月曜日, 6月 2, 2025
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前3部作ファンは落胆? 『フィアー・ストリート:プロムクイーン』が跳ね除けた呪いの本質


 Netflix配信のホラー3部作『フィアー・ストリート』は、呪われた町「シェィディサイド」を舞台にした映画シリーズだ。複数の時代で惨劇が巻き起こる、『Part 1:1994』、『Part 2:1978』、『Part 3:1666』が配信され、好評を博した。

 今回リリースされた新作『フィアー・ストリート:プロムクイーン』は、監督を『最悪の選択』(2018年)のマット・パーマーに変更し、1988年のシェイディサイドの高校でおこなわれる「プロムパーティー」を舞台とした一作だ。

 しかし、現時点での評価は芳しくなく、アメリカの大手批評サイトでは、批評家、一般の観客ともにスコアが低迷している状態。評価の高かった3部作に続く作品だっただけに、期待はずれだと感じた観客が少なくなかったようだ。

 とはいえ、本作『フィアー・ストリート:プロムクイーン』にも見どころはある。ここでは、本作と3部作を比較しながら、新たな『フィアー・ストリート』が表現しようとした内容を明らかにし、同時にそこから理解することのできるアメリカ文化についても解説していきたい。

 もともと『フィアー・ストリート』は、「ヤングアダルト(YA)小説界のスティーヴン・キング」と称される、R・L・スタインの大ヒットシリーズだ。主に1990年代に盛んに読まれ、2000年代以降も断続的にシリーズ作品が発表され続けてきた。

 主な読者層は、あまり書籍を読むことに慣れていない学生たちだ。中高生くらいの年代が興味のありそうな、学校や若者の人間関係や、とくに「ジョック」などと呼ばれる体育会系の世界を主軸の要素として、むごたらしい殺人事件や呪いの力が生み出す悲劇などの刺激的なスラッシャーを、平易な表現で扇情的に描いている。親としてはあまり愉快ではないかもしれないが、活字嫌いの我が子が本を読んでくれるならばと、本シリーズを読むのを黙認しているケースも少なくないようだ。

 3部作の第1作『フィアー・ストリート Part 1: 1994』(2021年)の冒頭では、ホラー小説が登場して「ただのゴミ。低俗なホラー本」というセリフが飛び出すが、読書家からすると『フィアー・ストリート』はまさに、そのようなイメージだということが示されている。とはいえ、小説を読まない層にページをめくらせる力を持っているという意味で、小説『フィアー・ストリート』は、大きな文化貢献をしていることも確かなのだ。

 Netflixの3部作では、そこに現代的な要素である、ジェンダーマイノリティやシスターフッドの要素を投入することで、『フィアー・ストリート』の世界に現在の目線で鮮やかな色を加えることに成功している。本作の評価が低くなってしまった大きな要因は、この3部作で花開いた要素が希薄だったことにあったのかもしれない。

 ただ、本来の『フィアー・ストリート』は、そういった要素が前面に出るようなシリーズというよりは、別の要素が主題となる場合が多いのだ。その具体的なテーマはこれから論じていくが、本作はそういった意味で、むしろ原作のテイストに回帰した一作だといえる。


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 主人公は、数々の惨劇が起こったことで「呪われた町」と呼ばれるシェイディサイドの高校生ロリ・グレンジャー。彼女は作家になりたいという夢を持っているが、同級生からは、「うちの学校から作家は出てない」と言われ、教師からも「大きな夢を持つこともいいが、現実も見なきゃな」と言われてしまう。これはある意味で、社会の周縁に位置する場所にありがちな、可能性を押しつぶす“呪い”だといえる。 ロリはそこで「自分は違う」と信じようとする。

 シェイディサイドの隣町「サニーヴェイル」は、3部作でも描かれたように、裕福で大きな問題の起こらない平気な町として描かれている。ロリの母親は、2つの町における“搾取構造”の犠牲になり、そこでのトラブルが事件にまで発展している。そんな出来事のせいで、ロリはクラスメートたちにネガティブな噂を流されてもいる状況だ。

 そういった境遇から抜け出すため、ロリはプロムパーティーでクイーンの座につくことに憧れを抱くようになる。プロムとは、アメリカ中の高校で卒業を控えた生徒たちが参加するダンスパーティーのことで、最も輝いたカップルが、その年の「キング&クイーン」として讃えられることで知られている。

 劇中では、ユーリズミックス、ビリー・アイドル、ティファニーなど、当時人気のあったナンバーが次々に流れる。ロリがプリンスが好きだという話も出てくるが、プリンスの楽曲使用はハードルが高く、交渉の途中で断念したようだ。

 さて、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』(1976年)に代表されるように、きらびやかなイベントながら、プロムは意外にもホラージャンルとの相性がいい。なぜなら、このダンスパーティーには、いろいろな負の感情も絡み合っているからだ。「キング&クイーン」に選ばれた学生にとっては栄誉だが、なれなかった学生は嫉妬の念を抱く場合もあるし、そもそも人気のない学生はカップルとして出席することができない。

 一応自由参加ではあるものの、来ないことで評判がさらに落ちてしまいかねず、家庭からの「せっかくだから参加しなさい」という圧力もあったりして、結局は強制的に参加するはめになることも多い。しかし参加したらしたで、「誘っても断られた」、「誰にも誘われなかった」学生たちは、内心で屈辱感をおぼえながらダンスフロアで時が過ぎ去るのを待つしかない。それは下手なホラーよりおそろしい場合もあるだろう。

 だからこそ『キャリー』のような作品では、そんなプロムパーティーの光景を地獄に一変させる。“イケてる”学生たちは阿鼻叫喚となるが、じつはそれこそが、プロムに参加せざるを得なかった一部の学生たちの心象風景といえるのである。

 本作でも当然、数多くのむごたらしい犠牲が生まれ、会場はパニックに包まれる。その犯人が誰なのかは、ここでは明かさないが、プロムやクイーンへの歪んだ価値観が、この犯行を引き起こしたことには言及しておきたい。それは、若いうちから夢を諦めることをうながされるシェィディサイドの閉塞した世界において、一瞬の輝きがいかに大きな意味を持つかということが、そこに悲しくも示されているからだ。

 ロリは、降りかかる理不尽な暴力と「お前は何者でもない」という声に対抗し、「わたしはロリ・グレンジャー」と宣言する。ロリを襲う殺人鬼の脅威は、ある意味でロリ自身の欲望を象徴する存在だったと言うこともできる。虚栄心や承認欲求を、彼女もまた満たそうとしていたのである。

 しかしロリにとって、“プロムクイーンになること”と、“作家になること”は別ものだ。前者は、“まなざされる存在”であり、後者は“まなざす存在”、つまり、他人から見られ評価される立場から、本来彼女が求めていた、自分自身が社会を見て判断する立場へと回帰し、自分を取り戻すのだ。

 もちろん、社会生活を営むうえで、他人からの評価は重要だ。しかし、どんなに努力したことろで、他人の判断を思い通りにコントロールすることはできない。だからこそロリは、受動的な立場を飛び出し、能動的に世界を見る側を選び取るのである。そして、それに気づいたときこそが、彼女にかけられた“呪い”が解かれた瞬間だったのではないだろうか。本作『フィアー・ストリート:プロムクイーン』は、プレーンドーナツのようにシンプルな構成で3部作のファンを落胆させながらも、原作の設定した“呪い”の本質を、鮮やかに跳ね除けてみせているのだ。

■配信情報
『フィアー・ストリート:プロムクイーン』
Netflixにて配信中

Alan Markfield/Netflix © 2025.



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