🧠 あらすじと概要:
映画「秋が来るとき」あらすじと要約
あらすじ
80歳のミッシェルは、パリを離れブルゴーニュの自然豊かな場所で一人静かに暮らしている。彼女は小さな畑で野菜を育て、親友のマリー=クロードと共に森でキノコを採っては料理を楽しむ生活を送っていた。ある日、娘のヴァレリーが訪れ、ミッシェルがふるまったキノコ料理を食べたことで中毒を起こし、病院に運ばれてしまう。母と娘の関係はさらに悪化し、そこにマリー=クロードの息子ヴァンサンが絡むことで、静かに見えている生活に緊張感が漂う。
要約
本作は、緊張感と裏表のある人間関係を描いたドラマ。ミッシェルは表面的には穏やかな老女として描かれるが、実際には彼女の行動には計算があり、過去の影響が色濃く残っている。ミッシェルとヴァレリーの断絶や、ヴァンサンとの関係は物語の核心を成し、彼女の「女」としての強さと複雑さが明らかになる。物語を通じて、観客は善悪の境界が曖昧であることを強く感じ、キャラクターたちの心の葛藤に引き込まれる。最終的には、罪や赦し、女の老いに関するテーマについて深く考えさせられる作品となっている。
森のキノコにご用心🍄
森にはさまざまなキノコが生えている。よく見なければ気づかないが、一度目に入ると、あちこちにそれは生えているように見える。そして、その中には毒キノコもある。
見た目は普通で、美味しそうなのに、確かに人を蝕む毒を秘めている。
ポスターで見たときは、穏やかな老女二人が自然のなかで過ごす、ほのぼ老後ライフを描いた作品かと思っていた。
だが、その期待はいい意味で裏切られる。
そこはやはり、フランソワ・オゾン監督。決して一筋縄ではいかない。ε-(´∀`; )
迷子になるぅー、、、。
⚠️以下内容に触れます⚠️
ナイショ(´・×・`)
🤫
毒きのこの鑑別は難しい
一見、穏やかな老女として映るミッシェル。
だが、ふるまったキノコ料理を自分は食べず、娘が倒れる前に余った料理を捨てる行為には、普段の無駄を嫌う彼女の習慣から見ても違和感がある。
それは偶然だったのか、あるいは意図的な選択だったのか。ミッシェルの穏やかな振る舞いの裏に、ひっそり森に佇む毒キノコを想像してしまう。そして考えてしまう。毒キノコ事件を思えば、孫に会えず嘆く“悲しい老婆”という状況すら、彼女の計算だったのではないかと。哀れを誘い、共感を誘うように見せながら、彼女は着々と“自分の物語”を進めていたようにも思える。
ミッシェルという女
キノコ毒事件のあと、ヴァレリーはミッシェルに対して明確な距離を取り、「もうルカを会わせない」と宣言する。
孫のルカを何よりの喜びとしていたミッシェルにとって、それは決定的な断絶だった。
やがて、ヴァレリーは転落死する。観客はこの事件の裏に親友の息子ヴァンサンが加担していることを知らされる。
ミッシェルの持つアパルトマンやブルゴーニュの高台の邸宅を見れば、いわゆる街娼の暮らしではない。
むしろ長く囲われていた愛人、いわゆる妾だったと考える方が自然だ。
彼女が「孫が生まれるまでは娼婦だった」と語った言葉も、単なる性の労働者というよりは、“女としてひとりの男と生きてきた”という意味合いを感じさせる。だが、その姿を見て育った娘ヴァレリーは、彼女を母として肯定できなかった。
女としての顔を捨てない母に対する嫌悪と苛立ちが、二人の断絶の根にあったのだろう。
その「女」としての力は、老いてなお衰えなかったようにも思える。
ヴァンサンに対する振る舞いは、単なる親友の息子に向けるものではなかった。
店の開店資金を援助し、祝いの日には髪を下ろして赤いワンピースを身にまとい、華やかな姿で現れる。
ミッシェルは、自らの身体性と魅力をよく理解しており、年齢を重ねてもなお、相手を惹きつけることをやめていなかったのではないか。
ヴァンサンが彼女を「美しい」と言い、彼女のために暴力さえ辞さなかったのかと思えば、ミッシェルはその手練手管で彼の心を篭絡していた可能性すら感じる。またそんな親友の毒も理解していたように思う親友マリー=クロード。息子と踊るミッシェルの姿を見つめる目は、見透かしているようだった。ミッシェルは、生涯をかけて“女であること”を生き抜いた人物だったようにも思える。思えば今作で出てくる女性は全てシングルマザーだ。ミッシェル、親友、娘、警部に至るまで。ただ、時代が違うだけで、シングルマザーの難易度は大きく異なる。警部が夫がいないことを、さもあたりまえのように言う姿は、ハードモードを超えて来たミッシェルには眩しく映ったようにも思えた。
マグダラのマリア
映画冒頭、教会のミサで神父が語る「マグダラのマリア」。
かつて娼婦とされ、罪深い女とされながらも、キリストの受難と復活に最も近く寄り添った存在として、聖書のなかでは“イエスの死と復活を見届ける証人”として描かれる女性。
それは、「もっとも汚れた者」と「もっとも聖なる者」が一つの身体に共存し得ることの象徴だ。
日本人にはあまり馴染みがないが、今作の冒頭からでてくるので、物語の核を派手に提示しているようにも見える。
ミッシェルはそんな二重性を体現した女として描かれたのだと想像する。
罪ある女として生きた過去、愛人としての年月。
そして現在、孫を愛し、庭を耕し、静けさの中で老いを受け入れていく姿。
だがその穏やかさの背後に、死と再構築を思わせる“意思”が潜んでいたのではないかと感じさせるのがこの映画だ。
彼女は悔いを背負いながらも、決して恥じることなく、自らの生を貫いた。まさに烈女である。
赦しを乞うこともなければ、誰にも語らず、ただ黙って死に向かって歩いていく。
その姿は、観客に問いを投げかけるようだった。
罪とは何か、赦しとは誰が与えるものなのか?
そして女が老いていくということは、何を意味するのか。
ミッシェルは、あらゆる答えを抱え込んだまま、まさに“マグダラのマリア”のように生涯を閉じる。
森で彷徨うように
罪と愛。母と女。
正しさとは何か。
この映画は、それらに明確な答えを出さない。ミッシェルの人生には、毒も、赦しも、慈しみも混ざっていた。善悪をひとつに括れない、言葉にしきれない複雑さ。
それは、森の奥深くにひっそり生えるキノコ🍄を想像させられる。
社会的には何も起こらなかった物語だ。 だが、私たちはその森の一端を見てしまった。
毒がどこにあり、誰がそれを食べ、何が変わっていったのかを。
目の前に森が広がり、迷子になる感覚に陥る作品だった。
圧巻。
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