水曜日, 5月 28, 2025
ホームレビュー映画映画『ヴィクトリアとベッドで/ヴィクトリア』ネタバレ感想/“男勝り”な女の何が悪いA子

映画『ヴィクトリアとベッドで/ヴィクトリア』ネタバレ感想/“男勝り”な女の何が悪いA子

🧠 あらすじと概要:

映画『ヴィクトリア』のあらすじと要約

あらすじ
『ヴィクトリア』は、シングルマザーで弁護士のヴィクトリアが主人公の物語です。彼女は、元恋人に殺人未遂で訴えられた依頼者の弁護を引き受ける一方、過去の顧客や元夫との複雑な人間関係を抱えています。3人の男性がそれぞれの形で彼女を取り巻き、感情的な葛藤や社会的な期待と戦いながら、ヴィクトリアは自らのアイデンティティを模索していく姿が描かれています。

要約
この記事では、『ヴィクトリア』を通して描かれる「男勝りな女性」としてのヴィクトリアの姿と、それに対する社会の偏見がテーマにされています。ヴィクトリアは、仕事に打ち込みながらも、周囲の男性たちから期待や批判にさらされ、自身の選択に対する疑問が生じる状況に直面します。監督ジュスティーヌ・トリエの作品全般を通じて、女性に対する無意識の偏見や期待を浮き彫りにし、女性が自分らしく生きることの難しさを描いています。特に、女性としての振る舞いや選択が、男性には求められない道徳的基準で評価されることに焦点を当てています。また、ヴィクトリアのキャラクターは共感しにくく、自分勝手に見えるが、それが社会的期待とどのように絡み合うのかが問われています。

映画『ヴィクトリアとベッドで/ヴィクトリア』ネタバレ感想/“男勝り”な女の何が悪いA子

記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

見出し画像

A子

2016年制作(フランス)原題:Victoria監督、脚本:ジュスティーヌ・トリエキャスト:ヴィルジニー・エフィラ、ヴァンサン・ラコスト、メルヴィル・プポー、ロール・カラミー、ロラン・ポワトルノー

フランス映画レビューまとめ

落下の解剖学』(2023)で第76回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したジュスティーヌ・トリエ。

初めてジュスティーヌ・トリエ監督作を見たのは『愛欲のセラピー』(2019)であった。その後、長編デビュー作の『ソルフェリーノの闘い』(2013)、『落下の解剖学』の順で鑑賞。

そして、最後に見たのが長編第2作目である『ヴィクトリアとベッドで/ヴィクトリア』(2016)だ。(以下『ヴィクトリア』)

『ヴィクトリア』は、ドキュメンタリーと劇映画をミックスされた長編デビュー作『ソルフェリーノの戦い』(以下、『ソルフェリーノ』に通じる部分もありながら、前作ではジャーナリストであった主人公が弁護士となり、裁判シーンや犬の目撃者が出てくるところに『落下の解剖学』を思わせる部分もあった。

また、ジュスティーヌ・トリエ監督作品4作、全てを鑑賞し、『落下の解剖学』がジュスティーヌ・トリエ監督にとって一つの集大成ともいうべき、描いてきたテーマの完成形に近い映画であること分かる。

では、そのテーマとは何か。『ヴィクトリア』をベースに見ていきたい。『落下の解剖学』では、裁判劇を通して、男女を反転させることで無意識の偏見、押しつけられたものを浮き彫りにしていたと言える。

『ヴィクトリア』、『ソルフェリーノ』にもそれに通じるテーマはあるが、それ以上に浮き彫りになるのは“男勝り”な女、自分勝手で他者のことを考えない、そんな彼女たちに尊厳を傷つけられたと訴える男性が出てくる。

要するに、ここは『落下の解剖学』ともつながるが、主人公が女性ではなく男性であったらそこまで批判されるべきことではないのに、女性になった途端に非難されるべきものになることを浮き彫りにしているのだ。

『ヴィクトリア』では、離婚したシングルマザーで弁護士として働くヴィクトリア(ヴィルジニー・エフィラ)と、彼女を取り巻く3人の男性を通して描き出す。それぞれ、3人の男性について簡単に。

①ヴァンサン(メルヴィル・プポー)
元恋人から、殺人未遂で訴えられ、ヴィクトリアに裁判を頼む。訴えられたのも、結婚式場で元恋人と性行為をし、それが無理矢理であったと訴えられている。目撃者は飼い犬のみ。

②サム(ヴァンサン・ラコスト)
以前ヴィクトリアが裁判で担当した麻薬密売人。弁護士の仕事がしたいとヴィクトリアに助手にさせてくれと頼むが、ヴィクトリアは断り住み込みのベビーシッターとして雇う。

③デビッド(ロラン・ポワトルノー)
ヴィクトリアの元夫で作家。フィクションだと言いながらヴィクトリアや担当した案件を実名でブログに書き、ヴィクトリアに訴えられる。

興味深いのはサムとデビッドである。両者共にヴィクトリアを愛すが、彼女といると惨めになると感じる。それは、彼女が仕事を愛していて頭の中がそのことばかり。その上、誰かを頼ったりもしない。怪しげな占い師やカウンセラー相手には話すのに。

デビッドとヴィクトリアが明確に別れた理由等は描かれないが、ヴィクトリアについてブログに書き、講演会のようなところで尊厳を踏み躙られた等の発言をしていた。

また、デビッドについて頭を悩ますヴィクトリアに、サムが「ブログに書くほど君のことを考えているんだよ」と見当違いのことを言ったりする。

境遇的にサムはデビッドに共感するところがあるのか、それがまたこのテーマに対するグロテスクさを露呈しているとも言える。そして、それを言われたヴィクトリア演じるヴィルジニー・エフィラの「は?」という表情まで痛烈で見事だ。

このヴィクトリアと元夫のデビッドの関係性は、全作『ソルフェリーノ』にも近いところがある。面会に関して言い争いをしているところなどまさに。

ベッドでのヴィクトリアの様子に関しても、男勝りだと言われ、ヴィクトリアはそんなつもりはないという。このようなふとしたところで“そうあるべき女性像”ではないことをヴィクトリアは非難されている。

ヴィクトリアが、男性を取っ替え引っ替えしているが、恐らく女性用風俗のような、商売として性行為をする男性を自宅に呼び、行為をしている。そのあたりも痛烈だ。

サムとデビッドに関しては分かりやすいが、ヴァンサンはどうであろう。確かに元恋人との関係性に関していえばクズと言われても仕方ないが、それがヴィクトリアに関係するわけではない。

しかし、終盤ヴィクトリアの家に3人の男性がやってくる場面がある。そのような場面で顕著になるが、女性に起訴されて傷ついたプライドを女性によって慰めてもらおうとしているといえる。

反論もあるかもしれないし、一概にはいえないが、このように女性に対して心のケアをしてくれるべき存在と無意識に思っている人はいる。母親のような役割を求めているとも言えるかもしれない。

ジュスティーヌ・トリエの作品を通して私が好きだなと思うのは、主人公を共感しやすいキャラクターにしないことだ。本作の感想を読んでいると、ヴィクトリア自身の甘さ、自分勝手さが招いたことと、ヴィクトリア自身に矛先を向ける感想もある。

別にそれは間違っていない。しかし、よく考えてみてほしい。無意識に女性に対して様々なことを求め、出来ていないだけで叩いていい存在としていないだろうか。

一方で、男性であれば仕方ない、そういう人だで片付けていることもあるのではないだろうか。(勿論、異論はあるかもしれないが……)

共感しやすいいい人でないといけないのか。自分勝手な仕事人間で、家事や育児をシッターに任せていてはいけないのだろうか。

余談だが、目撃者が犬ということで、犬の検査をするというシュールな場面もあり、『犬の裁判』(2025)を思い出した。

見出し画像© 2016-ECCE FILMS-FRANCE 2 CINEMA



続きをみる


Views: 0

RELATED ARTICLES

返事を書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

- Advertisment -

インモビ転職