🧠 概要:
この文章は、感情の構造化とその自動化が自己理解や自己表現に与える影響について考察しています。著者は、感情の整理をAIに依存することが自己効力感の喪失につながる懸念を表明し、自らの手で感情を整理する重要性を強調しています。
### 概要
– 感情の構造化に関する考察を続けている。
– 自己概念は強い感情体験に依存しやすい。
– AI技術を用いた感情の構造化の実用性とリスクについて議論。
– 感情を自分で整理することで自己効力感を得ることが重要であると主張。
### 要約 (箇条書き)
– 感情の構造化は自己理解に不可欠である。
– AIを用いることで感情の整理が効率的に行える可能性がある。
– AIによる自動化は、自己の感情を他者の感情と混同させるリスクがある。
– 自分で感情を整理することで得られる自己効力感が大切。
– AIはサポート役として利用し、自分自身の手で感情を構造化するプロセスが重要である。
– 非効率であっても自らの努力を通じて見出す自己理解が価値がある。
Sanoです。記事をご覧くださりありがとうございます。
初めましての方はこちらの記事をご覧ください。
はじめに
二日連続で感情の構造化というテーマについて書いてきました。
自分自身がどういう人間であるかという自己概念は、強い感情体験に結びつきがちでではないでしょうか。なぜなら、体験の強度が微妙な感情はすぐ忘れてしまうからです。ですから、自分自身の偏った記憶を頼りに自己像を規定している可能性がある。そこから脱却して自分自身を知っていくためには、自分の感情を構造的に捉えていくことが必要なのではないか。構造的に感情のダイナミクスを捉えようとすれば、構造が曖昧な感情を稠密にしようとすることで、欠けている感情のピースに気づくことができる。それによって、自分自身をよりよく理解していけるのではないか、ということを下記の記事で書きました。
続いて、構造的に感情を捉えていくことから欠落していた記憶や感情の断片が埋められていくので、もしそのことをのように文章で表現したならば、その文章の心理描写や情景描写が緻密でリアリティーが与えられ、人を惹きつけ共感されるような文章に発展していくのではないか、ということを次の記事で書きました。
もし感情の構造化が自分自身の理解を深めることや自分の感情を文章で表現していくことに有益ならば、それをより効率的に行いたいと思う人がいるかもしれません。
昨今であればAI技術が発展していますから、Obsidian, NotionのようなドキュメンテーションツールとAIを組み合わせることで、文章を自動で構造化したり、インサイトを提供してくれたりすると思います。
今ここで考えているのは、自分自身を知るような感情の構造化、感情の整理ですが、それも日記やジャーナリングのような文章で書いていけば、何らかの自動化プロセスを適用することはできるのではないかとも考えられます。
でも、それは自分が望んでいことなのか。
私の直感的な気持ちとしては、感情の構造化はたとえ非効率でも自分自身で行いたいと思う気持ちが強いです。
なぜか。それを以下で書きつつ考えていきたいのですが、簡単にまとめておくと『自分で感情の構造化をやった』という実感を伴いつつ、日々の生活を送り、自分の理解へと繋げたいから、と思うからです。おそらくここには自己効力感が関係していると思っています。
もし感情の構造化をAIに自動化してもらったら。。。
例えばAIで文章を整理できるツール上で、日記やジャーナリングをつけていったとします。
日記やジャーナリングはプライベートな感情がつまっています。その文章を整理していくということは、感情を整理していくことと強く結びついているはずです。
このような文章に対してAIに「文章を構造化してください」とか「文章で論理の飛躍を埋めてください」などとプロンプトを提出すれば、あっという間に整理された文章が生成されます。
ObsidianやNotionをAIと混ぜて使っているなら、日記やジャーナリングの感情構造と出力先の文章ファイルをシンクさせてよりネットワーク構造のような分解した精緻な文章システムを構成することだってできるかもしれません。
こうして出来上がった文章は一体なんでしょうか。
AIは学習データを使ってモデルが作られているので、出力されるアウトプットもそのデータに依存しているはずです。でも、自分の人生における気持ちは、人間がある程度の感情パターンがあるにせよ、かなりの独自性を持っていると思われます。ですから、AIが完璧に自分自身を理解して感情を構造化するのは結構難しいのではないかと推測しています。
しかし、AIを使ったことのある方は体験されていると思いますが、AIはもっともらし結果、ユーザーから嫌われないような結果を出力することがあります。
回答の尤もらしさや自然さは、人間の行動や感情体験の中でよく出現するパターンに照らし合わせて出力されていると思われます。それをAIはデータから学習するはずだからです(しかも頻度の多いデータの傾向に回答が寄っていく可能性が高い)。
そうすると出来上がって構造化された文章とは、自分自身の文章に基づきつつも何か違った人の感情構造もよくわからないうちに混ぜ込まれてしまい、自分の感情に他者が無断で侵入してくるかのような状況が起きるかもしれません。しかもその侵入が侵入と気づかせないように自然に( AIの画像生成のことを思い浮かべるとわかりやすいでしょう)。
もし、出力された構造化された文章を自分自身の感情の構造化した結果だと信じ込むと、いつの間にか自分自身が意図せぬ方向に感情が変化していく可能性だってあるかもしれません。
そこまで言わなくとも、慎重にAIが出力した構造化された文章を読めば「あれ?自分はこういう感情を抱いていたかな?」と違和感を持つかもしれません。
このような状況は本来自分が感情を構造化して自分自身の理解を深め、自分の物語を自分で創っていくということに反してしまいます。
AIは非常に便利ですし、自分も毎日使っています。
利用用途は多義にわたっていますが、自分自身の感情や考えを整理するためにAIを活用するときは、全てをAIに説明しきって欲しいとか、共感や称賛してもらいたいのではなく、自分自身で感情や考えを整理して構造化するためのきっかけ(ちょっとした気づきを促すくらいのコメント)が欲しい、ということが多いです。
そういう使い方ならAIを自分の理解を深めるのに使うのもありなのかもしれないと感じます。
自分の手で感情を整理し構造化することで、自己効力感が生まれてくるのではないか
文章に書き出した感情の整理をAIに全部任せず、あえて自分自身でやりたいと思うのは、非効率なプロセスを自ら進んで辿りたいと言っているようなものです。
ではなぜそのように思うのか。
一つには、先述したようにAIが自分自身についての正確な情報をもたらさないだろう、何かよくわからないペルソナに基づいた文章によって感情整理がされてしまうのではないかという、怪しさを感じる点があります。
もう一つには、めんどくさかったり苦労することでも、それを自分の手で実行していくことで、自分自身がやって何かを達成できたという「自己効力感」が得られるからではないかと思っています。
心理学者のバンデューラの社会的学習理論によれば、自己効力感は以下のような経験を通して高まります:
-
成功体験(自分でやり切った感覚)
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代理経験(他者の努力と成果を見る)
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言語的説得(他者からの励まし)
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情動的安定(不安やストレスの少なさ)
AIによる文章整理を通じた感情の構造化自動化はこのうち(2)(3)に近い要素を補助するかもしれませんが、最も重要な「自分でやった」経験(1)を奪いかねないのです。自分自身で文章を何度も書き直したり構成を修正したりしながら、それらのプロセスの中で徐々に感情を整理し、新しい自分自身を見出していく、というプロセスが奪われてしまいます。
それによって、自分で自分の人生を舵取りできている、というある種の成功体験を奪い去ってしまう。自分の物語を自分で創っていきたいという欲求を満たすことができなくなります。
もし、日記、ジャーナリング、もしくは別の何かで文章を通じて自分自身を見つめるなら、ゆっくりでもいいから、書いた文章をたまに振り返り、そのとき気付いた言葉を書き加えたりしながら、より精緻な文章へと発展させていき、自分自身で自分自身の感情や思考を整理していけているという実感を持つことの方が、非効率だけれど、自分自身で納得して生きていくには大切なことではないかと感じています。
余談
この流れで文章を続けプロトタイプと繋げていきたいのですが、帰省が今週しばらく続くのでその間は書き溜めておいた全く違う内容の記事が投稿されます。続きは戻ってきてからになります。
今回はここまで。
読んでいただき、ありがとうございました!
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