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概要
この記事は、著者の楽器遍歴の一部である「ピアノ」に焦点を当てています。著者は小学1年生でピアノを始めるも、様々な障害に直面しながら音楽と向き合ってきた個人的な経験を語っています。交通事故をきっかけにピアノを始めたが、途中で挫折するも再び音楽に目覚め、最終的にはピアニストとしての活動も経験します。
要約の箇条書き
- 初めての楽器は小学1年生から始めたピアノ。
- 交通事故による後遺症でサッカーを断念し、ピアノを習うことに。
- 昭和から平成にかけての時代背景の中でピアノ教室に通うのが苦痛だった。
- 小5でピアノを辞め、その後アップライトピアノは置物になった。
- 中学2年でピアノと別れるが、年齢を重ねて再びピアノに向き合うようになる。
- 氷室京介の曲に感化され、独学で耳コピに挑戦。
- 19歳の時、KAWAIのアップライトを購入し、洋楽を弾くようになる。
- 21歳でピアノ教室の先生と出会い、音楽を通じての交流が始まる。
- フレンチレストランでピアニストとして演奏をするチャンスを得るも、再び生ピアノのない環境に戻る。
- 現在も時々シンセサイザーで音楽活動を継続中。
さて、今回は、タイトルにもあるように
僕の楽器遍歴について。
①ピアノ
記事の最初の方でも上げましたが僕の最初の楽器は
小学1年生から始めたピアノでした。
キッカケは、実は僕、小学1年のゴールデンウィークに交通事故に遭い、7日間の意識不明ののち、夏休みまで入院と、かなりデカめの節目を人生の早い段階で迎えました。それまで「ボールは友達⚽️」の方じゃなく『がんばれ!キッカーズ』に影響されたサッカー小僧だったのですが、その事故が原因で右足に後遺症が残り、
夢を見続ける前に夢が終わりました。
そんな僕を見兼ねた母からピアノを薦められ、教室に通うことになり、おばあちゃんからYAMAHAのアップライトピアノを
買ってもらいました。
しかしながら、僕の小学生だった頃は
まだ昭和の終わりと平成の始まりのような時代。
ファミコンやPCエンジンなどのインドアなものからミニ四駆を側溝で走らせたり、ドッジボールをするなどのアウトドアなものまで同級生がわいのわいの遊んでいる中、ピアノ教室に行くのが苦で苦で仕方ありませんでした。そんなワケで、もちろん身に入ることもなく小5で辞めて、アップライトピアノは、置き物に…。
ごめんね、おばあちゃん。
そんなピアノにもう一度向き合うのが、小6の終わりあたりに聴いた氷室京介のLover’s Day -Solitudeと言うピアノのインスト曲に出会い、
すごく弾きたくなったことがキッカケ。
バンドスコアの存在など知らなかったし、習ってたのはクラシックピアノだったからコードもわからなかったが、先ずは右手で主旋律は簡単に弾けた。左手は本当に苦労しながらベース(ルート)音をひとつずつ合わせて一生懸命に耳コピをして、
本当にこればかり弾いていた。
となりの家の駄菓子屋のセガレの弟が窓越しによく拍手をしてくれて、嬉しかった。ありがとね、
はじめて義理じゃない拍手をもらえたと思う。
そんなピアノだが、両親の離婚に伴う引っ越しで、中学2年のときに生ピアノとは、お別れ。それから数年後、シンセサイザー(次の記事)を手にするが、やはりピアノのタッチが恋しくなり、KAWAIのアップライト(中古)を
購入するのは19歳のときになる。
YAMAHAに比べると、高音が抜ける感じだが、ダンパーを踏んだときの広がりが
すごく心地良かった。
このピアノでは、
洋楽のバラード曲をよく弾いた。
僕が21歳のときに出会った女性。その人とは出会って割と早い段階で、お付き合いすることになる。
ピアノ教室の先生をしていた。
僕が弾くEaglesの『Hotel California』が
好きだと言ってくれた。
その彼女とのクリスマスデートで行った
フレンチのレストランにピアノがあった。
それから数年して、そのレストランでピアニストを募集してるとのことで、洋楽のピアノのカバーでレパートリーを増やしていた僕は他の人に聴いてもらいたくて、
応募することにし、見事に受かった。
日中、サラリーマンをし、終業後19時から2時間弾かせてもらった。
期間は半年くらいだったかな。
今はまた生ピアノはない場所で暮らしている。
あのタッチではないけど、88鍵盤のシンセがあるので、
ピアノはたまに弾くようにしている。
長くピアノと向き合っているが、忘れた基礎は、小学生時代に置いて来たので、ほぼ独学で、今もたいして上手くはないのは自分が一番わかっています。
↑15年ほど前に撮った自作曲。たぶんこの頃から
あんまり成長はしていないです。
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