キティ・ジェノヴィーズ事件をご存じでしょうか。
この事件は、1964年にアメリカ・ニューヨークで起きた殺人事件です。
「目撃者が多数いたにもかかわらず、誰も助けようとしなかった」として、広く知られるようになりました。
その後、社会心理学における「傍観者効果」や「責任の分散」の象徴的な事例として、多くの心理学入門書にも取り上げられています。
一度は心理学の入門書を読んだことがあるなら、目にしたことがあるかもしれません。
しかし、キティ・ジェノヴィーズ事件については、後の詳細な調査や報道によって、「38人もの目撃者がいたのに誰も助けなかった・通報しなかった」という初期の報道が、正確ではなかったことが明らかになっています。
実はこのように、心理学の入門書には、すでに否定された説や根拠のあいまいな情報が、いまだに数多く含まれているのです。
米ステットソン大学のスコット・リリアンフェルド氏らの研究チームは、大学の講義などで使われる心理学の入門書24冊を調査し、どれほど誤った内容が記載されているかを検証しました。
この記事では、キティ・ジェノヴィーズ事件のように、心理学の入門書に潜む「科学的根拠に乏しい主張」や「根強い都市伝説」を紹介していきます。
心理学を学んだことがある方も、これから学んでみたい方も、ぜひ最後まで読んで、あなたの「心理学常識」をアップデートしてみてください。
目次
- 「キティ・ジェノヴィーズ事件」は序章にすぎない? 心理学入門書の「ウソ」を暴く
- 心理学の入門書に潜む間違った事実12選
- 心理学入門書に潜む誤情報と偏向の理由
「キティ・ジェノヴィーズ事件」は序章にすぎない? 心理学入門書の「ウソ」を暴く

あなたは、1964年にニューヨークで起きた「キティ・ジェノヴィーズ事件」をご存知でしょうか?
深夜、自宅アパート前で女性が襲われた際、「38人もの目撃者がいたのに、誰一人として助けようとせず、通報すらもしなかった」とされる事件です。
この衝撃的な話は、「困っている人がいても大勢いれば見て見ぬふりをしてしまう」という「傍観者効果」や「責任の分散」を説明する、心理学の入門書では頻繁に取り上げられる、象徴的な事例として語り継がれてきました。
多くの人が、この事件を通して初めて心理学の面白さに触れたかもしれません。
まるで、人間の冷たさや集団の恐ろしさを象徴する、揺るぎない真実のように思われていました。
しかし、その「定説」は実は大きな誤解に基づいていたのです。
事件から時が経ち、詳細な検証や新たな証言によって、「38人もの冷たい傍観者」という初期の報道が、いかに不正確であったかが明らかになってきました。
実際には、事件の全体を正確に目撃していた人はごくわずかで、多くの住民は悲鳴や物音を聞いただけで、何が起きているのかを正確に把握できていなかったことが後の調査で分かっています。
また、少なくとも2人は警察へ通報していたことが記録から確認されました。
つまり、あの衝撃的な「キティ・ジェノヴィーズ事件」は、メディアによって作られた側面が大きかったと言えます。
まさか、心理学の「教科書」に載っているほど有名な話が、事実と異なっていたことをはじめて知った方はショックを受けられるかもしれません。
しかし、歪曲されている事実はこれだけではありません。
実は、キティ・ジェノヴィーズ事件はほんの一例にすぎず、心理学の入門書には、すでに学術的には否定されていたり、根拠があいまいだったりする情報が、今もこっそり潜んでいることが分かっているのです。
心理学の入門書に潜む間違った事実12選

米ステットソン大学のスコット・リリアンフェルド氏(Christopher Ferguson)らの研究チームは、実際に多くの大学で使われている心理学の入門書を調査し、その内容の正当性を検証しています。
以下に、調査で焦点を当てられたトピックを箇条書きで示します。
<論争のある研究分野>
- メディアと暴力: メディアでの暴力描写が視聴者の攻撃性や社会的な暴力に寄与する説。一般および学術界で最も議論されており、まだ結論が出ていない。
- ステレオタイプ脅威:「女性は数学が苦手」や「男性は共感性が低い」などの情報にさらされると、実際にその能力が下がる現象。結果が一貫していないとの主張がある。
- ナルシシズムの流行:近年、若者の間で「ナルシシズムの流行」がある説。支持する学者もいれば、欠陥のある統計に基づく誤った主張だとする学者もいる。
- 体罰の影響:懲罰的な体罰は将来的に攻撃性の高い大人に育つとする説。否定的な結果につながるのか、あるいは大きな影響はないという点が激しく議論されている。
- 多重知能理論:人間の「賢さ」はIQだけでは測れないとし、個人の持つさまざまな才能(芸術、運動など)を知性として扱う理論。近年では、科学的な根拠に関して強い疑問が呈されている。
- 進化と配偶者の選択:進化のプロセスが人間の恋人選びに大きな影響を与えているとする説。ほとんどの心理学者は進化が人間の行動を形成する原動力の一つであることを認めているものの、進化心理学はしばしば論争の的となっている。
- 抗うつ薬の有効性:気分障害や不安障害の治療における抗うつ薬の使用は近年増加していますが、その有効性については時に論争がある。
<根強い都市伝説>
- キティ・ジェノヴィーズ事件:1964年に米国ニューヨークで起きた殺人事件で、「38人の目撃者がいたにもかかわらず誰も助けなかった」と広く報じられた。しかし後の調査により、事件の全体を正確に目撃していた人はごくわずかで、多くの住民は悲鳴や物音を聞いただけで状況を把握できていなかった。また警察へ通報していた住民もいた。
- 洗脳された朝鮮戦争の捕虜:朝鮮戦争中に捕虜になった兵士が共産主義者によって洗脳され、戦争犯罪を自白させられたり、共産主義側に寝返ったりしたという話。洗脳の主張は一般的に誇張されており、自白のほとんどは拷問下で行われた。
- ブローカ野:言語機能が脳の特定の領域に局在しているという理論は、エルネスト・オービュルタン(Ernest Auburtin)により提唱されたものであり、外科医のポール・ブローカ(Paul Broca)はその理論を裏づける初めての解剖を行った人物。「ブローカ野の発見はブローカの功績」という説明は、厳密には正しくない。
- 脳は10%しか使っていない: 人間は脳の潜在能力の10%しか使用しておらず、残りの90%を解放すれば驚くべき認知能力が発揮できるという説。初期の神経精神医学研究の誤解や誤った解釈から生じたようで、デマであると結論が出ている。
- モーツァルト効果:クラシック音楽を聴くことで子どもの頭が良くなる現象。のちの追試で再現できないと否定された。
心理学に興味・関心がある人なら一度は見聞きしたことがあると思います。
研究チームは、心理学の入門書として人気のある教科書24冊を対象に、心理学において論争の的になっている現象や神話がどのように本書の中で扱われているのかを確認しました。
心理学入門書に潜む誤情報と偏向の理由

調査の結果、心理学の入門書や教科書において、しばしば誤情報や不正確な記述が確認されました。
たとえば、ナルシズムの流行、朝鮮戦争の捕虜に対する洗脳、脳は10%しか使っていない説、さらにはモーツァルト効果は、75%以上の教科書が未掲載でした。
また、ステレオタイプ脅威やキティ・ジェノヴィーズ事件、ブローカ野に関しては、事実と異なる記述されているケースが確認されています。
多くのトピックにおいて、公平かつ事実に沿った記述がなされている部分は少なく、特に「脳は10%しか使われていない」という説については、わずか4分の1の書籍でしか正確な記述が見られませんでした。
では、なぜ心理学の入門書には、こうした誤情報や一方的な記述が含まれてしまうのでしょうか。
リリアンフェルド氏らの研究チームは、いくつかの理由を挙げています。
まず第一に、心理学の分野そのものの広さが原因として考えられます。
心理学は、記憶や学習、発達、認知、感情、精神疾患、社会的行動など、非常に多岐にわたるトピックを扱います。
そのため、一冊の教科書ですべてを網羅しようとすると、どうしても著者個人の専門外の領域については知識が浅くなってしまいがちです。
その結果、最新の研究が十分に反映されず、古い通説や誤った情報がそのまま残されてしまうことがあるのです。
そして第二に、より根本的で深刻な問題として指摘されているのが、商業的な理由によるバイアスです。
著者は、心理学の入門書において、「議論があることを示した内容よりも、“はっきりした答え”を示す方がインパクトがあり、売れやすい」という市場原理が働いている可能性を挙げています。
たとえば、「脳の10%しか使っていないって本当?」と問いかけて、「そんなことはありません、実際はこうです」と展開するよりも、「人は脳の10%しか使っていない」と断言した方が、読者の注意を引きやすく、印象にも残りやすいというわけです。
このように、「わかりやすく、インパクトのある説明」を優先するあまり、教科書として本来求められるべき中立性や正確性が損なわれてしまうのです。
心理学の本に書かれたことを、ただ信じるだけで満足していませんか?
「それって本当?」と問い直す力こそが、科学を学ぶ第一歩です。
わかりやすさやインパクトの裏に、見落とされた事実があるかもしれないことを忘れてはいけません。
参考文献
Psychology textbooks should be busting myths. Instead, they’re misinforming students
https://www.vox.com/science-and-health/2017/1/5/14171140/psychology-textbooks-misinforming-students
Introductory psychology textbooks accused of spreading myths and liberal-leaning bias
https://www.bps.org.uk/research-digest/introductory-psychology-textbooks-accused-spreading-myths-and-liberal-leaning-bias
元論文
Education or Indoctrination? The Accuracy of Introductory Psychology Textbooks in Covering Controversial Topics and Urban Legends About Psychology
https://link.springer.com/article/10.1007/s12144-016-9539-7
The Kitty Genovese murder and the social psychology of helping: the parable of the 38 witnesses
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17874896/
ライター
AK: 大阪府生まれ。大学院では実験心理学を専攻し、錯視の研究をしていました。海外の心理学・脳科学の論文を読むのが好きで、本サイトでは心理学の記事を投稿していきます。
編集者
ナゾロジー 編集部
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