🧠 あらすじと概要:
映画『退屈な日々にさようならを』のあらすじ
『退屈な日々にさようならを』は、日常の複雑さや人間関係、心の葛藤を描いた作品です。登場人物たちはそれぞれの「日常」を抱え、さまざまな出来事に対処していく中で、自らの感情や思考と向き合います。ストーリーは時系列がバラバラで進行し、観客に思考を促す構成となっています。その中で、存在意義や人間関係の意味、そして許しや死についてのテーマが浮き彫りになります。
記事の要約
四季は本作の感想を通じて、映画がもたらす思索の旅を振り返っています。初めは時系列の混乱やキャラクターの認識に戸惑うものの、物語が進むにつれて日常の複雑さが見事に繋がり、その描写に感動します。映画に登場する台詞を引用しながら、人の数だけ存在する日常や、許しの概念、対立、死について深く考察しています。
特に、苦しみや幸せを他者と共有することが、どれだけ心を軽くしてくれるかに共感し、それが人間の本質であることを示唆します。また、死という重いテーマにも触れ、生きていることの複雑さや人間の矛盾に気づくことの大切さを感じています。四季は、映画を見ることで感じたことや考えたことを記録し、自身の思考を整理しようとしています。この映画を通じて、日常や人間関係の本質を深く考えるきっかけを得たことに感謝しています。
だから、今回この映画を観て思ったことや考えたこと色々書き残しておこうと思う。
今回もまた、文章とか話の順番はグチャグチャ
だけど、記録としてどうしても残しておきたい。
※以下ネタバレ含みます。
ただ思ったこと
初めは、時系列がバラバラであったことや、馴染みのない俳優に「この人は、あれさっき出てきた人?」と混乱した。正直、途中でもう一回最初から観たいと思った。だけど、最後まで観ると、生きていく中で感じたことのある、この世の複雑さが丁寧に上手く繋がっていて、拙い言い方になるけど本当にすごいと思った。
一緒に意味を考えたい台詞
日常って人の数だけ存在するんですよ
人が沢山集まっている時(ライブ会場、夜の街のビルの光とか)これを想像する。人の数を数えるより、日常の数にして数えた方が、なんか少し息がしやすくなるし、少し面白い。今生きてるのが自分だけじゃないって思える。あと、そうして自分を俯瞰してみると少し心が和らぐ。人生って、人の数だけあって、同じものは一つもない。それってすごく面白い。良くも悪くもあるけれど。
許しとか正直よくわかんないですけど、誰かに話すと楽になるんですよね
「許しとか正直よくわかんない」←めちゃくちゃ共感。許しって何なんだろう。私は、あまりにも多くのことを許されて、見逃されて、生きている感じがする。だから、普段から許されすぎているって事だけは分かる。具体的に言葉にするのは難しいけれど。許しとは何か色々考えてみた。誰かにとってそれは、認めることだったりあるいは、終了することだったり、愛だとか色んな捉え方があると思う。もしくは、理屈ではないことなのかもしれない。
私も、そう言う意味では正直よくわからないけれど自分なりの許しの答えを見つけたいと思った。
「誰かに話すと楽になる」←これも、めちゃくちゃ分かる。
結構これって人が一人じゃ生きられないっていうことの一要素なんじゃないかなって思った。
苦しみや悩みって自分の中だけで抱えていると、主観的な目でしか見れなくなって、それがどんどん重くなる。心のどこかで「自分だけの問題」って思い込んでしまう。でも、それを誰かに話すと”一緒に”抱えてくれるみたいな感覚が生まれて、心が少し軽くなる。苦しみが減る感覚に近いかも。でも、じゃあ喜びや幸せは、誰かに話すと減ってしまうのか。もちろん、誰かに話すと自分だけの独占感は薄れるかもしれない。でも、それと引き換えに、誰かに話すと「その幸せがより確かなものになって返ってくる」感覚がある。相手が笑ってくれたり、良いリアクションをしてくれると、その喜びが自分の外に広がっていく。幸せは、「確かめると増える」ってことなのかな。
結局、苦しみと幸せは誰かに共有することで、どちらも共通して得られるのは、「楽さ」なのかもしれない。
別にどこの宗教も喧嘩しろとか、人を殺せとか言ってないのに世界では宗教の違いで絶えず戦争が起きてる。もちろん、これまでの歴史があるから、簡単な話じゃないけど、戦争しろって教えてる宗教はないはずなのに
対立の背景には、人それぞれの考え方が存在すると思う。でも、これって100人いたら100人違う考えを持っているって言うのは当たり前のことで、対立って仕方がないものなのかもしれないとも考えられる。けれど、対立によって誰かが犠牲になるとかは、仕方がないでは済まないよねって思う。
「自分とは違う事」って間違いだとか怖いだとかそういう気持ちが生じる。人って常に何かを恐れているのかもしれない。違うことを”認める”って言うのは難しいけど、”受け流す”をできるようにするでは、上手くいかないのかな。なんて考えたりした。多分これじゃダメ。受け流せないことも多くあるから
死んだって知るまでは生きてたんですよね?
机を囲んで囲んで4人で、次郎さんの死について話しているシーンが印象的だった。”知らなければ生きていた”それが羨ましいと思う気持ちも、”何なら私が埋めたかった”と言う気持ちもどちらの気持ちにも深く頷いた。誰かからそこまで愛される人を羨ましく思う気持ちも、わかる。先ほどは、”話すと楽になる”ってことに共感したけれど、それが誰かの死についてだとどうだろうか。私は、これは逆に話すと重くなって、現実味が湧いて激しい喪失感に襲われてしまう。大切な人との別れは、どう折り合いをつけて向き合っていけばいいのか。私は、その人が”確かにここにいた”という事実を思い出して、ただ思い返す。でもそれだけでは、ただ哀しいだけだから、心のどこかでこの苦しみを時間が解決してくれますようにと願っている。それしかできない。
死んだことも認めてあげないなんて、生きてる人のエゴだよ。
たしかに。この台詞が本当に刺さった。全部、仕方がないことって割り切れたら楽なのにね。でもそれができない。それって人間らしさなの?だとしたら、おかしくない?本当に矛盾だらけだよね。
なんか気になったから映画を観たら、なんか好きだった。こんな感じで理由なんてなくてもいい、白黒つけなくていいんだって思えたら楽なのにね。
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