🧠 あらすじと概要:
あらすじ
本記事は、「愛」を語る一方で、その実体を見失った現代社会の状況について考察しています。日本人社会では「アガペー」という愛の概念が共有されていないものの、多くの人々は愛に対して救いや信頼を求めています。しかし、恋愛や結婚は困難を伴い、信頼関係も損なわれがちです。この中で、ローマとエルサレムには、愛が見えない現代において必要な構造としての意味があると主張されます。ローマは契約に基づく関係を重視し、エルサレムは律法に従った秩序を提供します。結果的に、愛が見えない現代の中で、構造を重視した関係性が重要であると論じています。
記事の要約
この記事では、愛が見えない現代における人間関係の歪みを指摘し、愛の見えないままでも続く秩序が必要であると説いています。ローマの契約とエルサレムの律法の重要性を強調し、愛が得られなくても、秩序や構造が人間関係を支える基盤になると結論づけています。最終的には、愛に依存するのではなく、法や契約に基づく関係性を築くことが求められています。
愛を夢見るが、見えなかった──だからローマとエルサレムが希望なのだ日本人社会では、「アガペー」という概念はほとんど共有されていない。だが、確かに多くの人が「愛」という言葉に、何か温かいもの、救いのようなもの、信頼と肯定の何かを夢見ている。しかし、現実にはその愛は見えない。恋愛は続かず、結婚は難しく、信頼は損なわれ、誰もが「自分は選ばれなかった」と思っている。にもかかわらず、制度も物語も「愛があること」を前提に動いている。それが、21世紀という時代の歪みである。見えない愛を語り続け、見えないまま制度を維持しようとする。それが限界に達している今、我々が立ち戻るべきものは、夢ではない。構造である。愛が見えないなら、次に信じられるものは、構造としての意味、行為としての関係、責任としての繋がりだ。それが、ローマとエルサレムである。ローマは、法と契約の秩序を持っている。そこでは「愛している」から一緒にいるのではなく、「約束したから」共にある。自由や感情よりも、互いの役割と責任を優先する冷静さがある。市民という言葉が機能するのは、感情ではなく契約に基づく関係だからだ。エルサレムは、律法と禁忌の秩序を持っている。そこでは「好きかどうか」よりも、「義にかなっているか」が重要だ。自分の欲望を問うよりも、「律法に沿っているか」が問われる。神の前に沈黙する共同体には、愛がなくても崩れない構造がある。愛が見えない時、人はバラバラになりやすい。自分が愛されないと感じるとき、人は「生きる意味」そのものを失いやすい。だが、ローマは「意味がなくても契約する」という勇気を与え、エルサレムは「愛されなくても律法を守る」ことで関係を持続させる知恵を残している。愛を夢見ても、それが得られない時、人は壊れる。ならば、壊れない構造をまず作るべきだ。恋愛も、結婚も、共同体も、まず「愛が見える」ことを条件にしてはいけない。むしろ、愛が見えなくても続けられる秩序こそが、人間の現実的な希望である。それがローマの契約であり、エルサレムの律法である。愛という夢が見えないのなら、我々は法の上に立って、誰かと共にいる道を選ばなければならない。神がまだ来ないのなら、神の不在を前提とした構造を──契約と律法を──先に準備しておかなければならない。アングロサクソンの恋愛という神話は、ローマとエルサレムを超える夢だった。だが、その先には何もなかった。だから人類は、再び律法へと帰還する。
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