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概要
この記事では、絵描きである勝星たんぽぽが生成AIに関する自身の考えを語っています。生成AIの利用が著作権や個人の創作性に与える影響について議論しながら、感情的な葛藤や法律的な問題、生成AIの利用に対する自身の立場について深く掘り下げています。
要約の箇条書き
- 著者紹介: 勝星たんぽぽは絵描きが趣味の人物。
- 生成AIについての初期感情: 生成AIが他人の作品を学習して出力する行為に不快感を示す。
- 夫との対話: 夫との対話を通じて理解を深めた。
- 著作権への懸念: 他者の作品が無断で利用される現状に恐怖感を抱いている。
- 生成AIと道具の関係: 生成AIはあくまでも道具であり、利用の仕方には慎重であるべきと考える。
- 作品に対する感情: 絵は作者の人生の一部であり、その軽視に対して感情的な拒否反応を示す。
- 法律の限界: 現行の法律では生成AIの使用が許可されているが、モラルの問題が残る。
- 倫理的側面: 学習された作品が作者の意図に反して利用されることへの倫理的な懸念。
- 生成AIの肯定的側面: 絵を描けない人の学習ツールとしての価値も認めている。
- 社会的な対策の必要性: 作品が不当に利用されないための法整備が必要と主張。
- まとめ: 自身が専門家でないことを認めながら、生成AIと人間との関係性について今後議論を続ける意欲を示している。
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。
お絵描きが趣味の勝星たんぽぽと申します。
先日、生成AIについて憤っていることを書いたXの投稿にいくつかコメントをいただいたので、色々調べた後に夫と著作権やAIの話をしていました。1人で話していてもぐるぐると終わりのない悩みや感情になってしまうところを、夫が対立する主張の形をとり、こちらの意見の本質や現状の問題について確認してくれたおかげで、前よりもはっきりと言語化ができるようになりました。まずはこのような機会をくださったみなさんと、夫に感謝を申し上げます。
事の発端は生成AIで困っている絵描きさんの投稿を見たことでした。明らかにその方の絵を学習・出力したものを加工し、有償依頼としてお金を稼いでいる人がいて困る、というような内容だったかと思います。
その投稿を見て、私は怒りの源泉がどこにあるのか不明瞭なまま、生成AIやその利用方法について思うまま憤りを書き殴ってしまったわけです。
まず感情的に話すと、他者のものを故意に学習させて、それを自分が描いたように出力するということがひどく暴力的だと感じました。私は10年以上絵が好きなつもりだったので、絵を描く人の中には他人を真似(というには酷似し過ぎている絵を描くこと)して人気を取ろうとする絵描きがいることを知っています。また他人の絵を転載し、友人に『自分が描いた』と言ってしまう人、SNSにその絵を転載してフォロワー数を稼ぐ人、保存した他者の作品をアパレルなどに許可なく出力して販売する人を知っています。
絵の界隈(特に今の日本)では、時に他者に厳しすぎる部分があると思います。構図が似てしまうこと、モチーフやデザインが似てしまうことによるトラブルは日々頻繁に起きています。したがって元より他者のデザインに敏感にならざるを得ない人達が、生成AIに抵抗感を覚えるのは当然と言えば当然だったような気がします。
とはいえ、今の法律上は問題がないので、生成AIの学習や出力を止める術はあまりないようです。学習を止めることが出来ない絵描きさんたちは、プロフィール欄への無断学習禁止やウォーターマークを入れるなどの対策をしています。無断学習禁止は、あくまで自重してほしいと伝える程度の拘束力しかありません。ウォーターマークはAIによって出力される絵のバランスを歪めるためにつけている方が多く、剥がされた時に加工がすぐに分かるため、後になって同意のない使用であるという証拠として残すものという印象です。
そこで問題になるのは、本人が嫌がっていることを、法律上問題がないからといってしても良いのか?というモラルです。確かに、学習して出力するだけであれば問題はないと思います。画風や作風に著作権がないことも作用し、本人作と偽って販売することがなければ基本的にはお咎め無しの状況です。恐らくここでいくつかのポイントがあり、そこが混ざってしまうと今回のように正しく主張が伝わらないわけですね。大きく分けると感情的なことなのか、実害を伴うものなのかというあたりでしょうか。
先日の投稿の流れでも発信したのですが、私は人の絵を人生の欠片だと考えています。作者が様々なものを見て、考え、多くの影響を受けながら自分で形にしてきたものが今のその人の絵だと思うからです。この部分は感情論になってしまいますが、長い時間をかけて育んできたその人の美術観や技法を、数分・数時間程度で学習し、すぐに出力できてしまうことへの恐怖・嫌悪感は、絵が好きな方や1度は真剣に絵のことを考えた方ならお分かりいただけるのではないかと思います。美術の歴史、人生の軌跡という長い時間を簡単に食い物にしてしまう行為が、本当におぞましい。技術的なことは抜きにして、とてもグロテスクな光景だと思うのです。これが人の手で行われる、神業のようなものだったとしても、私は受け入れられません。アクション漫画や映画で、コピーが得意なキャラクターに苦戦を強いられるシーンがありますが、その時の複製被害者側の絶望感はこんな感じなのだろうと思います。理解とは別のところで、忌避してしまう感覚です。
ではとても難しい話になりますが、生成AIは悪いものなのか、という話をしようと思います。ここまで嫌だのおぞましいだのと悪い印象の話をしておいて、生成AIを肯定するのか?とお思いの方もいるかもしれませんが、私は最初から全否定する気はありません。なぜなら、人間もどこまでを道具とするかが曖昧だからです。いま絵が描けない人にとってみれば、生成AIは絵を学習するための外部の脳であり、それと同時に出力ができるペンと同じなのでは?という問いに、みなさんはどう答えますか?私は昨晩夫にこれを問いかけられた時、ペンと同じかもしれないと言いました。あくまで出力のためのツールであるとするなら、部屋にあるボールペンと何ら変わらないような気がしてくるのです。ただ、出力と同時に外部の脳であるという点が、私に不快感を与えているのだと気付きました。
人間の芸術の歴史やその人の絵ができるまでに辿った道という長い時間を、数瞬で学び、超えてしまう存在を、ただのボールペンと同様の道具として扱ってよいのか、というところはもっと議論されるべきだと思います。
実際に有名作の偽造品や他者の構図・デザインを学習して加工、販売する人達に困っている人はいます。法が学習を認めているからといって、困っている人がいるのに声を抑えることは私にはできません。しかし個人的には、閉じたライブラリを自分の創作性の向上のために使うのは良いのではないかと考えています。自分の作風だけを学習させ、出力できるのであれば、構図案を複数考える手間が省けるので。でも、いつか数多の偶然の重なりによって、私よりも技術的に上位の存在になってしまうかもしれません。……その時は、私が使うのをやめれば良いのです。ネットワークに繋がれないデータライブラリであれば、生成AIというペンを置くだけになるのではないか、と考えています。私はお絵描きが好きですが、決して上手くはなく、上手くかけない自分のことは大嫌いです。きっと、素晴らしい魔法のようなものから解放され、また孤独と成長過程に苦しみながら絵を描いていくことになると思います。でも、それが私の美術のあり方だと諦めるしかありません。魔法なんてなかったと、もう諦めるといいながら、歯を食いしばって絵を描き、うめき声の中に微かに笑ってしまうのが、弱い人間である私の美術なのです。
先述の通り、私は全ての生成AIを否定する気は最初からありません。ただ、現状あまりにも敬意のない使い方が多く、作家さんが筆を折ってしまうことが多いことが心配です。模倣されることの恐怖感を理解できない人が、そして便利な上に訴えられにくい道具だと気に入った人が、無邪気に作品を読み込んでいます。私は出力したものを個人で楽しむ分には、問題ないと考えますが、学習元の作家さんに送り付けるような人もいると聞き、頭を抱えています。それを販売することに至っては、早く対策が打ち出されてほしいと願うばかりです。大幅な法改正とまではいかずとも、画像生成AIに関しての特記条項を付け足して、苦しい思いをする人を減らしてほしいと思います。
今起こっている生成AIに対する反発は、マナーとルールの違いゆえに、困っている他者を助けられないこと、自身も被害にあっている、あう可能性があることに苦しむ人から多く発せられるように思います。AIに学習されることへの恐怖感が強い人であれば、私のように、知識不足で話してしまう人もいると思います。
今回の投稿後に夫と著作権やAIについて調べ、真剣に話し合って考えたので、当時よりは知識や考え方に深さが出た気がします。不勉強を嘲笑される引用やリプライもあったので、多少嫌な気持ちにはなりましたが、不勉強だったことはまぎれもない事実でしたので、せっかくの機会だと思い学ばせていただきました。
AIは、あまりにも人間とは体や精神(あれば)の構造が違いすぎるので、道具とするにも人格とするにも難しい存在だと思います。生成AIを嫌がりながらも、私自身はSFも好きなので、AIに現在の絵画での学習をさせずに育てたら、どれくらいの時間で人と同じ絵画のレベルに追いつくのか、などには純粋に興味があります。決められたキャンバスの中に、ただ色のついた点を並べていくだけの作業を命令した時、それが偶然線になり、形を成していく過程や、風景や物を描き出すまでには一体どれくらいの時間がかかるのでしょうか。点が偶然にも線になった様子を見たAIが、その線を工夫して円を描いた時、何が起こっているのか。AIに絵に対する主体性(自我)や、自分の絵からより良いと思うものを選び、今後に活かすこと、他者の評価をその後の絵に反映しようとすることができるなら、それは私たちと何が違うのか。AIが他者(画面の前の相手)の評価を気にすることは、子どもの発達を見守ることと異なる点がどれだけあるか。
いっそ美術に携わるAI全てが、わかりやすい機械の体をもった俗に言うロボットであってくれたなら、人の構造によく似た画家ロボットだったなら、もう少し友好的な感覚になったかもしれないと思わずにいられせん。形の見えない便利なものは、今の人間にはまだ早いような気がします。過渡期だからこその葛藤なのかもしれませんが、AIとどのように付き合っていくか、またそれによって起こるトラブルをどのように扱い、減らしていくかは今の私たちの動き次第だと思います。少なくとも、今のままでは困っている人は減らないので、トラブルを減らせる特別なルールを設けてほしいと思います。私は歴史上生まれた道具たち自体には罪はないと考えるタイプです。したがって生成AIが悪いとはあまり言いたくありません。そもそも道具に善悪を当てはめるのは、流動的で難しいのですが。ただ、扱う人間の興味や悪意によって困っている人がいる点においては、相応の報いを受けて欲しいと思いますし、どうしても悪意を避けられないのであれば、ある程度の規制は必要であると思います。
私は法に関する知識を受講してきちんと勉強したわけでもなく、当然専門家でもなく、政治に強いコネクションがあるわけでもないので、このように声をあげること、間違えていたら素直に学ぶこと、今後の選挙などできちんと選ぶ相手を見定めることを丁寧にして、AIも人間も苦しみの少ない落とし所を探していければと思います。
長くなってしまいましたが、最後までご覧いただいてありがとうございました。普段から文章を書く癖が無いもので、読みづらかったらすみません。
重ねてになりますが、このような機会をくださったみなさま、遠路はるばる辺鄙なノートをご覧くださったあなた、怒りに困惑する私を宥めながら丁寧に対話をし、思考実験などで言語化を手伝ってくれた最愛の夫に感謝を。この件で関わることのできたみなさんのこの先に幸せがありますように。
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