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概要
この記事は、愛知県名古屋市での五輪招致構想の経緯とその結果について、大変悲しい結末を迎えた「名古屋五輪」誘致の失敗を分析しています。特に県市の足並みの乱れや経済界の消極姿勢、名古屋の独特な気風が招致失敗の大きな要因として語られています。
要約の箇条書き
- 2005年の愛知万博(愛・地球博)は、名古屋の五輪誘致が発端。
- 誘致は1977年に始まり、愛知県知事の仲谷義明が提案。
- 名古屋市長の本山政雄が誘致の話を知らされず、県市の連携不足が問題。
- 経済界のサポートも得られず、韓国のソウルと比較される。
- トヨタグループは積極的な支援を示さなかった。
- 名古屋独特の「気風」が影響し、地域イベントとして軽視された。
- クリーンな誘致活動を掲げロビー活動をしなかったために失敗。
2205万人を集めた2005年日本国際博覧会。「愛知万博」とも「愛・地球博」とも呼ばれますが、ここでの呼称はもっとも多くの方に親しまれた「愛・地球博」で統一して記してまいります。
愛知に万博を……
その発端になったのは「名古屋オリンピック招致」でありました。第1回は、名古屋オリンピック誘致構想とその、あまりにも悲哀に満ちた結末について、ごく簡単ではありますが記してまいります。
県市の足並みの乱れ。
五大陸から名古屋に集結する願いを込めた誘致シンボルマーク。
(画像提供:毎日新聞社)
名古屋市への五輪誘致は1977年(昭和52年)、愛知県知事・仲谷義明によって発表されます。その前、大阪市のオリンピック誘致構想に着想を得たが仲谷に持ちかけるかたちでスタートするのです。ここで前提として五輪は都市開催であって、立候補は愛知県ではなくて名古屋市がすべきもの。では時の名古屋市長である本山政雄はのちに「(名古屋五輪誘致の話が)頭越しに打ち上げられている」と不快感をあらわにしているのです。いったいどういうことなのか?
実は仲谷の述懐によると、名古屋商工会議所会頭の三宅重光(東海銀行(現:三菱UFJ銀行)会長)が仲谷との「雑談」の中で誘致の話が進んでいったのだと。三宅は当時の大阪市長である大島靖の五輪誘致構想に着想を得て名古屋への五輪誘致を仲谷に持ちかけたのです。革新系市長であった本山は誘致話をのちに知ることとなり、中日新聞の取材に「慎重に対処したい」とのコメントを残しています。結果、県が主導することを前提に「しぶしぶ(五輪誘致に)賛成しました」と語った本山。この県市のすれ違いが、名古屋五輪誘致失敗につながっていくのです。
経済界のシカト。
県市のみならず、経済界でも足並みが合いません。ライバル都市として名乗りを挙げた韓国・ソウルとの比較のなかで、当時、経済的に後進国であった隣国・韓国での開催の方が、経済的に成熟した名古屋で開催するよりも好都合だという意見が、あろうことかわが国の財界からも上がりはじめます。興味深いのは当時トヨタ中興の祖といわれた豊田英二(創業者・佐吉の甥)率いるトヨタグループが誘致に積極的な動きを一切見せていないこと。中央財界のみならず名古屋・東海地方でも統制が取れていなかった面が指摘されます。
トドメを刺した「名古屋の気風」。
さらに名古屋の「気風」こそが、夢を一気に遠ざけることに……名古屋では掛けられた恩義に報いようとするカルチャーが根強く残っていて、1995年(平成7年)の阪神・淡路大審査の折に名古屋市が支援を出すにあたり、伊勢湾台風で名古屋市が被災、その際の支援状況に応じてその額を決定しようとしたほど(のちに批判あって撤回)。1964年(昭和39年)の東京五輪、1970年(昭和45年)の大阪万博の際に名古屋・中部地方も誘致に協力しているので、名古屋開催にも協力してくれるだろうという読みがありました。ただ、東阪の政財界としては、東京五輪や大阪万博は国家的大事業、名古屋五輪は地域のイベントだとバッサリ。日本人なんて所詮そんなものであります。これは日本人全体への批判の意ではなく、そういう老獪な日本人の特性すら理解できなかった、当時の五輪誘致委の浅はかさを責めているのであります。
加えて、クリーンな誘致活動を標榜し、ロビー活動を一切やらなかったという当時の確かな文書も残っています。後発のソウルが賄賂で巻き返したのをよそに、「名古屋優勢」の情報への過度な信頼が大きな落ち度となるのです。
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