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宗教とブランド〜「信じる」構造をめぐってKo Yamura [Ko & Co.]

🧠 概要:

概要

この記事は、宗教とブランドの類似性に焦点を当て、特にキリスト教がどのように成功したブランドとして存在し続けているのかを分析している。著者のKo Yamuraは、キリスト教の構造をブランド論やマーケティングの視点から解釈し、現代のブランドが信仰の形を模索している様子を描写している。

要約(箇条書き)

  • 偶然の出会い: フランシスコ教皇の死後、筆者は展示室でカラヴァッジョの絵を見て、キリスト教が世界で最も成功したブランドかもしれないという仮説を思い至る。
  • 信者数: キリスト教は約24億人の信者を持ち、2000年以上の歴史がある。
  • 歴史的展開: 信仰は少数のユダヤ人から始まり、ローマ帝国で国教化、植民地化を経て広がった。
  • ブランド分析: キリスト教のMission(使命)、Vision(目標)、Value(価値観)が明確であり、それが信者を引きつけている。
  • Universal Design: キリスト教は文化や言語を越えて共通の教義を提供するように設計されている。
  • メディア戦略: 聖書が世界中で広まり、文化にも影響を与えた。
  • 信仰の模倣: 現代のブランドは、キリスト教の「信じる力の仕組み」を知らずに模倣している可能性がある。
  • ブランドと宗教の関係: 全てのブランドが一神教的な構造を取り入れ、倫理的責任を求められている。
  • 信じる理由の探求: ブランドが神になれるかという問いが浮かび、もっと深い価値を提供することが求められている。
  • 次回予告: 次回は、キリスト教の拡大とグローバルブランドの関係について考察する予定。

宗教とブランド〜「信じる」構造をめぐってKo Yamura [Ko & Co.]

Ko Yamura [Ko & Co.]

2025年6月7日 15:41

偶然のことだけど、フランシスコ教皇が亡くなった4日後の4月25日、僕は大阪万博に足を運んでいた。 イタリア・ベネチア館の真っ暗な展示室には、カラヴァッジョの《キリストの降架》が展示されていた。 白い花で周りを埋め尽くされた絵画を目の当たりにした時、 異教徒の僕でさえ、思わず息をのむような、静謐で抗えない神々しさがそこにはあった。その場に立ち尽くしながら、ずっと頭のどこかでかすかに鳴り続けていた仮説が、ふいに輪郭を取り戻していた。

世界で最も成功したブランドは、キリスト教なのではないか?
基本的に営利行為を目的にしたブランドと、宗教を混同することには違和感や不快感を覚える方もいるかもしれない。

しかし、「人が何かを信じ、共感し、拡げていく仕組み」という構造だけを取り出して見てみると、そこには共通点が見えてくる。

キリスト教のマーケットシェア

キリスト教には、現在およそ24億人の信者がいる(Pew Research Center, 2022年)。これは地球人口のおよそ3人に1人という割合で、他のどの宗教・思想体系と比べても群を抜いている。しかも、それが2000年以上にわたって拡がり続けてきたという事実も見逃せない。キリスト教は、紀元1世紀にごく少数のユダヤ人の中で始まった信仰だ。

そこから、帝政ローマでの国教化、ヨーロッパ全体への拡大、植民地化による世界への布教という過程を経て、現在に至っている。以下のグラフは、有史以降のキリスト教徒の人口推移と、世界人口におけるその割合をまとめたものである。

このグラフからわかるのは、世界人口が増加する中で、キリスト教徒の数も着実に増え続けてきたという事実だ。もちろんその歩みは常に順風満帆だったわけではない。数十年、数百年というスパンで見れば、深刻な迫害やイスラム勢力との対立、カトリックとプロテスタントの分裂など、たびたび危機にも直面してきた。それでもなお、キリスト教は2000年という長い時間をかけて、人口増加の波に呼応するように広がり、世界的な存在感を拡大し続けてきたのである。さらに注目すべきは、「全人類に占める割合」つまり市場シェアの観点でも、近代以降は常に30%前後の安定した“占有率”を維持し続けている。

マーケターの視点で見れば、キリスト教は2000年にわたり理想的な右肩成長と安定的なマーケットシェアを両立させた稀有なケーススタディと言える。

ブランド論で読み解くキリスト教の構造

キリスト教は規模・持続性ともに圧倒的な広がりを見せてきた。次はブランド論の視点から、キリスト教を“ひとつの体系”として分析してみたい。
以下の図は、ブランド論でよく用いられるMVV(Mission・Vision・Value)とマーケティング4Pの枠組みを使って、キリスト教の構造を整理したものである。

キリスト教をMVVモデル+マーケティング4Pに適用
*一般的な4Pモデルでは「Price(価格)」が入るが、 本稿では「PriceはProductに包含されるもの(対価なしに提供される商品は存在しない)」という理解に基づき、代わりにPeople(伝える人・信じる人)を明示的に取り上げている。

キリスト教はまず、ブランドの最上位概念であるMission(使命)にあたる「救済」という目的を明確に掲げている。この世に苦しむ人間を神のもとへと導くこと。罪から解放すること。この「救う」というシンプルで力強い目的が、すべての起点となっている。次に、Vision(目指す姿)として掲げられているのが、「神の国の実現」だ。それは現実世界の中での正義や平和の実現であり、死後に訪れる理想郷でもある。いわば「この世」と「来世」の両方を視野に入れた壮大な未来像が設定されている。そして、それを支えるValue(価値観)として、「愛」「希望」「信仰」といった普遍的な理念がある。実際、「カトリック(Catholic)」という言葉の語源は、ギリシャ語の katholikos「普遍的な」あるいは「全体に関わるもの」を意味する。

この語が象徴するように、キリスト教(特にカトリック)は、あらゆる民族、言語、文化を超えて“ひとつの教義”を共有できるように設計された信仰システムだった。

その設計思想自体に、「すべての人に届ける」「どこでも機能する」ことが明確に組み込まれていたと言える。

このように見ると、キリスト教は「信じるに足る価値を提供する」という点において、MVVとマーケティング4Pの両面が高度に統合されたシステムになっていることがわかる。

さらに驚くべきは、この体系が「聖書」という一冊の書物に凝縮され、世界中で共有され、日々実践されているという事実だ。まさに、史上初にして最も緻密に設計された“ブランドガイドライン”と言っていいだろう。そしてグーテンベルクの印刷革命以降、世界でもっとも多く刷られ、読まれてきた書物がこの「聖書」だったというのも象徴的だ。これはメディア戦略としても極めて秀逸であり、最先端のテクノロジーを活用した「コンテンツ設計」や「チャネル戦略」を、先取りしていたとも言える。それだけでは終わらない。キリスト教は「人々に信じてもらう仕組み」を構築しただけでなく、それを起点に芸術、音楽、建築、文学など、あらゆる文化の土壌にも深く根を張っていった。ミケランジェロの《最後の審判》も、バッハの教会カンタータも、ステンドグラスの輝きも──それらはすべて、キリスト教という世界観から生まれた表現であり、「信仰」を視覚化・聴覚化したアウトプットだった。

さらに目を凝らしてみると、民主主義や資本主義といった現代社会の根幹にある仕組みでさえ、その成立や発展の過程ではキリスト教的な倫理観に支えられていた面がある。たとえば「すべての人は平等である」という思想や、「働くことは価値である」という職業観など、キリスト教とは少し縁遠く感じられる日本のような社会であっても、実はその価値観の影響を知らず知らずに受けていることになる。

こうして改めて見てみると、キリスト教は象徴、理念、物語、制度、メディアのすべてが複雑に絡み合い、2000年にわたって精緻に運営されてきた“ブランド”であったことがわかる。しかも、それは単なる偶然の積み重ねではない。誰にでも届く言葉で語られ、どこでも機能する構造として設計されていたからこそ、信じるという行為を世界規模で“仕組み化”できたのだ。

林檎は十字架の夢を見る

ここまでくると、主客の反転が起こる。
キリスト教がブランドに“似ている”のではない。むしろ、全てのブランドが宗教になりたがっている。そしてその宗教とは、アミニズムでも汎神論でもなく、唯一のを掲げる“一神教的な構造”である。資本主義の精神的下支えとしてプロテスタンティズムの影響を説いたマックス・ウェーバーに倣えば、コトラーやアーカーによって近代に体系化されたブランド論やマーケティングのフレームワークにも、一神教的な構造「唯一の正義を提示し、人々を導く」設計思想が内面化されているように思えてならない。ロゴという「象徴」、広告コピーという「教義」、製品発表会やアンボクシングという「儀式」、ユーザー=“信者”が体験する共同体としてのブランド、それらは、2000年前にキリスト教が制度化した「信じる力の仕組み」を、ブランドが知らず知らずのうちに模倣してきた結果かもしれない。

それがあまりに自然に語られるため、私たちは気づかない。しかし、少し立ち止まって見渡してみると、現代のブランドの奥には、キリスト教的な構造が静かに息づいている。

その構造を、もっとも分かりやすいかたちで体現していたのが、かつてのAppleだった。とりわけ象徴的なのは、1997年のWWDC(Worldwide Developers Conference)。スティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、壇上で語った内容は、製品の機能ではなかった。Appleという存在が“何を信じ”、どこへ向かおうとしているのか、そのビジョンだった。

それはまるで、宣教師が福音を語るような時間だった。製品を売るのではなく、生きる理由や信じる価値を語る──Appleは、テクノロジー企業でありながら、「信じる理由」を提供する存在となっていた。

逆の言い方をすると、ブランドは現代における“信仰の器(受け皿)”になりつつあるのかもしれない。だからこそ、現代のブランドは次々と宗教的な構造を取り込んでいく。企業はパーパスを掲げ、人々に「このブランドを信じていい理由」を示そうとし、同時にその信頼に応えるために、倫理的責任や社会的意義にも応じようとする。

けれど、ここでひとつの問いが浮かんでくる。
ブランドは、本当に“神”になれるのだろうか?

“正しさ”を掲げ続けるだけでは、人の心は動かない。むしろ、善悪の枠組みを越えて、「なぜ生きるのか」「何を信じたいのか」という問いに寄り添うことが、次の時代のブランドに求められているのではないか?

【次回予告】

もしブランドがキリスト教の構造を模倣しているのだとすれば、キリスト教はどうやって世界に広がったのか?次回は、帝国主義とキリスト教の“共犯関係”に焦点を当てながら、その構造がどのようにグローバルブランドへと受け継がれていったのかを読み解きます。

「植民地主義を継承するグローバルブランド」
どうぞお楽しみに。

※本稿は、宗教やキリスト教の専門家としての立場から書かれたものではなく、あくまでマーケティングとブランドの視点からの試みです。そのため、歴史的・神学的に厳密でない表現や、理解の及ばない部分が含まれているかもしれません。あらかじめご理解いただければ幸いです。

Ko Yamura [Ko & Co.]

応用物理→外資系広告代理店→JINSマーケ責任者→豪州マーケコンサル→地方創生アートホテル「白井屋ホテル」運営→マーケティングコンサル&研究者。現在は企業支援の傍ら、「信仰・倫理・文化資本とブランド構造の関係性」を研究中。葉巻/旧車/旅/田舎暮らし 🐕



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