水曜日, 6月 4, 2025
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映画感想 TAR/ターとらつぐみ

🧠 あらすじと概要:

映画『TAR/ター』は、ドイツ・ベルリンを舞台に、エリートの女性指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)が中心となって繰り広げられる物語です。彼女は音楽界での権力を持つ一方で、過去の人間関係や自らの行動が引き起こす予期せぬ結果に直面します。作品は、リディアが名声を築く過程と、その背後に潜む人間ドラマに焦点を当てています。

要約:
この記事では、映画『TAR/ター』のあらすじとキャラクターの関係の複雑さに焦点を当てています。特に、リディア・ターという中心人物の描写や、彼女の音楽に対する情熱と性差別の問題が話題にされます。リディアの職業上の成功は、同時に彼女自身の過去や他者との関係が引き金となって崩れていく様子を描いています。映画は、理解するのが難解な部分が多く、観客に強い印象を与える作品となっています。特に、リディアの複雑な人間性や道徳的ジレンマが、観客の理解を試される要素として存在しています。

映画感想 TAR/ターとらつぐみ

とらつぐみ

 幻聴? それとも……。

 今月4本目はアメリカから離れてドイツが舞台。2022年トッド・フィールド監督作品『TAR/ター』。主演ケイト・ブランシェットの演技が絶賛された作品だ。 監督トッド・フィールドを掘り下げると、2001年『イン・ザ・ベッドルーム』で監督デビュー。この作品はサンダンス映画祭で絶賛され、大賞は逃したものの主演二人が審査員賞を受賞。2006年の映画『リトル・チルドレン』ではケイト・ウィンスレットと組み、アカデミー賞で3部門にノミネートされた。本作はトッド・フィールド監督3作目、16年ぶりの作品となる。 本作はもともとケイト・ブランシェットを念頭に置いて脚本が執筆された。もし断られたら制作を中止にしよう……というつもりだったが、快諾を得て制作がスタート。撮影は本作の主要舞台であるドイツ・ベルリンで行われた。 2022年9月、第79回ヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映され、上映終了後スタンディングオベーションが6分以上も続いた。そのヴェネツィアでケイト・ブランシェットは主演女優賞を受賞。他にもニューヨーク映画批評協会賞作品賞と主演女優賞を受賞。アカデミー賞はノミネートはされたものの、残念ながら受賞なしだった。 制作費は公開されていない。世界での興業収入は2900万ドル。かなり控えめな数字だ。パンデミックを終えたばかりで、その間にこういった作品を扱っているアート系ハウスが閉鎖されていたのに加え、作品がかなり難解……悪要因が重なって収益は伸びなかった。本作のマーケティングだけでもおそらく3500万ドルを費やしたと考えられるから、制作費と併せて大赤字だったはずだ。

 一方で、世界の国際映画祭で絶賛されアワードも獲っていることからわかるように、評価は高い。映画批評集積サイトRotten Tomatoesには批評家による356件のレビューがあり、91%の肯定評価、一般レビューも74%と高い。Metacriticでは100点満点中93点。マーティン・スコセッシ、ポール・トーマス・アンダーソンをはじめとする著名人たちが本作を絶賛している。商業的には恵まれなかった作品だが、見た人の評価は確実に高い作品だ。

 では前半のあらすじを見ていこう。

 ドイツのベルリン・フィルで指揮を務めるリディアは、とあるイベントに招待されていた。アダム・ゴプニク司会のインタビューショーだった。 アダムは尋ねる。アダム「あなたは今後、クラシック音楽の世界が性別によってアーティストをわけ隔てることをしない時代がやってくると思いますか?」リディア「私に聞くべき質問じゃないかもね。私、批評を読まないし。でも変な話。指揮者を指すマエストロを女性版マエストラに変えるべきだという人なんているかしら?」アダム「指揮者のことを人間メトロノームと捉える人がまだいますね」リディア「それはある意味正しい。でもきちんと拍子を取ることは難しい事よ。拍子は音楽の解釈の上で欠かせないものなのよ。指揮者抜きでは始まらない。私が時間を刻む。左手で形を作る。2番目の手である右手は拍子を刻んで、先に進める」アダム「難しい質問でしょうが、レナード・バーンスタインから得たものを一つあげるとするとなんでしょう」リディア「カバナ。ヘブライ語で意味は意図されたものに対し、注意を払うこと。作曲家や自身の優先事項は何か、いかに補い合うか……」 インタビューを終えた後は、急いで会場を離れた。カプランとの会食があるからだ。カプラン「帰宅途中、君が指揮したイスラエル・フィルを聴いて、最後の楽章で弦楽器が奏でた音に感激した。いったいどうやって引き出した。ホールのおかげか? 奏者の腕か?」リディア「奏者は好意的じゃなかった。首席バイオリンが最初のリハの後に、私がユダヤ人か聞いてきた。ユダヤ人以外が、ユダヤの音楽を指揮することに興味を持ったみたいね」カプラン「君のスコアを見せてくれと秘書に頼んだが、袖にされた」リディア「さすがあの子ね」カプラン「どうしても君のスコアが見たい」リディア「言えばせがむのをやめてくれる?」カプラン「ああ!」リディア「フリー・ボウイング。観客には見栄えがいいものじゃないけど。奏者を集中させることができれば、音は激しくなる」(※ フリー・ボウイング(自由運弓) 演奏者がそれぞれの判断で自由に演奏すること。フィラデルフィア管弦楽団の指揮者であったレオポルド・ストコフスキーによって広められた。しかしフリー・ボウイングは統一感が失われるため、あまり採用したがる人はいない) それからしばらくして、リディアはジュリアード学校の講師として訪れた。 マックスという学生に指導しているのだが、どういうわけだがマックスはイライラしていた。リディア「良かったわ。緊張感があった。いわゆる無調の効果的な特性について考えてもいい。ただここで重要な疑問は自分が何を指揮しているか。マックス、答えて。どう思う?」マックス「……アンナ・ソルヴァルドスドッティルがマスタークラスで形が影響されたと言っていた。自分が見て育った風景や自然の構造にも」リディア「理解しがたいんだね。ええ、そう。アンナ・ソルヴァルドスドッティルの作曲の意味は曖昧。それはそうだけど、もし作曲家の意図が曖昧なら、指揮者としてどういう姿勢を持てばいいの? 例えばバッハのミサ曲ロ短調」マックス「バッハは好きじゃない」リディア「バッハは好きじゃない?」マックス「僕はマイノリティで、パン・セクシャルなんだ。バッハが女性を差別するせいで、彼の音楽を真剣に聴けない」リディア「それってどういう意味なの? まあいいわ。でもわかる? 自分を知識派の反乱分子として決めつけることの問題は、バッハの才能が、その性別や生まれや、宗教やセクシャリティで低く見られるなら、あなたの才能もそう見られるわ。……あら、どこにいくの?」マックス「あんたはクソだ」

 そう言って、マックスは教室を去って行くのだった。

 ここまでで35分。 この映画だけど……何の予備知識なしでいきなり見て、理解できる人っているのかな……(マーティン・スコセッシならわかるんだろうけど)。私も初見は「え? どういうこと?」ってなった。 ほとんどの人も「どゆこと?」となったはずなので、細かいところを掘り下げていきましょう。

 この作品が難しいのは、「基本的な設定は説明しない」から。なぜならそれは当事者たちがすでに知っていることなので、改めて口にしない。直接的な表現では言わない代わりに、例え話や、それにまつわる別の事件なんかで説明する。

 この作品の重要人物に「クリスタ・テイラー」という女性がいる。最初に名前が出てくるのは、このタクシーの中。秘書のフランチェスカの台詞の中で「クリスタからまた妙なメールが来ました。返事どうします?」 と、出てくる。 でもクリスタって誰? わからないままある時、いきなりクリスタが「自殺した」という話が飛び出してきて、いった何が起こった?……となる。

 でも実は映画の中にチラチラと登場してきている。

 冒頭のインタビューのシーン、客席の中にいるこの人がクリスタ。画面があんまりに暗いので色調整しました。

 画面左側で見切れているのがクリスタ。

 画面の右側、隣の部屋とを仕切る壁の影に隠れて、誰かがいるのがわかるかな? これもクリスタ。
 いや、もう「俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」というレベル。

 だいぶ後になって、「クリスタ自殺」というニュースサイトの画面が出てくる。ここで答え合わせになる。あの赤毛の女はクリスタだった……ということがわかる。
 しかし本編の中で一度も顔が出てこない。「謎の女」となっている。顔のわからない女に翻弄されてしまう……というのがこの作品の怖さ。このクリスタとの因縁が、物語の重要なファクターとなっている。

 でもその話を掘り下げる前に、前半35分のシーンを掘り下げておきましょう。 この映画、構成がかなり特殊で、前半35分はただ喋っているだけ。それもそれぞれのシーンが10分もあり、10分、10分、10分で30分という構成になっている。それ以降は普通の映画と同じように進行していく。

 この最初のシーンで何を話しているのか……これを読み取らないと、後々の物語のわからなくなる。これがこの作品の「一見さんお断り」なところ。

 では一つ一つ情報を確認していこう。 冒頭はアダム・ゴプニクのインタビューショー。観客を招いて著名人からいろいろ聞き出す……という形式の番組になっている。(アダム・ゴプニクはアメリカのノンフィクション作家で、『ニューヨーカー』誌を中心に様々な考察を寄稿している。本作ではご本人がそのまま登場……となっている。このイベントも『ニューヨーカー』による主催という設定)アダム「ここにいる皆さんは、すでによーくご存じでしょう。リディア・ターは現代で最も重要な音楽家です。経歴は実に華やか……」

 はじまりは司会アダムによる主人公の紹介。主人公リディアの経歴を説明している。

アダム「あなたは今後、クラシック音楽の世界が性別によってアーティストをわけ隔てることをしない時代がやってくると思いますか?」リディア「私に聞くべき質問じゃないかもね。私、批評を読まないし。でも変な話、指揮者を指すマエストロを女性版マエストラに変えるべきだという人なんているかしら? でも性差別の質問に答えると、私は不満に思いません……」 まず性の問題が、リディアのキャリアにどんな問題をもたらしたか。リディアはそういう話はすでに時代遅れだ、と語る。例えばマーラーの妻アルマも作曲家だったが、「作曲家は一家に2人もいらない」と引退させていた。以前紹介したスティーブン・スピルバーグの少年時代を描いた作品『フェイブルマンズ』でも、お母さんは女性という理由で音楽家としてのキャリアを諦めていた。 そんな時代はもう過去のものなのよ――とリディアは語る。アダム「指揮者のことを人間メトロノームと捉えている人がまだいます」リディア「まあ、それはある意味正しい。きちんと拍子を取ることは難しい事よ。拍子は音楽の解釈の上で欠かせないものなのよ。指揮者抜きでは始まらない。私は時間を刻む」 (中略)アダム「難しい質問でしょうが、レナード・バーンスタインから得たものを一つあげるとしたらなんでしょう」リディア「カバナ。ヘブライ語で意味は意図されたものに注意を向けること。作曲家や自身の優先事項は何か、いかに補い合うか」 ここでは指揮者としての役割、重要性を説明している。単純に仕事論としても読むことができるが……。 もう少し突っ込んで話を読み解こう。 リディアは「私は時間を刻む。左手で形を作る。2番目の手である右手は拍子を刻んで、先に進める。でも時計と違って、右手は時々、止まる」……と話す。この辺りで「過去の事件」がすこし示唆されている。指揮者が指揮棒を振れば、音楽の世界では時間が進行する。それは過去の「終わった」と思った事件も、追いかけてくるという示唆になっている。 この後、リディアは昔のフランスの作曲家、ジャン・バディスト・リュリを話題に挙げる。最初期の「指揮者」で、リュリは先端のとがった杖でステージをドンドン叩いて拍子を取っていた。しかしそれがあるとき、自分の足を刺ししてしまい、死亡してしまう……。 確認を取ると、1687年1月8日の事件であった。それですぐに死んでしまったわけではないが、壊疽を起こして3月22日に死亡した。 指揮棒を振ると、それが自分を追い詰めることになる……自分の将来を予見した台詞となっている。アダム「その結婚について、バーンスタインと違う解釈をしているのですか?」リディア「あなたはさっき、アマゾンの先住民の話に触れたけど、彼らシュピポ族の人たちは、イカロ、つまり歌だけを受け入れる。歌い手がそこにいたら、歌を作った人の魂がいるのと同じ場所にいられるの。そうやって過去と現在が一つになることができる。視点を変えれば物の見え方は変わる。忠実さという定義は納得のいくものよ」(シュピポ族 たぶんShipibo=Konibo(シピボ-コニボ)のこと。ペルー東部ウカヤリ川周辺に暮らす先住民) ここもリディアは自分の将来を予見している。歌い手が歌うとき、その音楽を作った人の魂と同じ場所にいることができる。音楽を再生すると、過去の事件を掘り起こす……という示唆になっている。指揮者は楽譜をただ読むのではなく、深く深く解釈する。その過程で、その音楽家が抱えていたかもしれない苦悩も掘り返す。 ここで題材としてマーラーが取り上げられているのも大きなポイントだ。 グスタフ・マーラーは1901年(40歳)の頃、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪くなり、ウィーン・フィルを辞任し、アメリカに渡った。 ところがこれはキャリアの転機にならず、悪化した。妻アルマの不倫、長女の死亡、マーラー自身も心臓病。結局1910年、ヨーロッパに戻るものの、その翌年には死亡する。最後の曲である、『交響曲第10番嬰ヘ長調』は未完成のままだった。 この『交響曲第10番嬰ヘ長調』には妻アルマに関する書き込みが多く残されていた。「アルマのために」

 リディアも作曲をやっていて、楽譜にある書き込みをする。その内容も、実はマーラーをなぞっている。この辺りを知った上で映画を見ると、意味がわかってくる。

 次のシーンも5分近い対話シーンだ。こっちも読み込んでいこう。 カプランとの会食シーン。カプランは投資家でアマチュアの指揮者。リディアはフェローシッププログラム……教育課程を経ずに教育現場で指導できる人のことだが、カプランはそのマネージャーを務めている。 対話の内容を見ていこう。カプラン「アコーディオン基金のために、引き受けてくれたんだろ?」リディア「もっと門戸を広げなきゃダメね」カプラン「人を増やすのか?」リディア「いえ、性別よ。だって一つの性だけにこだわるのは古くさいって主張してきたし、どの研究員もトラブルなくオーケストラに入れてきた」 アコーディオン基金は女性のための教育支援プログラム……的なものかな。指揮者の世界は女性に厳しい世界だった。だからこそ……なのだけど、そろそろ「性別にこだわるのはどうか?」という話をしている。リディア自身、「性別は関係ない」と主張してきたわけだし、その主張とずれてしまうことになる。 主張との整合性を取るのは難しい。カプラン「帰宅中、君が指揮したイラスラエル・フィルを聴いて、最後の楽章で弦楽器を奏でた音に感激した。いったいどうやって引き出した? ホールのおかげか? 奏者の腕か?」 この部分はすでにあらすじ解説で書いたように、「フリー・ボウイング」。あえて奏者に委ねることで勢いを出したという。カプラン「セバスティアンを変えるのか?」リディア「フェアに行かなきゃエリオット。彼にはテクニックがある。副指揮者として」カプラン「先月文化村でショパン・ピアノ協奏曲第1番を聴いた。セバスチャンはミスター・テンポ・ルバートだ」リディア「それを言うならロボット」 対話を見ていてわかるように、リディアは一貫して「情念」や「パッション」といったものを大事にする。だからあえてフリー・ボウイングなんかを採用したりする。作曲家の「心情」を再現することが大事……というのがリディアの考え方。 対して、副指揮者であるセバスティアン・ブリックスはカチッと整ったものを好む。「正確」であることが大事だと考える。正確さにこだわるから、かつての作曲家が身につけていたものを収集し、研究したりする。後のシーンでも、演奏で「クラリネットが大きすぎる」と指摘するが、これも「正確であること」にこだわるゆえ。リディアはその時々のパッションが大事だと考えるから、意見が対立する。

 とにかくリディアの感覚からすると、セバスティアンは「ロボットだ」となってしまう。主義がずれてきて、厄介に思うようになってきている……という話をしている。

 次の場面も長い1シーン。しかも10分に及ぶ1カット長回しとなっている。 場所はジュリアード学校。リディアが教育を受け持っている教室である。そこで生徒の一人と言い合いになってしまう……という場面だ。細かく掘り下げてみよう。リディア「そうね、緊張感があった。いわゆる無調の効果的な特性についてあれこれ考えてもいい。たとえマスターベーションでもね。ただ、ここで重要な疑問は自分が何を指揮しているのか。効果は何か。私に何をしてくれるのか……ってこと。いい音楽というものは大聖堂のように華美にも、納屋のように質素にもなる」 リディアはずっと「指揮とは?」というテーマで指導している。指揮一つで音楽が豪華にも質素にもなる。それは楽譜をどう解釈するかによる……と説明している。 そういう話をしているのだけど、生徒の一人、マックスはなぜかずっとイライラしている。足をガタガタさせるし、先生に話しかけられて舌打ちするし……。

 続きを見ていこう。

リディア「例えばマックス。キリエはやらないの? ほら、例えばバッハのミサ曲ロ短調」 マックス「バッハは好きじゃない」リディア「バッハは好きじゃない?」 話を聞くと、マックスは黒人で、パン・セクシャル、つまりすべての性が性的対象。一方、バッハは白人で男尊女卑。マックスはそれが気に入らないという。 まあ、最近話題の「ポリコレ」ってやつだ。現代的なLGBTQ的な価値観によれば、白人で男尊女卑をする男は許せない。歴史的偉人に対してもその基準を当てはめる。現代の価値観に照らし合わせて、バッハは許せない、だからバッハの曲を素直に聴くことができない……と。いかにも「今時のお坊ちゃん」的な発想を持っているマックス。 そういう意見を聞いて、リディアはキレる。リディア「自分を知識派の反乱分子として決めつけることの問題は、バッハの才能が、その性別や生まれや宗教やセクシャリティで低く見られるなら、あなたの才能もそう見られること。マックス。いつの日か世界に飛び出し、オーケストラで客演指揮をしたとき、演奏者のラックには電球と楽譜以上のものがあることが気付く」(中略)リディア「じゃあみんな。マックスの基準を使って考えてみましょう。この場合はアンナ・ソルヴァルドスドッティル。注目するのは次の2点ってことでいいかしら? 1つ、アンナはアイスランド生まれ。2つ。彼女はそう、シュタイナー教育を地で行くようなセクシーな若い女性。挙手して。それじゃもう一度注目して。我々の目の前にあるピアノの椅子に座っている人物と、いま挙げた二点とどう関係しているのか、確認してみましょうか。……あら、どこに行くの?」マックス「あんたはクソだ」(アンナ・ソルヴァルドスドッティル アイスランドの作曲家。1977年生まれ。ニューヨーク・タイムズのクラシックベスト10に選ばれるなど、国際的な評価を得ている) 現代のLGBTQの価値観を持ち出してきて、過去の人物をジャッジして、その偉業を貶めたりするのは確かにダメ。だいたい「天才」と呼ばれる人間は人格的にどうかしているのが世の常というやつだから、「作品」と「作者」は一緒に見てはいけない。私が見ても、このマックスという生徒は無知で狭量だし失礼だ。

 しかしリディアもキレて、この生徒を追い詰めて、教室から追い出してしまった……これが後々禍根を残すことになる。

 話を戻すと、リディアは一貫して、「自分がどう思うか?」ではなく、「作曲家が楽譜に何を込めたか」そのことにおいて謙虚さを持て、と話している。楽譜をしっかり読み込んで、解釈せよ、と。 しかしマックスは「あの作曲家はLGBTQじゃないから好きじゃない」という。リディアはそういう最近出てきたばかりのよくわからんアイデンティティに固執するのではなく、音楽と向き合え! という指導をしている。リディア「うん。あなたはロボットね。残念だけど、あなたの考え方を形作っているのはソーシャルメディア。仮面舞踏会ごっこじゃなく、作曲家に奉仕する。自分のエゴやアイデンティティだって昇華させる必要がある。大衆や神の前で自分自身を消し去らないといけない」 去って行くマックスに、リディアは厳しく言う。「あなたの考えを作っているのはソーシャルメディア」――そう、現代人はネット空間にただよう、その時々の気分で喜んだり怒ったりする。何が正義か悪か、その価値観すら自分で決めることすらできない。

 これは後半の伏線となってい���。後半、「クリスタが自殺した」ということで生徒たちが「私たちはクリスタを忘れない!」とプラカードを掲げてリディアを責める……という展開になる。でも多分、生徒の誰一人、実はクリスタなんて知らなかっただろう。クリスタなんて、実在するかどうかも怪しい。そんなあやふやな存在の死を聞いて、ゴシップを信じて、リディアを責めてしまう……。みんな誰かに操られるロボット……。

 ここまでが前半35分の内容。前半35分の対話シーンの意味がわかったところで、作品を掘り下げていこう。

 まずファーストカット。誰かがリディアの様子を盗撮して、LINEで対話している。 右側、青色の吹き出しがフランチェスカ。ではもう一方は? おそらくはクリスタ。実は秘書のフランチェスカとクリスタは関係が続いていた。 2番目のメッセージ。「i wasnt with her s was」 直訳すると「私は彼女と一緒にいなかった」となるが、字幕を見ると「シャロンに聞いたら?」となっている。原文には「シャロン」の名前は出てきていない。原文には固有人物名は出ておらず「s」となっている。これは字幕担当の人が、「これじゃわかりにくいだろう」と気を利かせて「s」の答えを示してくれている。なぜ「s」なのかというと、うっかりこのやりとりをリディアに見られたときに、言い訳ができるようにするため。

 ここからわかるのは、秘書のフランチェスカ、リディアの妻であるシャロン、クリスタの3人が今でも関係が繋がっている……ということである。リディアだけが自分の周囲の人たちの関係性を知らない……。

 学校での指導を終えた後、リディアはホテルに戻り、髪を整えながら、ニュース番組を聴いて、その言葉をまねしている。これはリディアがアメリカ人で、ドイツ語は母国ではないので、ニュース番組の言葉を聞きつつマネしてドイツ語の練習をしている……という場面。 すると、「聴くべきです」 ホテルの中から声。リディアはびっくりして振り向く。ホテルの中は誰もいないはずなのに……。

 声の主はもうおわかりのようにクリスタ。クリスタはリディアのストーカーをやっていて、ホテルの中に忍び込んで来ている。

 トイレにやってくるリディア。そこで、ある女性とすれ違う。この時リディアは、この女性を視線で追いかける。
 この視線は「あら、いい女の子じゃない😍」という意味。

 その次にチェロ奏者を決めるオーディション場面。ステージは衝立が立てられて、誰が演奏しているかわからない。しかしリディアは、衝立の下からチラッと見えるブーツで、「あのトイレで見た女の子だ」と気付いて、少しニヤッとしてチェックを入れる。

 秘書のフランチェスカがやってきて、クリスタが自殺したことを聞かされます。ここで以前はリディア、クリスタ、フランチェスカの3人が仲のいいグループだったことがわかる。もしかしたら3人で性的な関係もあったかもしれない。

 クリスタ自殺の知らせを聞いて、リディアはすぐさま自分のメールボックスを開く。ここは字幕だけではなく原文もちょっと読まなくちゃいけません。送り主はリディアで、あちこちに「クリスタは頭がおかしい」「クリスタを採用してはいけない」という文面のメールを送りまくっていた。リディアはクリスタを切り捨てようと、いろいろ立ち回っていたのだ。 リディアはこのメールをすべて削除する。

 ……でもちょっと浅はかな場面。受信した側のメールボックスには残っているはずなのに……。

 副指揮者であるセバスティアンにクビを宣告する場面。前半の対話シーンでも「そろそろ彼を交代させなければ」と語っていたので、それを実行している場面。しかしあまりにも唐突なクビ宣告なので、セバスティアンも憤慨する。これでセバスティアンは反リディア派に加わってしまう。

 リディアは「パソコンの調子が悪いわ。ちょっと貸してくれる?」と秘書フランチェスカに言います。フランチェスカのパソコンを受け取り、こっそりメールボックスを開きます。するとクリスタからメールが一杯来ている。リディアはフランチェスカがずっとクリスタと繋がっていたことに気付く。
 これに憤慨したリディアは、ジムへ行ってストレスを発散してきます。

 帰ってきたリディアは、「セバスティアンを降ろしたので、後任を探さなきゃ。後任の候補者リストを作ってくれ」とフランチェスカに指示を出します。フランチェスカは「自分が選ばれるんだわ」と思ってニコニコし始めます。フランチェスカも指揮者で、リディアをよく思ってなかったが、それでも支えていたのは指揮者になりたかったから。ついに自分が選ばれるんだわ……と思ったが。
 フランチェスカはクリスタの件がバレたことに気付いていません。

 あのとき、オーディションで選ばれたチェロ奏者であるオルガを食事に誘います。もちろん、下心たっぷりの会食。ここでオルガからチェロ交響曲の話を聞かされ、リディアはサブ曲をそれに決めてしまう。

 楽団の前で、リディアが「マーラーのサブ曲はチェロ交響曲にするわよ」と発表する場面。妻のシャロンが不審な表情を浮かべる。シャロンはこの時点でリディアの態度がおかしいぞ……と気付きます。

 楽団の中にはチェロの上手い子がいます。「チェロ交響曲」と聞いて、じゃあソロは当然この子だろう……とみんなこの子に視線を送ります。 しかしリディアは「いや、オーディションで決めよう。君もマーラーがあるし負担が重いだろ」と、もっともらしく言う。楽団のチェロ奏者も「リディアがそう言うなら……」とオーディションを受け入れる。

 このやりとりを見ても、シャロンは不審な表情を浮かべる。

 リディアは「セバスティアンの後任を決めたよ」と秘書フランチェスカに報告します。もちろん、後任はフランチェスカではない。フランチェスカはこの時、「あ、そうですか」と笑顔で受け入れるが……。この後、姿を消してしまう。
 リディアは憤慨してフランチェスカのいるアパートの乗り込むけど、しかしすでに誰もおらず、「裏切り者」と書かれた楽譜だけが残されていたのだった。

 クリスタ自殺がニュースサイトに載り、その中で「リディアは楽団に性的関係を迫っていた」と書かれてしまい、さらに件の学校でのいさかい……あのマックスという生徒との言い合いを、悪意を込めて編集された動画がTwitterに貼られ、それを信じた学生たちが「クリスタを忘れない」「リディアを許すな」といったプラカードを持ってリディアを責め始める。

 お話の途中で、アンドリスという老人との対話の中でこんなものがあった。アンドリス「今や非難されることは有罪に等しい。似たようなことはフルトヴェンクラーやカラヤンにもあった」リディア「戦時中の話?」アンドリス「いや、戦後だ。“非ナチ化”だ。誰かに訴えられて、調査が進められた。フルトヴェンクラーはナチ党に入らず、ナチス式敬礼も旗も掲げることに拒否していた。ハイルヒトラーとも書かなかった。それなのに、ナチスに協力したと思われた……」 ヴェルヘイム・フルトヴェンクラーは実在の指揮者で、第二次世界大戦中もドイツにとどまって、国内のユダヤ人音楽家を守ることに努めた。なのに戦後、「ナチとの協力」と疑われ、一時的に追放処分を受けてしまう。その誤解が解けたのは2年後である1947年。裁判で無罪が確定し、ようやく指揮者として復帰できた。

 これは後にリディアの身に起きることを暗示している。リディアはフルトヴェンクラーと違って、クリスタと性的関係にあったし、その後切り捨ててクリスタを陥れていたし……リディア自身のやらかしがあったので、言い訳ができない状況に立たされてしまう。

 とうとう妻のシャロンにも騒動が知られてしまう。シャロンはリディアとオルガの関係も察していたので、そのことを含めて怒りをぶつけてくる。

 指揮者から降ろされ、妻シャロンから見捨てられ、娘も連れて行かれ、楽団からの信頼を失い、リディアは完全に孤独に陥ってしまう……。 こうして失脚したリディアは、ドイツを離れて、フィリピンに身を隠すのだった。誰もリディアのことなんか知らない。指揮者が誰かなんて誰も興味を持たないような、ゲーム音楽の指揮者を務めるのだった……。

(ここで出てくるゲーム音楽とは『モンスターハンター』。台詞の中にも「大阪の作曲家が作った」とある)

 本作の基本的な読み方はここまで。 話が長くなってしまったので、無料パートはここまでにしましょう。

 ここから先は、もう一段深めた、映画の「裏読み」をしていきます。

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