土曜日, 6月 7, 2025
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分析的アンチワーク哲学「緊急特番」ティール組織のその先を考えてみた(究極型パラダイム)

🧠 概要:

この記事は、分析的アンチワーク哲学を基に、労働の必要性とその限界について考察しています。特に「労働X」という概念を導入し、労働の効率性や社会的必要性についての議論を展開しています。また、現代の労働主義に対する批判や、労働を減らすための道筋についても言及しています。

概要

  • 労働の必要性を狭める視点から、アンチワーク哲学の重要性を強調。
  • 「労働X」とは、社会的に必要であり他の形で代替できない労働のこと。
  • 現代の労働主義に対する批判と、労働を減らすための提案。

要約ポイント

  • 労働Xの定義: 強制されずには社会的に成立しない、特異な労働の条件を示す。
  • アンチワーク哲学の主張: 労働は「やめたさ」を減らし、喜んでやりたくなる方向に進むべき。
  • 現代の労働主義への批判: 労働は不要であっても、社会的理由で続けられている。
  • 必要な労働と無意味な労働の分別: 労働は必ずしも効率的ではなく、非効率な面も多く存在する。
  • 労働を減らす方法: 幾つかの手段を通じて、労働を減らす方策を議論。
  • 社会契約の見直し: 基本的な所得保障(BI)の必要性を訴える。

この記事は、労働のあり方に対する新たな視点を提供し、より持続可能な社会のための議論を喚起します。

分析的アンチワーク哲学「緊急特番」ティール組織のその先を考えてみた(究極型パラダイム)

この記事が出たので、ここから更に考えます。

まずは、この記事を全体的に引用するのでコメントを付けつつ要約します。

アンチワーク哲学批判「こういう場面では労働は必要だ」は、労働が必要な場面を狭めるため、実質的にアンチワーク哲学として機能する。1%必要だと指摘するのと、99%要らないと主張するのは実質的には同じだ。この1%が労働Xである。これは以下の条件においてのみ成立する。

労働Xとは、「強制されてでも実行しないと社会的に必要な財・サービスが成立しない、かつ別の形(遊び・自発的使命・ゆるい習慣・自動化など)では代替できない労働」のこと。具体的には、下記すべての条件を満たす必要があるとする。

1. A.ブルシット・ジョブではない無意味な労働ではなく、誰かのニーズ(衣食住や娯楽など)を満たす正当な労働であること。

2. B.「遊び」として自発的に行われず、またニーズを十分に満たすほど行われないこと

例:農業や介護、清掃などは本来遊び化も可能だが、もし人々が自発的遊びとして十分に行わないなら、労働として成り立つ可能性がある。

3. C.自発的な使命感(ボランティア的貢献)でも十分に遂行されないこと

他者を助けたいという自発的衝動だけでは満たされない労働であること。

4. D.「ゆるやかな義務感」で繰り返される習慣的行為でも十分に行われないこと

歯磨きやゴミ捨てのような習慣レベルでは維持できず、強制的労働として存在せざるを得ないこと。

5. E.短期間なら自発的にできても、長期間の反復で耐え難くなるが、誰かが継続しないと成り立たない/あるいは一度でも絶対にやりたくないほど過酷な労働であること

長く続けると苦痛だが、それをやらなければニーズが満たされない、または一度であまりにも激務すぎて誰も自発的にやりたがらない作業。

6. F.自発的動機や効率化(自動化)では不愉快さを解消・軽減できないこと

技術的にも容易に自動化・効率化できず、放っておくと人々が努力して楽にしようとしないほど過酷であること。

7. G.労働によって生じた害(精神病・犯罪など)を除去するための労働ではないこと

現状の労働がもたらす負の影響を修復するための「二次的労働」は、そもそも不要になれば消えるべきであり、労働Xとして考えない。

8. H.強制が正当化されるほどに、社会的に必須の労働であること

たとえA~Gの条件を満たしても、強制されることで初めて社会全体が“待ったなし”で得られるべきサービス・財であり、本人の意志を無視してでも遂行を免れられない労働であること。

→グループ嵐の活動は経済規模や生み出す価値こそ大きいが、それですら強制は正当化されていない。

究極的な労働Xではなく暫定的な労働Xのほうであることに注意

これに対して、私は分析的アンチワーク哲学⑤において、A以前に、まず「究極的・理想的には」労働Xとは「(やめたいほどの)不愉快さ」が生産において効果をなす場合のみだと指摘した。

問題になるのは、「やめたいという感情まさにそのものはマイナスなのだが、その人にやってもらわないと仕方ない故に必要だと勘違いしている労働」と「前回記事にて考えた『まさにやめたいという感情そのものによって生じる効果』」をAIも人も混同していないか??ということだった。

→前者は「まさにやめたいという感情そのものにやっての効果がないから」不要な労働である。後者は「まさにやめたいという感情そのものによって効果があるから」必要な労働Xである。ここを間違えなければ、いかに必要な労働が限られているのかは明白になる。

 分析的アンチワーク哲学⑤

つまり、やめたいと思っていることまさにそのものが生産においてプラスになっているという極端な場面おいてのみ、最終的に必要な労働Xはある。

つまり、引用記事で主張される労働Xとは、やめたいという感情まさにそのものはマイナスなのだが、嫌でもやってもらわないと仕方ない(それが肯定される)」ほうを指す。

つまり、暫定的な労働Xなのだ。つまり、やりたくさせたいし、喜んでやってもらうに越したことはないのだが、そういう人だけではどうにも供給が足りない……凄く効率は悪いのだが仕方ない……条件を指している。

つまり、究極的な労働X(労働a)は不愉快に思っててもらわないと困るが、暫定的な労働X(労働b)はできればやりたくなって欲しいものである。これを留意した上で、議論をする。

このとき、現代常識「労働主義」がどうできているかを説明する。

まず、A〜Eまでを認めないのは倫理的におかしいし、特に現代常識でも肯定はされていないことを留意したい。

まず、私達はルサンチマンを理由とする時を除けば、「無意味に他者に苦しめ」とは考えていない。

たしかに、「自分も苦しんでいるんだからお前も苦しめ」これが現代のルサンチマンである。

これも労働主張の一種ではあるが……これは倫理的には無意味な苦痛を増やし、到底受け入れられない。これに反するものでなければ、倫理とは到底呼べないだろう。

そもそも、このルサンチマンが生じる理由は、労働Xではない、労働をしているせいである。とはいえ、流石にこれくらいは一般常識として理解されている。

私達はパワハラやセクハラが無意味であり、ゴルフボールで本来治すはずの車を嫌々傷つけることの生産性がマイナスであり、ブラック企業は自滅しているが故にブラックなのだと理解している。

ということは、 

5. E.短期間なら自発的にできても、長期間の反復で耐え難くなるが、誰かが継続しないと成り立たない/あるいは一度でも絶対にやりたくないほど過酷な労働であること

までは、実は労働を生み出す現代の全体主義「労働主義」もまた認めるのである。

しかし、一方で以下からが労働主義とアンチワーク哲学の分水嶺となっている。

6. F.自発的動機や効率化(自動化)では不愉快さを解消・軽減できないこと
技術的にも容易に自動化・効率化できず、放っておくと人々が努力して楽にしようとしないほど過酷であること。

問題はここだ。

世間の常識では、本来、(〇〇であれば)とっくのとうに技術的にも容易に自動化・効率化されているはずなのだが、(〇〇でないせいで)、どうしようもなく労働している……という常識がある。

なんとか自動化したり、効率化をしようと努力し始める人が現れるのが普通である。そのような努力によって自動化、効率化され、労働ではない程度まで不愉快さが軽減されることが見込まれるのであれば、それらは大半の労働を廃絶した後には自動化、効率化されていくことは明らかである。
→これができないのが現実だと考え、その敵対者たるものへの恨みを募らせるのが、現代の常識である。

現代の労働主義は、(〇〇であれば)に各人のルサンチマンとなる内容を代入している。

これを理由として彼らに恨みを募らせつつも、それが故に「自滅してるけど労働があるのはどうしようもない」という理由付けをして働いているのだ。これが現代の常識である。

本来もうとっくにほとんどの労働を無くせることは理解しているのだが、かの憎き〇〇のせいで……と考えてしまっている。これを間接的な強制者そのものだと捉えるのだ。

そして、それは例えばヤフコメであれば「自民党が無能ないせいで」という言葉が入ることになる。

ゆえに暫定的な労働をなくすには(ヤフコメの例で言えば、自民党を弱らせる必要がある)(他の例えだと上司のせいで)などと考えて、それ以外の手を一切無に帰してしまうのだ。

これはあらゆる手があるだろうが、その中で最強の一手がBIだと考えるアンチワーク哲学とは異なる。

このそれ以外の手を一切無に帰してしまうという点に注目していただきたい。

ゆえに、労働によって生じた害(精神病・犯罪など)を除去するための労働もしなくちゃいけないし、自分達の強制が正当化されてないのに、社会的に必須だと言われてやらされているとも考えているのだ。

現代の労働主義とは、労働をなくすには手取りの増加でしかなしえないと考える全体主義のことである。

つまり、労働主義は、本来とっくに労働なき世界を達成できているのだが(〇〇のせいで)手取りが増えず、ゆえに働かないといけないと考えている。

そして、その解決手段の一切を、おおよそ「実質賃金の向上」それとそれを実現するための手段にのみ責任転嫁してしまう。

これが大きな物語であり、全体主義「やりたくないことを人に押し付け、全体の利益を損ねること」であることは疑いようもない。

そして、人は果てしなく賃金を個人的・社会的に高めることを要請され、それにも関わらず実質賃金が低下していく状況に絶望するのだ。私達に「失われた」という絶望感を与えてくるあの全体主義こそが労働主義の本質なのだ。

※もっと踏み込んでいけば、中小企業の賃上げ……それも「定額昇給」は無意味であり、「ベアの上昇」か「減税」しか意味がないとの主張になる(彼らはBIやJGPは無意味だと考えているようだ)。

現代の全体主義はこいつだ!!

ではどうすればいいか?

繰り返すが、究極的に必要となる労働Xは、まさにやりたくないことで効果がある極端な場面だけである。

ということは、ほとんどの労働Xは、暫定的だが究極的に必要ではない。

よって、もし労働が必要だと考えたり、誰かのせいで労働が立ちはだかるとしても、やめてしまうか、やりたくなったり、喜んでやるに越したことはないのだ。

労働なき世界を実現するには、①やりたさを増やすか②やめたさを減らすか③実際にやめるラインとやめたいラインのギャップを少なくするか④ものによっては、やめさせる

ことで達成できる。

結局のところ、究極的な労働Xを除き、労働廃絶に向けて動くという方向に変わりはないし、暫定労働Xもやりたくしていこうという向きなのだ。

ということで、今の労働主義が「効率化できてないが故に労働まみれ」だと考えていることを指摘した。これが「特に理由にはならない」のに、やりたくないことを嫌々続ける何ら理由として立ちはだかっているのだ。

アンチワーク哲学は本来カントの時代にはとっくに演繹されて当然の主張であり、特に社会の状況だけには依存しないし、「特に〇〇のせいだから」とするものではない。

※とはいえ、巨額のBI実現には現代となりMMTの成立を待たなければならず、MMTの政策への応用は電子決済などでより強く可能になってきている……これはまた別の話である。

そして、お金とは手に入るものを制約される社会との契約によって成立するものだから、この制約量を最適化させていく他ないのだ。

それは、経済成長・手取りの増加というよりも、適切な量のBIが配られることを意味している。

そもそも社会契約の時点で一定のBI(制約量)を前提としたシステムであるべきだったのだ(※この意味合いにおいては全ての人がお金をもらう必要があり負の所得税ではなくBIでなくてはならない)。

今の社会問題が正味の供給制約ではなく、賃金制約の過剰によって生じているのは疑いようもないのだから。

そして、やりたくないことを誰もやっていないが故に、生産性が分母「労働時間=0」となることで、形式上の無限(それはあくまで形式上だが)となり、経済というゲームをクリアすることができる。

……アンチワーク哲学は脱成長や反経済学なのではなく、むしろゴリゴリに経済学であり、これほどに経済成長を本当の意味で重視している哲学的立場も珍しいはずだ。

ティール組織のその先を考えてみた(究極型パラダイム)

ChatGPTを用いて経済・経営記事を投稿しています。インテグラル理論、ティール組織、Thinkers50を中心に色々なアイデアを説明します。究極型パラダイム、真の豊かさ/真の正しさ、being経営など



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