日曜日, 5月 25, 2025
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本多猪四郎監督 『宇宙大怪獣ドゴラ』 : ドゴラの存在論年間読書人

🧠 あらすじと概要:

映画『宇宙大怪獣ドゴラ』のあらすじと要約

あらすじ

本作『宇宙大怪獣ドゴラ』は、宇宙からやってきた巨大生物ドゴラと、それに立ち向かう人間たちのドラマを描いた特撮映画です。怪獣映画としては異例の存在論的なアプローチがなされており、市街地を襲うドゴラの存在は、人間社会に混乱と恐怖をもたらします。それに対抗するために、科学者たちはドゴラを撃退する方法を探し、さまざまな試みを行いますが、ドゴラ自身が持つ本能的な存在感と、その脅威の独特さが物語の中心となって展開されます。

記事の要約

この記事では『宇宙大怪獣ドゴラ』の魅力が論じられています。特に、ドゴラは他の怪獣と異なり「キャラクター性」が薄いがゆえに、リアリティを持つ「自然現象」としての存在感が強調されています。監督本多猪四郎の作品は、通常の怪獣映画とは一線を画す「異界のもの」であるとされ、子供に好まれる「わかりやすいキャラクター」ではなく、より深い「不気味さ」を感じさせるものとされています。本作は、単に怪獣との戦いではなく、人間ドラマとユーモラスな要素が混ざり合った娯楽作品としても楽しめる側面を持っています。ドゴラは本能的に行動する「生物」として描かれ、そこにリアリティと魅力が存在すると著者は締めくくっています。

本多猪四郎監督 『宇宙大怪獣ドゴラ』 : ドゴラの存在論年間読書人

映画評:本多猪四郎監督『宇宙大怪獣ドゴラ』1964年)

面白かった。個人的にはイチオシの「東宝特撮怪獣映画」である。

何が良かったかというと、まずは何よりも「ドゴラ」という怪獣が良かった。
では、ドゴラのどこが良かったのかというと、「着ぐるみ」怪獣ではなかったが故の、その独特の存在感が、じつに好ましかったのである。

もちろん、ゴジラをはじめとした怪獣のほとんどは、(今どきの3DCGでなければ)中に人間が入っている「着ぐるみ怪獣」であり、それはそれで魅力的で、子供にとってもわかりやすく、親しみやすい「怪獣」だろう。

まただからこそ、この「着ぐるみ怪獣」路線は、その後「ウルトラマン」シリーズなどへ引き継がれていくのだが、ドゴラは、そういう「正統派」路線とは違って、円谷プロダクションでは「傍流」であっても、一定のマニアックなファンを惹きつけて止まない『ウルトラQ』『怪奇大作戦』的な路線の魅力を持っていて、正統派の「着ぐるみ」路線にいささか飽きを感じる老いの目には、とても新鮮だったのだ。

(時代の風景。一番下は北九州市)

ドゴラという怪獣について、「Wikipedia」には次のような見方が紹介されている。

『ドゴラを表現する技術力は評価されているが、怪獣としてのキャラクター性は薄いとされる。』

私が問題としたいのは、この「キャラクター性」というやつだ。

たとえば、ゴジラモスラキングギドラなどの怪獣には、あきらかに強固な「キャラクター性」がある。
誰が見ても「ゴジラだ!」「モスラだ!」「キングギドラだ!」とその登場に拍手を送りたくなるような、「個別的存在感」を持っているのだ。

ところが、ドゴラには、そうした「個性」なり「キャラクター性」なりが無い
「怪獣」といえば「怪獣」なのだが、「キャラクター性」が希薄だから、どちらかと言えば「宇宙生物」であり「巨大生物」といった感じで、その存在には「意思」だとか「個性」などといったものが感じられない。「何かしたい」わけではなく、ただ「本能的に生きて動いている」だけなのだ。

(衛星を呑み込む、幼体のドゴラ)

だから、ドゴラが同時に何体登場したとしても、それが不自然にはならないし、それどころか、むしろその方が自然であろう。
ところが、「キャラクター性」のある、ゴジラ(やモスラやキングギドラなど)が同時に何体も登場したら、どれかが「本物」であり、他の個体は「偽物」か「複製品」でしかない。

また、それなのに「どれもゴジラですよ。当然、ゴジラにも同種族がいて、似たような形をしているのです。ティラノサウルスがたくさんいるようなものです」なんていう説明されたら、「ちょっと待て、それは違うぞ。ゴジラはゴジラであり固有名詞であって、ゴジラが何体もいるというのはおかしい」と、そう言いたくなるのではないだろうか。

つまり、これが「キャラクター性」というものであり、「キャラクター性」があるものの方が「わかりやすい」からこそ、子供にも歓迎されるのである。
子供には、「大人」一般という概念はピンと来なくても、個別の「お父さん」「お母さん」なら、当たり前によくわかるのと似たようなことだ。

だが、ドゴラにはそうした「キャラクター性」が無い。「怪獣」というよりは、「生物種」であり、「現象」に近い
そのため、「かっこいい」とは表現しにくく、「不気味」とか「変」だと、「捉えどころがない」ものだと感じられてしまう。そのために「何か物足りない」と感じる人も少なくないのだろう。

(姿を見せずに、石炭を吸い上げるドゴラ)

だが、私はドゴラの、そうした「キャラクター性」の希薄さにこそ「リアリティ」を感じ、そこに魅力を感じるのだ。

例えば、ゴジラが代表する「キャラクター性」のある怪獣が、私たちの住む街に出現する場面を想像してみよう。
あなたが都心部を歩いていると、向こうのビルの陰からゴジラが現れるというような「イメージ」だが、言うなれば「映画の一場面」を現実の風景に「当てはめる」ことで、私たちはそれに、まるで自分が「映画の中」へと入ったかのような、ワクワク感を覚えるだろう。

だが、空を見上げた時に、そこにドゴラを想像してみると、「映画の中へ入る」とか、その疑似体験というよりも、もっと奇妙な、この世の不可解性に対するリアリティのようなものを感じるはずだ。
例えば、その空を見ながら「今あそこにUFOが飛んできたら…」なんて想像した時に感じるような、ゾクゾクするような感覚だ。

つまり、ゴジラは「ワクワク」させてくれるが、ドゴラは「ゾクゾク」させてくれる。

そして実のところ、映画『ゴジラ』で初登場した際のゴジラもまた、想定不可能な「自然現象」のようなものであり、「生物」であって、決して「キャラクター」的に「わかりやすい存在」などではなかったのではないだろうか?
「得体の知れない、不吉な何か」であったからこそ、あの独特のリアリティがあったのではないか。

言い換えれば、ゴジラに「キャラクター性」が与えられ、その「キャラクター性」が「親しみやすさ」として強化されていったからこそ、ゴジラが「シェー」のポーズをとったり、「息子」まで登場したりしたのではないか。
要は、ゴジラが「人間化」してしまったのである。

もちろん、それがいちがいに悪いとは言わない。それはそれで『水戸黄門』の定番性のような「安心して楽しめる」という「正統派のエンタメ性」なのだと、そうは言えるだろう。

(ドゴラに破壊される「若戸大橋」。一番上は模型で四番目は実景。完成度の高さがわかる)

だが、子供の頃の私ならばいざ知らず、今の私が求めているものは、そんな「定番」的に安心できる「怪獣」ではなく、その捉えどころのなさゆえに、リアリティを感じさせる「異界のもの」的な存在感なのである。

先に『ウルトラQ』と『怪奇大作戦』を引き合いに出したけれど、これらの作品に共通しているのは、言うなれば「異界のもの的な存在感」なのだ。もっと言えば、「現実世界に貫入してくる、異界の存在感のリアリティ」なのである。

例えば、『ウルトラQ』「ケムール人」「クモ男爵」「悪魔っ子」は、決して「怪獣」でもなければ「キャラクター性のある存在」でもなかった。
それは「得体の知れない何か」であり、私たちの「確固とした日常世界」のリアリティを揺さぶるような存在だった。

(『ウルトラQ』/「2020年の挑戦」から、走るケムール人)

だから、のちに『ウルトラマン』に登場し、別の宇宙人に操られるようになったケムール人は、『ウルトラQ』のケムール人とは「似て非なるもの」であり、すっかり脱色されて、当たり前の「怪獣」であり「キャラクター」になってしまっていた。ましてや、日本語を話す、何を考えているのかがわかるケムール人など、論外だ。

また、『怪奇大作戦』に登場する「怪奇現象」とは、「キャラクター性」(の魅力)で売るものではなく、「不可解な現象」として、私たちの日常を揺るがす驚異(脅威)だった。

(『怪奇大作戦』より「白い顔」)

このように考えていけば、「宇宙生物」であるドゴラの存在感のリアリティが、ゴジラやモスラやキングギドラなどとは本質的に違ったものだというのがわかるだろう。
どっちが「正しい」とかいうことではなく、それは求められている方向が「真逆」に近いのである。

ゴジラが、第1作からたどった「キャラクター化」の道は、言うなれば、親近感の持てる「お馴染みさん」的な「安心な存在」化だと言えるだろう。
そして、それが行きすぎてしまい、やがて「原点回帰」が何度も図られることにもなったのだが、それが十全に成功した試しなど、はたして一度でもあっただろうか?

例えば、『シン・ゴジラ』庵野秀明監督・2016年)や『ゴジラ−1.0』山崎貴監督・2023年)などは、たしかに「怪獣映画」としてはとてもよく出来ており、決して「怪獣プロレス映画」などではなかった。
しかしながら、この2作の「原点回帰」というのは、ゴジラという「定番キャラクター」を大前提とした「怪獣映画」への原点回帰であって、決して「得体の知れないものの襲来」という「恐怖」を描いたものにはなっていない
この2作で描かれたのは、ゴジラというキャラクターの「定番的な行動」を、虚飾を排してシンプルに描いた点にあるのであって、決して「予測不可能」なものではなかった

『シン・ゴジラ』の、繰り返される「変態」でさえも、新しい「工夫」であり「予測不可能性」を高めはしたものの、「得体の知れないもの」がもたらす「非日常の不安」などではなく、これまでにはなかった「怪獣の新形態」に止まっていたのではないか。あるいは、「自然災害の寓意形態」でしかなかった。

だか、いずれにしろそれは、すでに確固として定まった「ゴジラのキャラクター性」に、縛られているからこそのものではなかったか。
そもそも「ゴジラのキャラクター性」を排して、それを完全に「得体の知れない何か」として描くならば、それはもう、「ゴジラ」ではなくなってしまうからである。

「キャラクター化」される前の「得体の知れない何か」を描いた『ウルトラQ』的な世界。あるいは、日常に「非日常」が貫入してくる不気味さを描いた『怪奇大作戦』的なものを求めている私としては、だからこそ、ドゴラという生物が、魅力的に映ったのであろう。

本作において、そうした魅力を最も端的に象徴するものとして、私は、物語冒頭に近いところで登場する「深夜の銀座の街を、横になったまま浮遊移動する酔っぱらい」のシーンを挙げたい。
今の都会ほど明るすぎず、ひとけもないとは言え、それでも日常的な風景の中に、寝転んだ酔っぱらいという日常的な存在が、しかし、スーッと静かで滑らかに空中移動しているという「絵」は、なんともシュールで、怪獣の登場シーンよりもむしろ「異世界感」をよく現出していて、まさに『ウルトラQ』的、あるいは『怪奇大作戦』的な世界を、予示するものだった。

(『怪奇大作戦』っぽいシーン)

これも最近になって初めて見た、同じ本多猪四郎監督・円谷英二特技監督ペアの作品である『妖星ゴラス』に私が感じた不満とは、こうした「日常に貫入してくる非日常感」の不在だったのではないだろうか。
『妖星ゴラス』が描いていたのは、真っ正直に「未来に想定された異世界」であり、その意味で、私たちの「日常」からは切れており、言うなれば「キャラクター化された未来世界」なのである。

だから『妖星ゴラス』を、そういう「別世界もの」として見れば、それはそれで楽しめるのだけれど、それだけでは何か物足りなかった。
ミニチュアを使った特撮は素晴らしかったし、それが見どころなのはわかっている。けれど、少なくとも私には、それだけでは、何か肝心なところで物足りないと感じられたのだ。

『ゴジラ』が『妖星ゴラス』よりも面白かったのは、「特撮」でもなければ「ストーリー」でもなく、あの「得体の知れないものが、日常に貫入してくる不気味さ」が表現されていたからではないだろうか。
「キャラクター」の輪郭が確定されておらず、また確定されていないが故の「不安」や「不安定感」のようなものの「暗い魅力」を、私は欲しているように思える。

(トラックが浮き上がる、いかにも円谷なシーン)

とはいえ、本作『宇宙大怪獣ドゴラ』は、決して「不気味なお話」などではない。
ドゴラに関わる「謎の事件」を背景としながらも、本作は、人間たちによる「ギャング映画」的なアクションドラマという側面が強く前景化されており、ある意味で「怪獣映画」らしくない、登場人物の「キャラクター性」で楽しませる作品になっている。

(外事警察館・駒井とダイヤモンドGメンの外人マーク。二人と撃ち合う、ダイヤモンド強盗団の面々。最後は石化した幼体ドゴラの死体に潰される)

『妖星ゴラス』や『ゴジラ』のような、登場人物たちが存在が、「対怪獣」的に「マジメ一本槍」の、いささか一本調子のドラマではなく、怪獣の存在など、どこ吹く風といった、いかにもユーモラスなシーンも多く、そういうところで楽しませる「娯楽映画」にもなっているのだ。

(宗方博士役の中村伸郎が、いい味を出している。ドゴラを石化させる蜂毒を噴霧する自走メカ)

だが、そんな「人間たちのドラマ」の背景で、ドゴラの方も、人間たちの存在など気にかけることもなく、ただただ本能に従って、生きんがための行動を進めていく。
まさに、ドゴラは「自然現象」なのだ。「自然がもたらす脅威」なのだが、そこに人間に対する「敵意」や「悪意」「害意」といったものは、いっさい存在しない。
それなのに、その存在自体が、人間の脅威であるところに、ドゴラのリアリティがある

私は、ドゴラという、「キャラクター性」を持たない存在に、どこか身近でありながらも捉えどころのない不気味さと、それゆえの魅力を感じてしまう。

ビル群を破壊しながらこちらへと進んでくる巨大怪獣も、それは恐ろしい存在ではあろう。一一しかしながら、例えばドアノブに取り憑いて蠢動している、猫くらいの大きさの半透明の生物や、廊下の片隅にうずくまっている黒い影の方が、よほど不気味なのではないだろうか。

決して「面白い」わけでも、ましてや「かっこいい」とか「クール」だとかいったものではないけれども、むしろそうした存在の方が、私たちを「異界」へと誘ってくれるのではないか。



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