🧠 あらすじと概要:
あらすじ
映画『無名の人生』は、鈴木竜也監督が独学で制作した長編アニメーションで、波乱に満ちた「誰にも本当の名前を呼ばれなかった男」の100年間の生涯を描いています。物語は社会問題を背景に、主人公が様々な名前で人生を歩む様子を10章で展開し、彼の周囲の変化や環境も反映される内容となっています。
記事の要約
映画『無名の人生』を観た感想として、奥森皐月はその内容に深く感動し、特に名前の持つ意味について考えさせられたと述べています。彼女自身の名前に対する愛着や、名前が持つ社会的な意味についての考察を通じて、自身の経験と重ね合わせながら、名前に意味を持たせることの重要性を語ります。最終的に、彼女は名前の変化があっても、それ自身が自分の一部であり続けると感じており、『無名の人生』のテーマと自身のアイデンティティについての考察が交じっています。再度映画を観ることを考えていることや、日常生活の中での名前の意味を探求する姿勢が強調されています。
映画『無名の人生』を観た。すごくよかった。
実験的なアニメ映画は割と好きなほうだが、まさかこんなに刺さる映画だとは思わなかった。びっくりしてしまった。
独学でアニメーションを学んだ鈴木竜也監督がたった1人で1年半を費やして制作した長編作。
今まさに我々を取り巻く数々の社会問題を背景に、
“誰にも本当の名前を呼ばれることの無かった男”の、波乱に満ちた100年の生涯を描く、完全オリジナルストーリー
『無名の人生』公式HPより
内容はこの文章に集約されているのだが、心を直接掴まれて揺らされているかのような衝撃と感動があった。
映画の内容を詳しく知りたい人はちょうど今週のアフター6ジャンクション2の『週刊映画時評ムービーウォッチメン』で宇多丸さんが解説していたのでそれを聴くのがいいと思う。「〇〇の映画から引用した演出が〜」みたいな話をしていて「自分にはそんなことわかりません」と思ったので、おそらく相当細かく解説されている。
鈴木監督はちょうど自分の10歳年上らしく、描かれている世界が私が幼い頃から見てきた世界とかなり近いと感じた。うっすらと漂う閉塞感や「ダメかもしれない」という空気が悲しいかな現代っぽい。実際に世の中で起こっている出来事や問題も無数に詰め込まれていて、フィクションではあるものの“ある世界”を描いていると感じた。
ただ主人公にはまったく共感できなかった。というよりも主人公の人生と私の人生がちょうど対極にあるのだ。彼の気持ちは私には理解できないし、私の気持ちも彼には理解できないだろうなと思う。
物語は主人公の100年の生涯が10章にわかれて進んでいく。100年の中で環境も彼自身も目まぐるしく変化し、その度に周囲から呼ばれる「名前」も変わっていく。あだ名、愛称、源氏名、芸名、二人称など、章ごとに彼は名前を変え(本人の意思とは無関係だが)生きている。
ここからは私の話になってしまうが私が書いている文章なので許してほしい。私は2004年5月に東京で生まれ奥森家の長女 皐月 になった。「名前とは記号であり、親の願いを込めるものではない」という両親の少々尖った考えのもと、生まれ月の和風月名「皐月」が響きと字画のよさから選ばれたそうだ。奥森皐月という名前をすごく気に入っている。昔から「小説家みたい」「華道家にいそう」「字面が綺麗」なんて言ってもらえることが多く、その度誇らしく思っていた。文字の並びも音もいいと思う。カッコいいし美しい。両親に感謝している。テストで名前を書くたび、いいなぁと思っていた。小学生の頃「おく森さ月」と書かされていたのは不満だったけど。ありえなさすぎる。そんな奥森皐月は0歳で赤ちゃんモデルデビューをし、3歳で芸能事務所に所属し子役としての活動をはじめた。子役というものはほとんどの場合が本名で、芸名で活動するというのはなかなかない。NHKの子供番組では「さつき」という表記になっていたが、基本「奥森皐月」として子役をしていた。
途中、子役事務所から今の事務所に移籍するタイミングがあった。当時のマネージャーさんは「ここまで本名で活動していたし、いい名前だし、このままでいいだろう」と判断したことで奥森皐月の芸能人生は続行。
当然ながら奥森皐月の人生も異常なく進んでいる。保育園に入り、卒園し、小学校に入学し、卒業し、中学校に入り…と。奥森皐月がそれぞれの場面を生きていた。
10代半ばくらいだっただろうか。徐々に違和感を覚えはじめた。奥森皐月が“ここ”以外にいることに気づいたのだ。本来名前とは個人を識別する記号のようなもののはずなのに、「奥森皐月」が名詞というか、意味を持ちはじめていると感じたのだ。
この意味というものは、自分が今までしてきたことすべてだ。あのときあんなことをして、あんなことを言って、あんな振る舞いをして。一挙手一投足が意味になってしまうと感じた。人目につく仕事をしている以上、断片的に自分を知られる(知ってもらえる)機会があって、その切り取りがその受け手の「奥森皐月」になる。それぞれの認識のなかに異なる奥森皐月がいる。奥森皐月はここにいますが?でもそこにいるのも奥森皐月であって。テレビに出たのも、リビングで寝てしまったのも、学校で給食を食べたのも、部活動をサボったのも、全部私で全部奥森皐月。
一時期これで頭がおかしくなりそうになった。全部の奥森皐月を回収できないと気づいた。そのときに考えていたことがふたつ。一つは「急に芸名をつける」こと。もう一つは「本名が変わる」こと。どちらかが為されればスッキリするだろうなと思った。でも「奥森皐月」を気に入っているのでどちらもすぐには行動しなかった。
ちなみにこの悩みというか頭のノイズのようなものは「もっと大変な人がいくらでもいる」という気づきによって一瞬で解決した。羽生結弦 とか、松本人志 とか、橋本環奈 とか、大谷翔平 とか。特に意図なく並べたが、どうだろう。意味がありすぎる。意味しかない。意味の塊。
それに比べ、奥森皐月なんてお菓子の空き箱?という感じ。潰してもいいし宝箱にしてもいいし、仕舞い込んでも見つめてもなんでもいい。広く見れば悩みは瞬く間に消えるという学びを得た。
「人生とは〇〇だ」という文を見るたびに「大きく出たなあ」「そんなことはないだろう」と思ってしまう弱冠21歳の洟垂小僧こと私。その私が現時点で思う人生とは「名前に意味をつけること」だと思っている。「名前をつけてやる」ならぬ「名前に意味をつけてやる」。こういうのは随時更新なのでどうせ数年後には「何を言っていたのだろう」となる。
芸能の仕事をしていようが、そうでなかろうが、関係なく名前には意味がついていくように思う。名前をいい名前にするのは親ではなく自分なのだろう。だから私は奥森皐月をよりいい名前にできるように頑張りたいなと思うのだ。
ここまで書くと、余計『無名の人生』が切ない。本当の名前を誰にも呼ばれず生きていくってどんな気持ちだろうか。やっぱりわからない。でもその人生を映画を通して観ることができたのが自分にとってはおもしろい体験だった。パンフレットを読んでまた観たくなっているので、もう一度くらい劇場に行こうと思う。
ひょんなことから「本名が変わる」というアイディアは実行され、私も今は名前がふたつある生活になった。奥森皐月が少しだけ他人事になってきて、なかなか楽しい。私は奥森皐月でいつづけられる人生だったので本名が変わることに違和感はなく、むしろ変わってみたいという気持ちだった。でもそうじゃなかったら名前が変わるのは嫌だったかも。自分に言う権利があるかは甚だ疑問に感じるが、それが障壁となって結婚を踏みとどまっている人がいるなら解消されてほしい。選択肢が増えることは別に問題ではないのではないかと思う。
(報告)2つ前の記事に書いた新宿の人がいなさすぎる神喫茶店が6月28日に閉店するらしいです。力、及ばず。オアシス、消滅。新宿はもうダメかもしれない。私は滑り込みでもう何回か行く予定です。悲しいねえ。有料部分は特別隠したいことを書いているわけではないけれど、自分の好きなことを好きなように書いています。ちょっと興味があったら覗いてください。「スキ」や「シェア」は書いてよかったなぁとダイレクトに感じられるのでよかったらお願いします。5/30-6/5の思い出について。
5月の運動報告 / 休みたいのか動きたいのか / 見せるエゴ、見させないエゴ / 今週よかったラジオ / 今週よかった音楽 / 今週よかった文章 / 今週よかった喫茶店 / 今週撮った写真 など ↓


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