,夜はゲーム制作に関わることになり,多忙を極める。「オホーツクに消ゆ」の総勢60名ほどのグラフィックスをドット単位で修正していたというが,それでも「なんだかんだで楽しかった」と笑顔で振り返った。

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 当時のゲーム周辺の制作風景というのは大同小異,この調子であり,複数の分野にまたがって活動する人が珍しくはなかった。とみさわ氏も,田尻氏率いるゲームフリーク在籍時代,のちにポケモンのキャラデザイナーとなる杉森 建氏がスーパーファミコン用ソフト「ジェリーボーイ」のドット絵を打ち直していたこと,とみさわ氏自身も杉森氏の手ほどきを受けて,別のゲームの背景を手直ししたことなどを明かしていた。
 このほかにも,ゲーム雑誌が群雄割拠していた時代を知る人には堪らないエピソードがポンポン飛び出した。筆者もライターとして駆け出しの頃,ご挨拶した人のお名前がちらほら出てきて「そんな感じだった!」「そうだったのか」と懐かしく,楽しいひと時を過ごすことになった。

とみさわ氏によるファミコン版「熱血硬派くにおくん」の記事。みすず三匹……今なら確実にダメ出しされるだろう(笑)
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 ライター,ゲームデザイナー,編集者,漫画家,イラストレーターなどが互いの領域を行き来して活躍し,業界全体に熱気が満ちていた1980年代。ファミコン少年の1人だった筆者にも,その熱は確かに伝わっていた。
 ゲーム機の表現力が向上し,スタッフの専業化が進んだ現代とは異なる「熱狂」を追体験したくなった人や,当時のエピソードに興味を持った人は,貴重なトークのアーカイブ配信を楽しんでみてはいかがだろうか。

ツイキャス「東府屋ファミ坊とトミサワ芸能の198X年のファミトーク!!!」
税込2000円/ 視聴期限 2025年7月6日23:59まで



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🧠 編集部の感想:
とみさわ昭仁氏と塩崎剛三氏が語るゲーム業界の黎明期は、当時の熱気や創造性が詰まった貴重な体験を掘り起こしています。特に、ライターやデザイナーが互いに刺激し合いながら新たな表現を模索していた時代の雰囲気が印象的でした。こうしたイベントを通じて、過去のエピソードを共有し、ゲーム文化の成り立ちを振り返ることの重要性を再認識しました。

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