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俺は菅田将暉にはなれないんだ 映画『花束みたいな恋をした』感想ビッテン

🧠 あらすじと概要:

あらすじ

映画『花束みたいな恋をした』は、有村架純演じる「絹ちゃん」と菅田将暉演じる「麦くん」の2人のサブカルチャーを愛するカップルの恋愛を描いた作品です。2人は運命的な出会いを果たし、恋愛関係が発展していきますが、社会に出ることでそれぞれの純粋な世界観に変化が生じていく様子を丁寧に描いています。彼らの関係と共に、個人の趣味や価値観の衝突がストーリーに深みを与えています。

記事の要約

この記事では、映画『花束みたいな恋をした』を視聴した著者の感想が述べられています。著者は、映画の存在感や引用頻度の高さから興味を持ち、ジャンルは異なるものの視聴を決意しました。特に、菅田将暉演じる「麦くん」の純粋さと向き合う姿勢に強い感情を抱き、自身のコンプレックスを反映させます。

著者はサブカルに対する自分の態度を振り返りながら、麦くんのように周囲を気にせず自分を貫くことに憧れや嫉妬を感じると述べています。映画は、恋愛の描写のみならず、趣味や人生に対する向き合い方の重要さを描いており、多くの人に共感を呼ぶ力を持っていると評価されています。

最終的に、この映画は多様な視点や感情を呼び起こす作品であり、視聴者それぞれの経験に寄り添う力を秘めているという印象が強調されています。

俺は菅田将暉にはなれないんだ 映画『花束みたいな恋をした』感想ビッテン

映画『花束みたいな恋をした』を視聴した。こういう映画をふだんは滅多に見ない人間だ。何年ぶりの恋愛邦画だろうか。

見ようと思った理由は、色んなコンテンツでこの映画の名前を目撃しているから。単なる名作映画の紹介として目に入るなら、ここまで気にならなかっただろう。しかし、そういう「おもしろい映画」としての引用だけではなかった。本やらブログやら、色んな人が、色んな例えとしてこの映画を使っていく。

その登場頻度の高さから、単にエンタメとして優れているだけでないなと。何かしらのパワーがあるからこそ、これだけ多くの人が引用しているのだろう。そう思い、慣れないジャンルの映画ながらも視聴した。

で、見た感想。一番思ったのは「俺は菅田将暉にはなれないんだなぁ」という感想だった。

…もちろん、今をときめく人気俳優になれるわけがないのだが。こんなこと、一瞬でも思っただけで菅田将暉ファンに激怒されそうだ。正確に言うなら、菅田将暉演じる「麦くん」について。彼への感情がこの映画の感想の大部分を占めた。というか、「麦くん」を通して、自分という人間の面倒くささを実感したというか…

恋愛映画だけども刺さったのはそこじゃない

本作品の中心にいる2人の男女。有村架純演じる「絹ちゃん」と菅田将暉演じる「麦くん」の2人を一言で称するとしたら。「サブカル系カップル」ということば以外にないだろう。

こう書いておいてなんだが、自分はこの「サブカル」ということばが好きではない。どこまでを「サブ」なカルチャーとするか、なんて考えはじめると悶々とするし、好きなものが「サブ」扱いされるのも腹が立つ。

何より、あの映画に登場してきたコンテンツに対して「サブ」扱いが申し訳ない。しかし、他にいい表現がないのも事実。「多趣味」とか「コンテンツ好き」とかはなんか違うし…

押井守を神とあがめ、マイナーな映画や展示会に行き、大きな本棚に本や漫画を並べ、バルコニーでお酒を嗜む。そんな2人。やっぱり「サブカル」ということばで表現するしかないのだろうか。仕方ないが、この表現を使おう。

本作品の主なストーリー展開は、そんなサブカル好きな2人が運命的な出会いをし、恋を「した」状態までいく物語。自分の世界を持っていた2人が、社会に出ていくにつれて、純粋な世界でいられなくなる過程を丁寧に描く…

のだが、自分が深く刺さったのは、この恋愛描写ではない。いや、もちろん、恋愛映画としてもすばらしかった。

大学時代に、3年くらい同棲した後別れるというかなりニアリーイコールな経験がある自分には他人事とは思えない描写があったりしたのだが、ここでは書かない。おそらく、そうした恋愛映画としての良さを語った感想はすでに山ほどインターネットにあるだろうし。

自分が最も感情を動かされたのは、冒頭書いた通り、菅田将暉が演じる「麦くん」。彼の社会への純粋さというか、まっすぐさ。それへのコンプレックスと称賛で、感情がごちゃ混ぜになった。

サブカル好きになれない自分

自分はコンテンツについての感想書くことを趣味としている。インターネットの片隅で、アニメやら漫画やらの感想記事を書き続けて、その記事は100記事を超えた。1記事の文量は3,000文字以上なことが多い。つまり、単純計算で30万文字以上。

我ながらよくやってるなと思う。これだけ色んなコンテンツを見て、自分なりにどういう作品だったかを考えていると、自分の好みがわかってくる。それと同時にコンプレックス的なものも。

それは「王道が好きすぎる」ということ。ようするに、サブカルの「サブ」にハマりきれないのだ。

アニメ監督として尊敬するのは押井守ではなく、宮崎駿だし、好きなミュージシャンと聴かれたら、今ならマイケル・ジャクソンと回答するかもしれない。世間の一般人の誰でも知っている、そんなコンテンツが大好きなのだ。

もちろん、俗に言うマイナーなコンテンツを見たことがないわけではない。押井守の『イノセンス』を見てわけがわからなすぎてキレたこともあるし、インドネシアで人気のインストバンドのライブを見に行ったりもする。

そうしたコンテンツの魅力を全く理解しないわけでもない。押井守でも『GHOST IN THE SHELL』は結構好きだし。もっとコンテンツに時間をかけて、理解しようと深く考察すれば、楽しみを見いだせるのかもしれない。

けれども、それができない。楽しみ、感動した上でより深い感動を得ようと努力するのはいいが、努力しないと楽しめない作品はいい作品なのか?と思ってしまうのだ。

だから、サブカル系の作品にハマれない。次第に手を出すことすら億劫に思えてくる。よく分からない作品を見て苦しむ時間で『ハンター×ハンター』を読み返すほうが幸せだと思ってしまう。

そんな自分は、押井守を神とあがめ、小難しい作品について語り合う、今作品の主役2人が羨ましいと思う。サブカルにハマって、その世界観にどっぷりと浸ることができているから。

広く浅く、色んなジャンルで一番著名なコンテンツを結果体に好きになり、分かりづらい作品を深く掘ることをしない自分とは真逆である。

自分にできないことをする人間には、どうしても嫉妬してしまう。そんな器量の狭い人間なのだ。趣味の楽しみ方なんて人それぞれだということは、頭では分かっていても。

目の前にまっすぐ向き合う

社会に出ると今までの趣味を捨ててしまった麦くんが、本当にサブカルが好きだったかどうかは、議論の余地があるのかもしれない。本当に好きなものなら、仕事に忙殺したくらいじゃ辞めたりしないだろうという意見が出るのも分かる。

俗にいう「サブカルが好きな自分が好き」な状態なだけだったのかもしれない。そうだとしても、あれだけ熱量を持てたら恥じることのない趣味だと思う。

むしろ、下手にメタ認知をして「あまりマイナーすぎる作品とかの発言してもキモいし、けどもベタな作品を言って知らないと思われるのも嫌だし…」と外面を気にして、本当の「好き」を言えなくなる自分より、全然マシだと思う。

何より、彼はほんとうにまっすぐ、自分の眼の前の世界に没頭している。その純粋さに憧れる。

小さな物流のベンチャー企業に入り、仕事が人生の主軸になっていく。愛する人のため、眼の前の世界、つまり現実世界の仕事に対して没頭していく。仕事に対して熱量を持って接する。

だから、家に帰っても残業をするし、書店で自己啓発本を手に取る。分かりやすいくらい、仕事が思考の中心になっていく。

それが正しいとか、間違っているとか、そういう話をしたいのではない。愛する人のことを考えて行動していない、独りよがりな行動だったのかもしれない。何も考えずに、人生の軸を持っていなかった結果なのかもしれない。

けれども、眼の前の問題に、逃げずに全力でぶつかった。その彼の行動を非難はしたくない。むしろ、それは全力で純粋に人生に向き合った結果だと思っている。

仕事は人生の優先事項ではないからと、冷めた態度を取り、ビジネス書を毛嫌いするような自分よりは、美しいものを持っている。

「麦くん」が仕事のことを好きだったかどうかは分からない。ただ生活のために取った選択肢で、嫌悪感もあっただろう。けれども、彼なりに仕事に向き合い、情熱を持って取り組んでいたのは間違いない。

そしてそれを自分のためでなく、愛する人のためにと思って行動していた。結果はどうであれ、彼のこうしたまっすぐさというか、純粋さを自分は嫌いにはなれない。

ほんとうに、自分という人間と菅田将暉が演じる「麦くん」は全く真逆な存在なのだ。

ふつう、これだけ反対だったら、嫌悪感を持つのがふつうのような気もするけど、不思議と彼のことが嫌いになれない。そう思わせるのは、菅田将暉の絶妙なリアル感と、嫌味のなさを感じる演技によるものなのだろうか。とにかく、彼は嫌いになれない。

憧れや尊敬とは違う。嫌悪感があるわけでもない。やっぱり、自分とは明確に違う存在で、でも、否定をするわけではなくて。彼に対して一番強く思う感情はただ1つ。

自分はこういう人間には、なれない。
シンプルに、これだ。

色んな人の地雷原

改めて映画全体を統括すると、地雷原みたいな映画だったなと思う。色んなところに、色んな人に刺さるような地雷が仕掛けられている。それは恋愛映画としてだけではなく、趣味や生きがいへの向き合い方に対しても、だ。自分はみごとに両方の地雷を踏みぬいたわけだが。

なぜにここまで多くの人に刺さるか。とにかく、この映画は日常にフォーカスしたリアルさの徹底的な描写と、真逆な邦画っぽい過剰演出との、この2つの絶妙なバランス感覚がすごい。

具体的なコンテンツの名前を出しまくり「分かる人には分かる」要素をとにかくまぶしていく。どこかに引っかかって「これが分かるパートナーとか最高じゃん…」となれば、もう製作陣の術中の中である。

例えそうした描写が刺さらなくても、「ふつうのカップルっぽさ」も丁寧に描かれるので、感情移入は自然とできる。

そうしてたっぷりと感情移入をさせた上で、邦画的な演出とともに、感情を揺さぶってくる。踏んでいた地雷を爆発させるわけだ。

正直、ラストのファミレスのくだりとかは、でき過ぎというか、過剰演出だなとも思ってしまったけども。その手前でしっかりと感情移入を済ませているから、冷めることなく、感動できる。

例えとして引用したくなるのがわかる、パワーに溢れた作品だった。色んな「リアル」が詰まっている作品のような気もする。だから、単なる恋愛映画でない取り扱われ方をしているのかもしれない。

自分も恋愛映画としてというよりは、コンテンツに対する向き合い方とか、人生論的な形で自分との比較をしてしまったわけだし…
とにかく、視聴した人間の数だけ違った感想が出てきそうな、そしてまたそれを聴きたいなと思う、そんないい映画だった。



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