🧠 あらすじと概要:
映画「犬の裁判」あらすじと要約
あらすじ
スイスで、無職の視覚障害者ダリウシュの飼い犬コスモスが、女性を咬傷した事件が発生します。この事件により、スイスの法律ではコスモスが三度人を噛んだ場合、殺処分と飼い主に罰金が科せられます。弁護士アヴリル・ルチアニは、他の弁護士たちが断ったこの依頼を引き受けることを決意します。コスモスの命を守るため、法廷に立つ犬の権利や、人間社会の矛盾について追求していきます。
要約
映画「犬の裁判」は、犬が法廷に立つという前代未聞の内容を通して、動物の権利や人間社会の偽善を鋭く問いかけます。アヴリルは、犬にも裁判を受ける権利があるのではないかという視点から、法制度の硬直性や倫理的矛盾を突き詰めます。裁判は、動物だけでなく人間社会の様々な問題、例えば移民や女性差別などを浮き彫りにし、最終的にもたらされる結末は、観客に対して「裁かれているのは誰か?」という深い問いを投げかけます。また、本作は、ただのコメディや愛らしい動物の物語ではなく、現代社会の真実を映し出す巧妙な批判でもあります。
依頼内容は、その決定を不服として正式に裁判を起こしたいというもの。7人の弁護士が断ったと聞く勝ち目のない訴訟だったが、アヴリルはそれを引き受ける。(ノ∀`)犬にも裁判を受ける権利があるのではないか?
その問いを極限まで突き詰める。
予告編ではコミカルに見えたこの映画は、ラストに向かうほどにシリアスさを増し、社会の偽善と矛盾を抉っていく。
その意味で、本作は“人間社会の裁判”であり、観客一人一人に対して突きつけられた法廷でもあったように思う。
本当に、最近予告のイメージを裏切られる映画が多くてドキドキします。(;’∀’)その宣伝の仕方は果たして映画にとってプラスなのか悩んじゃう。
今作をコメディとして笑うために来たとか、犬可愛い!好き( ⑉•͈ ꇴ •͈ ⑉)♥︎︎を求めて映画に来た人と、今作の内容のターゲットが違うように思うけど、、どうなのかしらん。。( ´~`)
以下内容について(ネタバレ)
ナイショ(´・×・`)
犬が悪いことしたらしいニャ
Three Strikes Law ⚾
ダリウシュのもとに間借りしていたポルトガル移民の若い女性ロレネが、飼い犬のコスモスに顔を噛まれる事件が発生したことに端を発する「犬の裁判」。コスモスには、過去にも二度、人を噛んだ前歴があることを弁護依頼の時に聞かされる。スイスの法律では、同じ犬が三度人を噛んだ場合、殺処分および飼い主に対する罰金(1万フラン)が科される。ダリウシュはその決定に異議を唱え、ルチアニの元へ弁護依頼に来た。
だがこの案件は、犬が法廷に立つという前代未聞の裁判に発展する。
原告ロレネの弁護に立つのは、「強いスイス党」を率いるフェミニズムの象徴ともいえる辣腕弁護士ロズリーヌ。
奇妙な法廷は、動物の権利、女性差別、移民問題、社会秩序・・・様々な社会的争点を抱え込み、街を巻き込む騒動へと発展していくのだった。
犬はモノか
本作で最も根本的な問いのひとつが、
「犬をどう位置づけるか」という法的観点である。
スイスの法律では、犬が三度人を噛んだ場合、殺処分と飼い主への罰金が科される。
つまり「危険な存在」と判断された時点で“処分”の対象となる。
日本でも、民法第85条により、犬や猫などのペットは「モノ(有体物)」として扱われる。これは所有権の対象としての「動産」にあたることとなり、家具や車と同じカテゴリーに置かれている。更に民法第718条では、動物が他人に損害を与えた場合、所有者が賠償責任を負うと定められている。だが、ここで問われているのは「所有者の管理責任」であり、犬自身の意志や責任能力は考慮されない。(ᐡ• ﻌ • ᐡ )
そこにあるのは、「犬はモノである」という前提に基づいた制度設計である。犬は感情を持ち、苦しみ、喜び、愛情を示す存在であるにもかかわらず、法的にはいまだに“人間の財産”という枠を出ていない。(ᐡ ´ᐧ ﻌ ᐧ ᐡ)これは哲学的にも倫理的にも大きな矛盾をはらんでいる。
一方で、「犬に権利を与える」とはどういうことか?
本作でルチアニが挑戦しようとしたのは、まさにそこだ。
人格権とまでは言わずとも、命ある存在としての“自己の尊重”を法の場で認めさせること。これは、動物を権利の主体(法主体)とみなすかどうかという根本的な法哲学の議論である。
近年では環境法や動物福祉法の分野でしばしば取り上げられる問題。
現状、法が追いついていない以上、「モノ」としての処分が優先される。(ᐡ ´; ﻌ ; ᐡ)
その冷酷な現実が、本作の裁判劇の根底に流れている。
今作は、法制度の硬直性をブラックユーモアで突き崩しながら、観客に「そもそも法とは誰のためにあるのか?」とそもそも論として問いを投げる。
動物裁判 ( ฅ•ω•)ฅ ニャー
作中、登場人物が「中世以来の動物裁判だ」と揶揄する場面がある。
中世から近世にかけてのヨーロッパ、とりわけフランスやスイス、イタリア、ドイツなどでは、実際に動物が人間と同じく法廷で裁かれていた記録が数多く残っている。
動物裁判には大きく二種類ある。一つは、人間に危害を加えた動物が「刑事事件」の被告として訴追されるもの。
もう一つは、農作物を荒らす動物が(ミミズまで!!)が「教会法廷」に訴えられ、呪いや追放を命じられるというものだ。
たとえば1386年フランスで、赤子を噛み殺した豚が絞首刑に処された。
豚には衣服が着せられ、人間と同様の手続きを経て公開処刑された。(・🐽・)ブヒー
1519年にはフランスで、穀物を食い荒らしたネズミの群れが出廷を命じられ、弁護士が「彼らには安全な移動の保障がない」として欠席の正当性を主張した。弁護人までつけている。
今ここでネタにされる程度にとんでも話だと思う。(;’∀’)
1474年のスイス・バーゼルでは、雄鶏が卵を産んだことが「悪魔的な行為」とされ、火刑に処されている。焼き鳥が食べたかっただけじゃないのか。(๑´ڡ`๑)
こうした裁判の背景には、当時の宗教観が色濃く影を落としている。キリスト教世界においては、すべての行動は神の意志に反するか否かで判断され、はみ出したものは全て悪魔の行いだった。神から与えられた動物が人を襲い、異常な行動をとる。それは単なる動物の生理現象ではなく、神の秩序への挑戦であり、共同体が宗教を信じるための断罪が必要だった。そのように、動物に裁きを与える行為は、倫理や法の問題ではなく、宗教世界での秩序維持だった。裁判という形式を用いて、共同体の宗教を悪から切り離す。人間社会を守るために、理性がない動物であろうと必要な儀式だったのだと想像する。
一方、今作「犬の裁判」では、動物が宗教的象徴ではなく、社会的・政治的な象徴として裁かれる。中世までの動物裁判が「神の名のもとに悪を祓う儀式」だったとすれば、現代の裁判は「法と秩序の名のもとに逸脱を管理する装置」。
動物が「モノ」とされる一方で、倫理やジェンダー、移民政策といった社会的文脈に組み込まれれて、政治的に利用されていく。
「犬の裁判」は、そんな現代社会の構図を中世的滑稽さと共に描き出す。動物裁判の奇妙さに笑いながら、ふと我に返った時、現代もまた儀式の延長なんじゃないかと思える。
裁判という茶番
第一審は簡易裁判所で開かれ、手続きは淡々と進行した。犬が三度人を噛んだ・・・ならば法の定めどおり、殺処分と罰金。
それで終わるはずの裁判だった。
だが、アヴリル・ルチアニはそこに噛みついた。「ただ右から左へハンコを押すだけの仕事を、あなたは誇りに思っているのか?」そう裁判官を挑発し、強引に議論を持ち込み、控訴審へと裁判を引っ張りあげる。
動物の人格権が認められたら、それは判例として世界に残る。歴史が変わる──ルチアニの熱弁は、単なる理想主義ではなく、裁判の舞台化を狙ったものにもみえた。
やがて、倫理委員会が組織される。
精神科医、動物行動学者、哲学者、宗教指導者──イスラム教、ユダヤ教、仏教、キリスト教。あらゆる立場の「倫理」の担い手が集まり、犬に善悪の判断ができるのか、意識とは何か、魂の所在とはどこか、真面目に議論を始める。
その光景は、滑稽ではあるが、作品が問うている内容が興味深かった。
もし人と同じ枠に犬を組み込むならば、どこまでを共有できるのか、それともやはり、交わらない線があるのか。
そんな中、動物行動学者が開発した「ボタンを押すと犬が言葉を発する装置」が登場する。(U・ᴥ・U)っ凸予告編でもワクワクしたシーン。裁判長がコスモスに「あなたは原告の顎を噛みましたか?」と尋ね、犬は意味もわからずにボタンを押す。
ときにはそれらしい単語が出るが、ほとんどは反応しない。わかっていたはずの結論が、こうして「証明」される。
ふと考える。犬と人間とでは常識が違うというが、人間同士でさえ、戦争の名のもとに殺し合いを繰り返してきた。理性とは善悪とは。
誰が定義したものなのか。
犬の差別感情
この映画は、ただ「犬が裁かれる」だけの物語ではない。
裁判の過程で露わになるのは、現代社会のもつ矛盾と、そこに生きる人間の滑稽さ。
視覚障害者で盗癖のあるダリウシュは、スイスの福祉制度に支えられた存在だ。だが事件が起きるや否や、彼の社会的立場は急速に不利になっていく。対する原告ロレネはポルトガルから来たばかりの移民。彼女がスイスに残るためにこの事件を利用したのではないかという疑念も匂わされる。裁判は単なる個人間の争いを超え、この国に必要なのは誰か?という排外主義の空気すら孕んでいく。
傷を負ったロレネが最初にマスクをしていたことは象徴的だ。
顔の傷が明らかになる前、世論は犬に同情的だった。
だが、マスクを外し、その傷の深さが露わになった瞬間、空気は一変する。そして犬の習性から女性が噛つかれやすいというコスモスの行動が示される。
ロレネの弁護人ロズリーヌは、移民問題と治安悪化への警鐘を鳴らし「強いスイス党」を率いる政治的野心家。彼女は、裁判で「犬にも女性蔑視がある」と主張し始め、それにフェミニズム団体が賛同する。
フェミニズム、ナショナリズム、ポピュリズムが、この犬の裁判に収束していく構造は、まさに今のヨーロッパ社会を凝縮したかのようだった。
野生の力を試してる (∪*・ω・)ワンワン
コスモスはもともと野良犬だった。ダリウシュが拾い、心の拠り所として生きてきた。コスモスの存在に自分を重ねていたのかもしれない。だからこそ彼は、無謀な裁判であれ、コスモスを守ろうとしたのだろう。作中でも語られる、狼が家畜化して犬になった話。だが、人間の生活に飼い慣らされた存在ではあっても、完全に“野生”を捨てたわけではない。
裁判中コスモスの管理をする犬に詳しいマルク。彼は「犬には犬の論理がある」と語る。そして同時に、人間もまた、性欲という形で“野生”を持ち続けていると。ルチアニとの関係の描写で「君の上に乗るのが好きだ」というマルクの言葉と、それを聞きたがるルチアニは、社会が成熟しても、男女の変わらない動物的な性欲を象徴していた。
「うちの犬は噛まない」という飼い主の言葉は、裏返せば「完全に服従させた」ことの証明でもある。
共生とは、完全な服従を意味するのだろうか。
コスモスは人間社会に適応しきれなかった存在として排除されたが、それは人間の側の“傲慢さ”をも映し出している。
哲学爆弾
裁判は敗訴となり、コスモスは殺処分される。ロレネには賠償金が支払われ、彼女は新たな人生を始める。
アヴリルはこの経験を通じて、環境法や動物福祉の専門家として新たなキャリアを歩み出したと描かれる
だが、この結末は決して爽快なものではない。むしろ、苦い後味とともに観客に突きつけるのは、「倫理が成熟した果てに生まれた争い」である。動物の権利、フェミニズム、宗教、移民。
あらゆる立場の“正義”が持ち寄られたはずの裁判は、いつしかただの「対立の祭典」になっていた。
裁判所の外ではデモが行われ、プラカードを掲げた人々が互いに罵声を浴びせる。コスモスという一匹の犬の命をめぐるこの裁判は、社会全体の不安と分断をむき出しにした装置になった。誰もが正しさを語り、誰もが相手を否定する。
「動物と共に生きる社会」の理想は、結局のところ“人間にとって有用な動物”だけを許容する社会の言い換えに過ぎなかった。
その構図は、まさしく移民問題と同型である。文化的に、経済的に“共生可能”と判断された移民だけが受け入れられ、それ以外は排除される──「共に生きる」とは、つまるところ「従順であれ」という条件つきの共存に過ぎないのだ。
ラストに淡々と実話を元にした物語とあるといわれ退路が断たれる。
どこまでも滑稽で、どこにも救いのない終幕。
現実は全然楽しくないよね?と静かに突きつける。そして優しく響く歌。「私が鳥だったら、、、」歌詞は、しがらみを軽々飛び越えられるのに、、と自由を妄想するが、「でも、私は蛇でしかない。。。」
と、現実は地を這うしかないと、現実の制約を歌う。
今作は、笑いながら観始めた観客に、「裁かれているのは誰か?」という不快な問いを残す。中世の動物裁判よりも、現代のほうが人道的だと言い切れますか、、と問われるようでもあった。
動物を理解していると思っている現代の人間の傲慢さを皮肉ってくる。
そのため、人間中心主義を否定する内容ではない。犬の命を尊重はしているが、人間と同等にするべきとは言ってない。移民のロレネや、それを取り巻く世界も描くが、白黒もつけていない。そんな矛盾や奇妙さを徹底的突き詰めた作品だった。答えがない苦さをユーモアの皮をかぶせた、哲学爆弾なのだろうと思う。💣あーだこーだ悩むのが正しい見方なのね。きっと( ˘•ω•˘ )
それにしても、コスモス役の犬さんが、圧巻の演技でした。パルムドック受賞なのですね ╰( U ・ᴥ・)✨車で一緒に歌ってるシーンと、ボタン押すところが、可愛くて賢いえらい。猫派だけど改宗したくなります(´∀`*)ウフフ
わたし、猫なんですが・・
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