木曜日, 5月 22, 2025
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今日も受難のみ救済無し、そうだ何も言わずにただ苦しめIntegral Verse(代表:田畑佑樹)

🧠 概要:

概要

この記事は、音楽プロジェクト「Parvāne」の代表田畑佑樹が、福岡Uteroでのライブパフォーマンスについて振り返り、アートや自己表現に関する哲学的思考を展開する内容です。田畑は、自己実現や好きなことを追求するのではなく、「やらなければならないこと」に注力することの重要性を強調しています。また、外部の人々との対話や共感による成長を求める意義も述べています。

要約(箇条書き)

  • 福岡Uteroの公演が成功したことへの感謝。
  • 演奏は評価されたが、自己満足には至っていないと感じている。
  • 次回の活動に向け、スタジオでの準備を進める予定。
  • 音楽家たちとの自然な連帯感が印象的だった。
  • 「やりたいこと」ではなく「やらなければならないこと」を重視すべきと主張。
  • 集団の中で「好きなこと」が焦りを増幅させるリスクについて言及。
  • 自己否定と自己実現の違いを強調。
  • 自分が努力する姿勢を見せることで、他者にも刺激を与えたいと考えている。
  • 最後に、日々の義務を果たすことが真の成長に繋がると締めくくっている。

今日も受難のみ救済無し、そうだ何も言わずにただ苦しめIntegral Verse(代表:田畑佑樹)

 今月7日の福岡Utero公演にお越しいただいた・ならびにお立ち合いいただいた皆様、まことにありがとうございました。私事が立て込み過ぎていたため本日まで謝辞を述べ損ねていましたが、先だって我々が行った演奏は、(単純に終演後いただいた反響の大きさだけで判ずれば) Parvāne 史上最大と言ってよいほど良好なものでした。演奏の音声と映像も残っていますが、ひとえに私の一存により、当日の演奏内容は Patreon 有料サポーターの皆様限定の公開にとどめることとしました。
「観客や関係者からの評判は良かったが、自分たちは納得していない」というのはバンドあるあるで、絶えず変容を余儀なくされる集団性として健全な証拠です。次回の演奏予定はまだ立っておりませんが、我々 Parvāne は夏に向けて熾烈と言ってよいほどのスタジオ入りを期しておりますので、また大幅に異化した我々の姿を(おそらくは今年中にリリースされる3曲入り音源として)お目にかけることができればと思います。

 福岡Uteroは、PAのクオリティはもちろんのことブッキングの内容にも間違いがないことで知られていますが、今月7日に同じステージを共有したミュージシャンたちとの間で保たれていた自然な連帯の念は、「ああ、音楽を続けているとこういうことが起こるのだな」と、平凡な和らぎと異様な未知感を同時に到来させるほどのものでした。私はチェコよりお越しの UŽ JSME DOMA への歓迎として「シオニズムに抗する(国家主義とも人種主義とも別様な)ユダヤ性とカフカの文学作品」に関するスピーチを前もって収録しておいたわけですが、その後でご出演なさった日本出身バンドのベーシストさんのスティングレイには(誰に頼まれたわけでもなく) “STOP GAZA GENOCIDE” のステッカーが貼られていた。こういうことは当たり前に起こるのです。恥ずかしげもなく叙情的かつジョジョ的な表現を使えば、あの夜に集まった人々の全員が「黄金の精神」を共有していたと思いますし、その会合の露払いを務め・かつその内容も好評だったことは、我々 Parvāne にとって最大の歓びです。
 終演後、 UŽ JSME DOMA の Miroslav Wanek 氏に「チェコの政治的状況はいかがですか」と直截に問わせていただき、そこから10分間ほどの熱心な対話が始まりもしましたが、その内容について細かくは書きません。確かに言えるのは、あの夜に Wanek 氏が述べておられた信念は、大江健三郎が旧懐していたエドワード・サイードのそれとほぼ全く同じであったこと。つまり、「真に勇敢な楽天主義」です。西暦1960年代生まれで、いわゆる「西側」に生まれていればその青年期にはバブルの狂騒的好景気を享受していたかもしれない/しかし旧ソ連圏に在ったからこそ西側的な浮き足立ちとは無縁に生きてきたように思われるチェコ出身者の慎み深さは、私がかねてより侮蔑を表明してやまない「ずーっと好景気に甘やかされてきたくせに近々の経済的失墜を受けて鬱になったり他人に当たり散らしたりする根性無しのバブル野郎ども」とは全く別様の品性と知性と肉体性を備えておられ、まさに自国の多数派とは異なる者との対話によって無明の輩たる私も多くの智慧と希望を分け与えていただきました。このテキスト上でいきなり書きますが、ちょっと書いてみた程度のものをちょっと読んでみた程度で解ることなど何もありません。外に出て、人と話しましょう。私は独りでも続行可能ではあった音楽プロジェクト Parvāne を次の段階に進めるためにそうしたし、Uteroに出演したすべてのミュージシャンも、お越しいただいたお客様も同様でした。外に出て、雑多な無記名性の中に自足してしまいたくなる怠惰を意に介さず、自らの所信を述べて、なおかつそれを引き下げず、この世界の雑多性に善い貢献を果たしうるか。我々が問われているのはまさにそのことに他なりません。ここまで述べたことを具体的に為すためには、まず何が必要か? 言うまでもなく、このようにデジタル入力されている文字などではありません。それはあくまで副次的な道具にすぎない。外の世界で他人と相捗るために必要とされるのは、まずもって声です。私がUtero公演の1ヶ月前に開幕の式辞を音声として録音していたのは、今回の結論を先取りする行為であったといえるでしょう。

 ひとまず雑事を落ちつけた現在の私が第一に取り組んでいるのは、「歌がうまくなること」です。今ほど「歌がうまくなりたい」と熱望し・具体的に鍛錬している時期は未だかつてありません。音程付きのボーカルワークが今後増えるからというのはもちろんですが、これほど歌の技巧の奥深さに打ちのめされ・かつ魅了されている、そのような状態に自分が成りうるとは思いもしませんでした。数週間後34歳に垂なんなんとする男が、大真面目な顔で「もっと歌がうまくなりたい」と言う。このような姿を前にして嘲りたくなる人々がいても別によいのですが、もっと困ったことには、羨ましがる輩まで出てくるかもしれません。なにしろ西暦2025年現在の世界では、「何もしないこと」に居直った者たちが、他人の存在とその仕事を利用してまで自分も「何かやってる人」の側に居るのだと思い込みたがったり(つまり二次創作や評論合同誌)、あまつさえ「圧倒的才能を備えたあの人とうんざりするほど凡庸なワタシ」の物語をアニメや漫画や映画の媒体で濫造し、手当たり次第に過食し、その安価で安易で安穏な世界に安居する。といった奇癖までが常態化しています。からこそ、「もっと歌がうまくなりたい」と思いながら具体的な日課をこなしている私のような者の姿まで、「いいですねあなたは私なんかさなんにもやれることが」と湿った手で撫で回すことで消費したがる、そんな例まで出てきかねない。それほどまでに「熱意と能力と行動」に飢えてしまっているのがこの世界なのです。

 だからこそ、ここで皆様へ向けてはっきり書かせていただきたい。「やりたいこと」なんてやってはいけない。「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けましょう。「やりたいことをやる」なんて指針ほど醜く・また具体的に人間(当事者たるあなた以外にも多くの人々)を誤らせる精神性はそうそうあるものではありません。なぜなら「やりたいこと」という麗句には、「それをやってさえいればいつか自分も自己実現できるのだ」という甘えと裏返しの焦慮があからさまに露出しているからです。
 あなたは「好きなことを好きなように話している」と思うかもしれない。しかし実際は真逆です。「好きなことを話している」ときのあなたは、単にそのように行動するよう仕向けられているだけです。仕向けられているって誰によ? との問いに答えるにはフロイト的な原理の説明が必要となるのであえて省略しますが、これだけは憶えておいていただきたい。生きているかぎり、あなたは「好きなこと」をすることができません、絶対に。とくに「好きなこと」を同じくする集団性を共有した場合には、あなたが最初に抱えていたはずの麗らかな善意さえ、集団的に増幅された焦慮を糊塗するための供儀にすぎなくなってしまう。これもフロイトの(同性集団の)リビドー理論の応用にすぎませんが、これについては既に Twitter アカウントを削除してから8年が経とうとしている私などよりも、皆様のほうがよくご存知でしょう。「自分の好きな分野について交流したかっただけなのに、どうして毎回こんなイヤなことになるんだろう?」と一度でも思ったことがあるなら、その問いへの答えは既にこの段落内に書かれています。そしてこの文を書く私は、あなたがそれさえも解離的に失読してしまうほどに病み爛れてしまってはいないと信じています。

「やりたいこと」なんてやってはいけない。「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けましょう。それはつまり、「自己実現」などではなく「自己滅却」のために生きることでもあります。もちろん、特攻隊として散れとか企業に使い潰されて過労死しろとかいう話とは全く関係無い。あなた自身の消滅、その原因が、あなたを除いて外に求めようもない状態を設定し、それによってついにはあなた自身に帰されるような特性さえも消滅させること。それを全ての人間がやらなくてはいけませんし、逆に言えば、それ以外のことを人間は一切やらなくてよいのです。
「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けましょう。これを書いている私こと田畑佑樹は、西暦2019年の夏の肉体労働の最中に突如として小説を着想し、コロナ禍を経て真冬に部屋の電気を停められたり月間の食費を3,000円で凌いだりしながら執筆を最優先させ、そのようにして15ヶ月間を生き抜いた結果ひとつの長編小説として完成させた者です。「私はこの小説の第3部においてショアー生還者のポーランド人やシオニストの末娘やイラン出身のダンサーなどの登場人物を次々と登場させたが、そうか、世の人々が大慌てで “パレスティナ問題” について勉強したり “シオニズム” などの語句を検索して知ったかぶったりする時期が到来するまでには、この小説を発表してからさらに3年ほど待たねばならなかったのだな。私は小説を書き終えた半年後にムスリムとして信仰告白を果たし、アル・ジャジーラを日常的に読み、岡真里さんが共著した教本を使ってアラビア語を勉強してさえいたというのに、世の人々は私の水準にやっと追いつくまでに3年もかかってしまったのだ」などの痛恨さえ、現在の私こと田畑佑樹には遠く過ぎ去ったものです。次の世界を到来させるために然るべく働いている者が、自己憐憫と言い訳にまみれた世の多数派の人間たちより遥か先行してしまっているのは、単なる理の当然です。ぜひとも解っておいていただきたい。「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けていたなら、我々は人称の惨めさを易々と突破した次元において豊かさを享受することができる、より精確には享受することしかできないのです(原理的に)。

 私こと田畑佑樹は、「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けましょうと野放図に言って、ひとまずこの場を去ることにします。受動的passiveであること、それが受難passionをくぐり抜けるための必要条件です。あなたは世界から通告された義務つまり「やらなきゃいけないこと」を果たすことしかできず、「やりたいこと」などはあなたを含む同種の哀切な侏儒たちをより醜怪に搾取するための名目でしかないことをいい加減自覚しましょう。
 すでに時は西暦の5月、つまりこれは私こと田畑佑樹に対して峻酷かつ異様な選択と行動を迫る月です。西暦2020年の5月には小説の第17章(の38,500字)を昼夜のうちに書き切り、2021年には来月のシャハーダを前にしておきながら突如着想してしまった楽曲『蛾の死』を音源化させるために奮闘し、2022年には3曲入りの音源を出したあと突如のバンド形態への移行を画策し、2023年には貧困が極まりながらもさらなるボーカルスタイルの拡張を志し、そして2024年には現在『鱗粉1』として聴取可能な演奏のレコーディングを行っていた。このように5月が熾烈の時期となるのは、私がそのように仕向けているからではもちろんない。単に、受動的passiveであるために受難passionが到来するだけなのです。
 現在の私が励んでいる具体的行動は、ボーカル練習動画のみを上げるチャンネルの方にその一端を見ることができます。しかしこれさえも、私がバンド形態の Parvāne を動かすようになってから負っている日課のひとつにすぎません。そんなことをやって苦しくないか? と問われても、全く。とだけ答えるでしょう。「やらなきゃいけないこと」だけをやり続けるとはこういうことです。今日も受難のみ救済無し、そうだ何も言わずにただ苦しめ。事ここに及んでは、「熱意と能力と行動」に飢えるあまり私のような者さえ撫で回したくなってしまっていた輩どもさえ、この受難の奥義を識って一目散に退しさったことでしょう。私はここで、あと1週間あまり残されている熾烈の月の熱ほとほりを惜しんで、その燃えうる余地のみを皆様に示して帰ります。仕事をしましょう。我が身可哀さを擲った人間として、後悔のない、余儀もない、文句を言う気が起こらないどころか最初からその権利すら無い絶対的義務に服従するために。



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