日曜日, 6月 8, 2025
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ラウパ迷子のオッサン、オバサンのためのTHE GHOST INSIDE講座: 逆境を乗り越える現代のDEF LEPPARD夏目進平

🧠 概要:

概要

この記事は、メタルバンド「THE GHOST INSIDE」が遭遇した逆境とその克服についての物語を紹介しています。特に、彼らのツアーバスが事故に遭い、多くのメンバーが重傷を負った経緯と、そこからの復活を描いています。また、彼らがどのようにして音楽を通じて希望を求め、そしてファンとともに支え合ってきたかに焦点を当てています。

要約の箇条書き

  • 逆境の共有: DEF LEPPARDなどの成功したバンドのように、THE GHOST INSIDEも大きな逆境を経験。
  • 事故の経緯: 2015年にツアーバスがセミトラックと衝突し、メンバーとクルーが重傷を負う。
  • 身体的・精神的挑戦: ドラマーのアンドリューは事故で片足を失い、さらに多くのメンバーが大怪我を負った。
  • 回復の道のり: メンバーは様々なリハビリを経て、努力と創意工夫で音楽活動に復帰。
  • ファンとの絆: コンサートでのファンの支援が大きな励みとなり、互いに感謝し合う。
  • ポジティブなメッセージ: 音楽を通じて困難を乗り越える力を与えるメッセージが強調されている。
  • 復帰ライブの成功: 再集結のパフォーマンスは多くのファンで埋め尽くされ、彼らの精神は以前よりも強靭になっていると実感。
  • 感謝の意: メンバーは事故を通じて得た教訓や感謝の気持ちを語り、日々を大切に生きることの重要性を認識。

ラウパ迷子のオッサン、オバサンのためのTHE GHOST INSIDE講座: 逆境を乗り越える現代のDEF LEPPARD夏目進平

オッサン、オバサンにとっては知らないバンドばかりのラウドパーク25となりそうですが、出演者の中に実は我らが DEF LEPPARD と似たような歩みを見せるバンドがいます。THE GHOST INSIDE。

DEF LEPPARD はその大成功とは裏腹に、不幸に襲われ続けたバンドとして知られています。メンバーのアルコール中毒、急逝、大怪我、Slang、牛。しかし彼らはそうした逆境をメタルに宿る回復力、反発力で見事に乗り越えて、さらに大きくなって帰ってきました。

THE GHOST INSIDE も、ツアーバスの大事故という逆境を跳ね返して今に至ります。奇しくも片腕を失ったドラマー、片足を失ったドラマー。リック・アレンとアンドリュー・トカチク。ふたりは、そんな楽器や人生を諦めてしまうような悲しく恐ろしい出来事をも、血の滲むような努力とポジティブな精神力で跳ね返して戻ってきました…そしてその強い力はきっと、メタルの肝であり、根幹。

もちろん音楽性はまったく異なりますが、かつて DEF LEPPARD から困難を乗り越える勇気をもらったオッサン、オバサンなら、THE GHOST INSIDE の物語や音楽にも共感して、人生の糧となる何かを得られるかもしれません。無知を恐れるな、偽りの知を恐れよ…Kerrang! 誌の翻訳記事です。

ラリー・トカチクが妻ジュリとともにテキサス州エルパソの病院に到着したとき、彼は息子アンドリューの将来について、もし将来があるとしても、それがどのようなものになるのか想像することさえできませんでした。また、その “将来” を形作る上で自分たちが重要な役割を果たすことについても、当時はまだ知る由もありませんでした。

アンドリュー・トカチクは、THE GHOST INSIDE のツアーバスが事故に遭ったハイウェイ 180 から、すぐに集中治療室へと空から搬送されました。2015 年11 月19 日の早朝、アリゾナ州フェニックスへ430マイルの旅の途中、彼らのツアー・バスは反対車線を走行していたセミトラックと正面衝突したのです。

当時28歳だったアンドリューはその事故で昏睡状態に陥り、10日もの長い間意識を取り戻すことはありませんでした。両親は、彼のそばに付き添うため、故郷のミシガン州から駆けつけました。目覚めたアンドリューは、医師から右脚の膝から上を切断しなければならなかったと告げられたのです。

2 か月後、アンドリューは、名高いメアリー・フリー・ベッド病院でのリハビリを続けるため、ミシガン州の実家へと帰りました。リハビリでは、アンドリューの体力を回復させ、義足の使用方法を指導し、歩くことを再学習させるだけでなく、肯定的な答えが見出せないような問題、つまり、足を失ったドラマーがそのキャリアを継続するにはどうすればよいか、という難題の解決方法を探っていきましたが、当然その答えは、簡単には見つかりませんでした。

「彼らは、キックドラムに接続して演奏できる義足を作るというアプローチを採用していた。たしかにそれは機能したけど、十分なパワーを得ることができなくてね。僕はそれを、ほとんどコントロールができなかったんだ。重さが16 ポンドもあったからね」

しかし、その答えは父ラリーがすでに見つけていました。

「僕の父はミュージシャンではないけど、とてもクリエイティブな人でね。趣味で一生木工を続けているんだ。物を作るのが好きなんだよ。僕はあの頃、さまざまな方法で再びドラムを叩こうと試みて、でもダメで、暗い状況に陥っていた。そんな時、父が自分で作った道具を僕に渡し、”これを試してみて” と言ったんだ。その道具は僕の義足の下に設置するペダルで、バーが取り付けられていて、そのバーがキックペダルに接続されている。するとまるで、僕の足がそこにあるような感じでね!父は、僕が再び演奏するための鍵は、体重の制限がなく、自由に動き、残された手足に自由に体重をかけることができることだと考えていたんだ。そして、それはうまくいったね!父は、僕がまだエルパソの病院に入院していたときに、このアイデアを思いついたと話してくれたんだ。そして母が、このペダルに “ザ・ハンマー” という名前を付けてくれたんだ!」

“ザ・ハンマー” の誕生は、数多くの物語の一つに過ぎません——彼らは本当に多くの小さな奇跡が重なり合い、圧倒的な困難を乗り越えて THE GHOST INSIDE を現在の位置まで導いたのです。

両車のドライバーであるグレッグ・ホークとスティーブン・キャンベルが命を落とし、バンドの5人とクルーの5人を含む10人が命懸けの闘いを続けた交通事故から3年半。彼らが最後に一緒にステージに立った日から 1,334 日が経過し、THE GHOST INSIDE は、彼らの精神的な故郷であるロサンゼルスのザ・シュライン(5,000 人収容の屋内会場では、わずか数分でチケットが完売するほどの需要に対応しきれないため)の駐車場にて、家族、友人、ファンを含む 8,000 人の観客を前に、再結成ライブを行いました。

THE GHOST INSIDE のメンバー、アンドリュー、ボーカルのジョナサン・ヴィジル、ベーシストのジム・ライリー、ギタリストのクリス・デイビス、ザック・ジョンソンは、この日を迎えるために必要なことは何でもすると誓いました。アンドリューは、切断手術を受けた後、ただただ義足の研究に没頭したほど、底知れないほど前向きな人物です。そんな彼でも、暗い鬱病を回避するために、自分自身をだましてそれを可能だと信じ込ませただけなのか、彼自身も定かではないのです。

「僕らは生き残るべきじゃなかったのかもしれない。人々は生きることにしがみつく。だけど、僕は友人たちがステージに戻れるかどうかどころか、朝になってもそこにいるかどうかさえわからなかったのだから…」

それでも、彼らが生きていることは、これまでで最も勇敢で感動的な決意の例なのかもしれません。

ジム・ライリーは THE GHOST INSIDE で複数の役割をこなすことに慣れています。ベーシスト、自称 “バンドの父親”、時々ツアーマネージャー。復帰公演では、クリエイティブ・ディレクター兼プロダクション・マネージャーの二役を兼任し、ステージ・ショーの企画から実施までを責任を持って担当しました。

「コントロールフリークではないけど (笑)、もし他人に任せていたら、それは外部のビジョンになってしまう。もしかしたら、より早く、より簡単で、より安価だったかもしれない。でも、このバンドから生まれたすべてのものは、僕たちの友情と互いの関係性の反映なんだからね」

それは、2015年11月19日の事件後の数時間に彼に求められたこととはかけ離れたものです。

「僕は病院に行って、他のメンバー全員の身元確認をしなければならなかった。事故は人里離れた場所で起こった。その時僕たちはパジャマを着て眠っていてね。誰も身分証明書を持っていなかったんだ。そしてメンバーとクルーの多くは人工昏睡状態にあった。そこで僕はマネージャーと一緒に座って、”ジョナサンは赤っぽい髪で、左腕に 3 つの X のタトゥーがある男です。アンドリューは、脚に hopeless のタトゥーが入った、背の高い金髪の男です。ザックは、首にタトゥーがある男です” と説明したんだ。その日、事故で負った怪我は思い出したくもないし、バスの残骸の写真を見ようとしても胃を殴られたような衝撃を感じるんだ」

自動車事故で予想される怪我に加え、ジム自身は片方の足首に重度の骨折を負い、クリスは 2 箇所骨折し、さらに足を “粉砕” しました。ジョナサンは首と背中の骨折、膝の靭帯損傷、両足首の骨折、さらに皮膚移植を必要とする肘の損傷など、さらに多くの怪我を負いました。アンドリューは、切断された脚に加え、肋骨、脊椎、腰の骨折、そして肩と首の靭帯と神経の広範囲にわたる損傷も負いました。”彼は現場、あるいは病院に到着するまでに死亡していたはずだった” と、ある医師は評価しています。ザックの体の下半身は、金属製のネジ、プレート、ロッドを使って再構築しなければならない部分ばかりでしたが、それでも複数の指を含む左足の大部分は、救うことができませんでした。

彼らの回復は、ゆっくりとしたものから、まさに苦痛に満ちたものまでさまざまでした。ザック自身は “13件の大手術と、その倍ほどの小手術” を数え、これは昨年8月にようやく終わり、彼は “まるで叩き潰され、切り裂かれた人形のような” 最悪の状態にありました。骨盤の再建には、合計18時間に及ぶ連続手術が必要で、その間には数時間に及ぶ耐え難い痛みが伴いました。

「2日目は、おそらく僕の人生で最も辛い日の一つとなった。深く麻酔をかけられ、ほぼ死にかけた状態になった。そして、激しい痛みで目覚めたんだ。食べられず、飲めず、眠れず——そして、次の日も同じことを繰り返すことになると知っていたんだ」

しかし、身体的な苦痛は物語の半分に過ぎません。ザックは身体的・精神的な回復を “別々のローラーコースターのようなもので、それぞれが異なる方向に進みながらも互いに絡み合っている” と表現しました。彼は、病院のベッドで一人きりで横たわり、精神と決意がほぼ崩れ去った日々に、人生が本当に価値あるものなのかと疑問に思ったと告白しました。

ジョナサンの最初の反応は、母親に “バンドに戻ることは絶対にない” と告げることでした。ああした大事故が再び起こる可能性は、彼にとって永遠に逃れたい悪夢でした。彼は、精神的な回復が、過酷な理学療法や手術よりもはるかに困難だったと語ります。それは、ほぼ2年間に及ぶ、自力で歩けるようになるための過酷な闘いの過程でした。

「怒りに囚われていた時間が本当に長かった…”なぜ僕なのか?悪いことは何もしていない。間違ったこともしていない。それなのに、なぜ僕にこんなことが起こったのか?” と…」

他のメンバーとは異なり、事故から2年後、彼は人生を変える手術の選択肢を提示されます。医師たちは、長年悩まされてきた右足首の痛みを解消する唯一の方法は、関節を完全に固定する手術だと説明したのです。

「医師は、基本的に “君が今感じている痛み、毎日感じている痛みは、この手術を受けなければ、一生毎日続くでしょう” と僕に言ったんだ。ザックとアンドリューは、それぞれの怪我(つま先と脚の切断)について、実際には選択の余地がなかった。しかし、僕は選択の余地があったんだ…その選択は、障害を抱えて生きることとなるからとても難しいものだった」

関節を固定すると、ジョナサンはかつてのように走ったり、ジャンプしたり、動いたりすることはできなくなります。以前はごく当たり前のことだった階段の降り方も、横向きに、あるいは後ろ向きに動かなければならなくなりました。

一方、クリスとジムは、お互いの心に残る言葉を繰り返します。”事故は自分のせいではないことは分かっているのだけど…”。クリスはこの感情を “生存者の罪悪感” と呼んでいます。事故の後、彼の頭は “もし…だったら” という想像でいっぱいになりました。彼は、4 か月間歩くことができなかったにもかかわらず、自分の怪我は比較的軽度だったとし、そのことを “もちろん、感謝している” と語っています。翌年 5 月に結婚式が予定されていたクリスは、医師たちに、回復の唯一の目標は妻とバージンロードを歩くことだと伝え、その目標を達成しました。しかし、どこかに “生存者の罪悪感” を彼は今も感じています。

「アンドリューの足を元に戻せるなら、あるいは、他の誰かが耐えてきた痛みをすべて取り除くことができるなら、僕は何でもするよ…事故からの回復で最も大変だったのは、あの事故を、みんなの大怪我を自分のせいだと思い込まないようにすることだったんだから…」

ジムは、ほとんど毎日、ポケットに “平静の祈り” が刻まれた石を携帯しています。そこには、”神よ、変えられない出来事を平静に受け入れる恵みをください。変えるべきことを変える勇気をください。そして、その両者を区別する知恵をください” と刻まれています。

「僕はバンドのツアー・マネージャーとしてツアーを管理していたので、初日から責任感を感じていたよ… 起こったことに対してではなく、皆が回復に対してね…今なら歴史を変えることはできないと知っている。違う今を願うことはできるけど、後悔を抱えて生きることは意味がないのだから。現状を受け入れる必要がある。自分を変えられる部分を知り、事故を元に戻せないと理解する知恵を得ること…起こったこととの平穏を見つけることが、僕にとっての大きな旅だったんだ…

「悲劇を経験することで、人間の身体と精神がどれほど強靭であるか気づくことがある」とザックは言います。「多くの人が僕に “君たちが経験したようなことを乗り越えるのは不可能だ” と言ってきたえど、僕はいつも “絶対にできる” と答えている。人は、必要な時にその強さが現れるものなんだよ。そして、誰もがその内なる強さを持ち合わせているんだ。僕の体は傷だらけだけど、これまでで最も強くなっているよ!」

再集結の夜は “ありがとう”という言葉から始まりました。

灼熱のカリフォルニアの夕日が沈む中、THE GHOST INSIDE の5人のメンバーはザ・シュラインのステージの袖で待機していました。そして、ステージのPAからナレーションが響き渡ります。”今夜ここにいるみんながいなければ、僕たちは負けていたかもしれないよ…”

ザ・シュラインが開場すると、多くのファンがステージ前の柵ではなく、メッセージを書くための巨大な TGI バナーにまっしぐらに向かいました。ファンの多くはショーへの応援メッセージを書き、さらに自分の苦難や困難に立ち向かう力と勇気をくれたバンドに感謝の言葉を記していきました。

ジムは「そうした言葉やメッセージを耳にしたり読んだりすると――僕たちはすべてを見ている――このバンドがどれほど力強く、僕たち5人よりもはるかに大きな存在であるか気づく」と感謝の気持ちを露わにします。

観客の中にはヨーロッパ、オーストラリア、日本から訪れたファンたちも集まっていました。言語の壁をものともせず、見知らぬ者同士を結びつける共通の感情が、空気を震わせていたのです。

アンドリューも、再びドラムセットの前に立つようになった最大の動機は、回復の最も暗い時期を乗り越えることができたファンたちの多大なサポートに報いることだったと語っています。

「彼らがいなかったら、僕は今どこにいたか正直わからない」

「僕たちの歌詞が彼らの命を救ったと言う意味が、ようやくわかった」とジョナサンは語ります。「今では、彼らの気持ちがよくわかるよ。回復過程を通して、僕はみんなから “君の力強い言葉が、僕の人生を助けてくれた” と何度も言われたんだ。不思議なことに、それはまるで予感のようなもので、まるで、自分が知らず知らずのうちに、未来の自分自身のためにそうした言葉、そうしたフレーズ、そうした曲を書いたかのようだった。そして数年後に、この恐ろしい出来事に直面した時、僕は自分のその言葉を見て “僕は未来の自分に “できる” と伝えていると考えたんだ。このバンドの言葉から力を得た人はたくさんいるけど、今や自分そうしなければならなくなった。まるで、いつか必要になることを知っていたかのように、人生の後に見つけるために、THE GHOST INSIDE の曲を自分自身のために書いたようなものだったんだ。このバンドは常に何かを象徴してきた。もし僕たちが、長年 THE GHOST INSIDE としてファンに売り込んできた “ポジティブさを説き、最も苦しい瞬間から立ち上がり戦うことができるというメッセージを伝えるバンド” として、その期待に応えられるのか?それとも、僕たちはただ嘘をついていたのか?」

“感謝” は、事故によって世界観が変わったことを表現するために、メンバー全員が真っ先に口にする言葉です。彼らはもはや、与えられた人生や機会を当然のこととして、夢遊病のように日々を過ごしているわけではありません。アンドリューはこう振り返ります。

「若く、バンドのメンバーで、夢のような生活を送っていた。自分は無敵だと思っていた。それはまさに警鐘だった…でもあの事故が僕らのバンドを打ち負かすことは、受け入れがたいことだよ。もしいつか解散するとしても、僕たちは悲劇的な出来事のためにではなく、自分たちの意思でバンドを解散したいんだよ」

「突然、自分はいつでもこの世を去る可能性があることに気づく」とジムがつけたします。「明日は約束されていないから、今日を生きなければならないと」

かつてのように地理的に近い距離にはいないかもしれませんが、5人は、何があっても、何らかの形で一生、彼らを結びつける、お互いへの愛と尊敬の念を捧げています。

「このショーは、一つのドアが閉まり、別のドアが開いたようなものだ。今夜を境に、”カムバック” ではなく、ただ THE GHOST INSIDE に戻るだけだから」



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