🧠 あらすじと概要:
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』 あらすじと記事の要約
あらすじ
本作は、大九明子監督による映画で、お笑い芸人ジャルジャルの福徳秀介が原作を手がけています。物語は、登場人物たちが自分の気持ちを言葉にできずに葛藤し、他者とのつながりを求め続ける様子を描いています。スピッツの「初恋クレイジー」が主題歌として使用され、その歌詞が映画のテーマに深い影響を与えています。登場人物たちは、日常の小さな幸せを見つけながら、自らの不器用な思いやりを表現しようと努力します。
記事の要約
映画は、多くの登場人物が自身の気持ちを告白する瞬間を通じて、「言葉にできない気持ち」をリアルに表現。特に不器用さや等身大の感情が強調されており、観客に共感を呼ぶ。また、日常の小さな出来事に喜びを見出す姿が描かれ、幸福は家族や友人との何気ないやりとりから生まれることを示しています。作中で象徴的に使われる雨や傘、バンドなどの要素は、登場人物たちが抱える不安や葛藤を示唆し、観客に深い余韻を残します。この映画は、身近な人や物の尊さを再認識させる、温かくも感慨深い作品です。

先日、『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』を鑑賞しました。感想です。
監督・脚本は大九明子。お笑い芸人ジャルジャルの福徳秀介『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』を原作としています。彼は20年来のスピッツファンであり、スピッツ「初恋クレイジー」を主題歌にすえています。
本作はその「初恋クレイジー」の世界観をそのまま映画に落とし込んだかのような作品。特に、曲中の「言葉にできない気持ち ひたすら伝える力」という歌詞が大きなテーマの一つであるように感じます。自分の中で整理のつかない気持ち、整理をつけたくない気持ち。それでも、相手に伝えたいという素直な一心で、不器用なまま言葉を紡いでいく勇敢さ、尊さ。それが痛いほどに伝わってくる映画でした。
作中では、登場人物たちが胸中を告白する場面がいくつか出てきます。恋愛的な告白に限らず、です。その時の言葉選びはあまりにリアルで、生々しく、告白している本人も、自分の中で片付いていないことを吐露しているのだろうと思います。でも、この作品の魅力はそこにあるはずです。形式ばった言葉を組み合わせてならべていくのではなく、自分にしか言えない言葉で、希釈することも曲げることもなく、なるべく等身大のまま気持ちを伝えようとする健気さや愛おしさがそこにはあります。
また、日常に転がっている小さな幸せを拾ってくれる映画でもありました。好きな人と散歩する、友人とテレビを大音量で見る、好きな曲を紹介する、カフェのメニューの名前を見て笑う、友人とコンビニ飯を食べる、押すべき扉を引いてしまって笑う、犬を撫でる…。幸せって、実は小難しいことではなくて、ちゃちで、くだらないことなのかもしれない。自分と、その人しかわからないことで、笑い合えていればいい。 スピッツ「ロビンソン」は誰もが一度は耳にしたことのある名曲です。「同じセリフ 同じ時 思わず口にするような ありふれたこの魔法でつくり上げたよ 誰も触れない二人だけの国」
例えば冬の朝、好きな人や友人と二人で肩を並べて歩いていて、そこに北風が吹く。「さむっ」と二人。「ハモったね」とかなんとか言いながら笑いあう。「さむっ」なんて、誰でもいえる言葉。難しい魔法の呪文なんかじゃない。それでも、二人だけが知る文脈を持った「さむっ」は、大きな意味を持つ。笑いをもたらす。スピッツのいう「幸せ」はこのように語ることもできそうです。他の曲にもスピッツの幸福論は表現されているのではないでしょうか。他人には、くだらない、愚かだ、と言われることも、二人にとっては特別。どんなに小さくても馬鹿にされても、そういう幸せを大切に抱きしめて生きていきたい。スピッツを20年以上聞いているジャルジャル福徳だからこその物語だと思います。
作中で、象徴的な使われ方をしていたものがいくつかあります。雨、傘、お団子頭、バンドなどです。雨が降れば、傘をさして人から離れられる、だれにも見られないで済む。お団子頭をしていれば自分が少し強くなった気がする。お団子頭は一種の武装。現代を生きる大学生の登場人物だからこその発想なのかなと思います。人目を気にしていない方がおかしい、だれかと一緒にご飯食べないと「ぼっち」、友達と一緒に授業受けるのが普通…。大学生になってもなお、学校という性質のいやなところは引き継がれる傾向にあります。自分を守るもの、隠すものとして、傘を持ち歩き、自分を強くするためにお団子頭にする。なんとも人間臭い登場人物ですし、大学生の状況をここまでリアルに描けているのはなぜなのかと不思議になったくらいでした。 「バンド」を上に挙げたのは個人的に印象に残ったからです(以下、ネタバレを含みます)。主人公小西のバイト仲間であるさっちゃん。彼女の初登場シーンはバンドサークルでの練習風景です。彼女はセカンドギター兼サブボーカルというポジションです。さっちゃんは小西に片思いをしていて、小西に他に好きな人がいると知りながら思いの丈を素直に告白します。バンドをやったことある方ならおわかりになると思いますが、セカンドギターは目立たないし、サブボーカルは飾りであって、なくてもどうにかなります。そのようなポジションと、好きな人のファーストになれないさっちゃんの恋愛状況が重なって見えるのでありました。小西の一番にはなれない。小西にとってはいてもいなくてもそんなに変わらない。そう思い込んでいるのでした。しかし、さっちゃんは告白した後不慮の事故で命を落とします。小西は愕然とする。失ってからその大きな存在に気が付くのでした。セカンドギターもハモリも、いなくてもいいかもしれないけれど、いなくなった途端に、色が消えてモノクロになった感じがする、物足りない気分になる。存在しているときは気が付かないその尊さに失ってからやっと気づかされる。胸が苦しい場面でした。「ある」もの、「いる」ひとには、いつしか甘えてしまうのが人間です。この映画を思い出す度に、また、スピッツ「初恋クレイジー」を聴く度に、身近なものや人の尊さを実感していくのだろうなと思います。 鑑賞中や鑑賞直後だけでなく、長期的に胸にじんわりしみこんでいくような、リアルですっぱい、しかし温かくもある映画。幸せのなんたるか、について考えるきっかけをくれる傑作です。
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