宇宙を「縫い合わせる」ことができたら?
ミニサイズの宇宙同士をワームホールという時空トンネルでつなぎ合わせる――まるで布切れを針と糸で縫うような――奇想天外な発想が、量子の世界を理解する新たな鍵になるかもしれません。
アメリカのハーバード大学で行われた研究によって、3次元の重力理論モデル内で複数の小さな宇宙をワームホールで“縫い合わせ”たところ量子論の姿が自然に浮かび上がってくることがわかりました。
新理論の中から既存の理論が自然に導出される現象は、新理論の妥当性を示す指標の1つになります。
これは、本来なら非常に複雑な数式計算を要する問題を、あたかも裁縫のパターンを見るかのように直感的に読み解ける可能性を示す成果です。
研究内容の詳細は2025年4月23日に『arXiv』にて発表されました。
目次
- 世界終末の壁と壁を縫い合わせる
- ワームホールで宇宙を縫い合わせる新理論から量子論が自然に浮かび上がる
- 多境界モデルが示した平均の奇跡
世界終末の壁と壁を縫い合わせる
物質の縁(エッジ)や開いた弦の端など、「境界」を持つ物理系は理論的にも興味深い対象ですが、それを扱う境界付き量子場理論(BCFT)は計算が難解になることで知られています。
量子場理論は2次元の場の理論に境界条件を課したもので、統計物理の臨界現象から弦理論まで幅広く応用されています。
従来、このような境界を持つ量子系は、重力理論を用いて記述するホログラフィックなアプローチでも研究されてきました。
代表例としてよく挙げられるのが、2011年に提案された 「反ドジッター空間と境界付き共形場理論の対応(AdS/BCFT対応)」 です。
「反ドジッター空間と境界付き共形場理論の対応(AdS/BCFT対応)」は、ざっくり言えば「重力の世界を、よりシンプルな量子の世界に置き換えて眺める方法」の一つです。
まず“反ドジッター空間”とは、宇宙が内側へとわずかに湾曲している巨大なボウルのような三次元空間を想像してください。
普通なら、このボウルは果てしなく続きますが、対応理論では途中に「エンド・オブ・ザ・ワールドブレーン(EOWブレーン)」という仕切り板を置いてボウルを切り取ります。
仕切り板より奥にはもう空間がありません。
このとき不思議なことに、仕切り板の表面――つまりボウルの端――に描かれる量子の絵(境界付き共形場理論)が、ボウル内部の重力の振る舞いと一対一で対応するようになります。
重力の難しい計算をしなくても、仕切り板の上で起こる量子現象を調べるだけで、内部の重力や時空のゆがみを言い当てられるわけです。
たとえるなら、巨大なミラーボールの内側に立っているとき、ボールの内壁に映った模様を見るだけで、その中で起きている立体的なショーの内容をそっくり把握できるようなものです。
境界(壁)をわざと作ることで「映像」がよりクリアになり、複雑な三次元のドラマを二次元のスクリーンで簡単に読む――それがAdS/BCFT対応の要点です。
つまり重力を記述する反ドジッター空間が 「EOWブレーン」 という境界で途切れ、その境界に量子側では対応する量子場理論が存在するという関係です。
単一の境界を持つ場合(1つのミニ宇宙と1つの終末壁ブレーン)については、この反ドジッター時空/境界付き共形場理論対応モデルが驚くほどよく機能し、2次元共形場理論(CFT)のブートストラップ計算で得られる結果を再現できることが報告されていました。
では複数の境界を持つ場合はどうでしょうか。
複数の異なる「端」を持つ量子場理論(複数のBCFT)同士が、重力側の時空でワームホールによって繋がっているような状況を考えると何が起きるのでしょうか?
近年、重力理論におけるワームホール(時空を繋ぐ抜け道)は、量子論側の複数の系の統計的な平均を表現している可能性が指摘されてきました。
例えば、ブラックホールの情報問題に関連して、ある重力モデルのワームホール寄与が場の理論側の多数の状態の平均と対応する、といった研究が注目を集めています。
今回の研究チームは、この「ワームホール=多数の量子系の平均」というパラダイムを境界付きの場の理論に拡張できるかを探ることを目的としました。
言い換えれば、複数のミニ宇宙をワームホールで繋いだら、各宇宙の境界に対応するBCFTの振る舞いを一度に平均的に読み解けるのではないか――この大胆な問いに取り組んだのです。
ワームホールで宇宙を縫い合わせる新理論から量子論が自然に浮かび上がる

研究チームはまず、三次元の重力理論モデルの中に「ミニ宇宙」を作り出し、それらをワームホールで繋ぐ理論的実験を行いました。
重力側の舞台は反ドジッター時空で、そこに次のような要素を導入しています。
円錐欠陥は、三次元空間内に存在する点状の重い粒子が作り出す円錐形の歪みで、境界付き共形場理論における内部演算子同士を繋ぐ役割に相当します。
エンド・オブ・ザ・ワールドブレーン(EOWブレーン)は、三次元空間がそこで途切れる境界となる膜状の「壁」で、張力がある場合と無い場合の両ケースが考えられ、境界付き共形場理論では同一の境界条件を持つ複数の端点同士を繋ぐ役割を果たします。
キンクは、EOWブレーン上に生じる一次元の欠陥で、ブレーンに角張った折れ目やひずみがある部分であり、境界付き共形場理論では境界上の演算子同士を結び付けるものに対応します。
パンクチャーは点状の欠陥で、円錐欠陥がEOWブレーンに突き当たって終わる位置にあたり、裁縫で言えば針が布に刺さる点に相当し、ブレーン(布)と円錐欠陥(糸)の接点となります。
簡単に言えば、ワームホールという「時空のトンネル」を使って、いわば針と糸で布を縫い合わせるように、二つの小さな三次元宇宙をくっつけるわけです。
それぞれの宇宙の端にはEOWブレーンという境界(布でいう「ふち」)が付いています。
この比喩では、布切れが「小さな三次元宇宙」、布の端が「EOWブレーン」、そして縫い糸が「ワームホール」に対応します。
糸(ワームホール)は時に布を貫いて穴(パンクチャー)を開けながら、別の布の端へと抜けてゆきます。
こうして出来上がった“宇宙のパッチワーク”を眺めると、本来なら量子論の難解な数式を駆使して計算しなければならない「境界付き共形場理論の平均的な振る舞い」が、幾何学的な裁縫パターンを見るだけで直感的に読み取れるようになるのです。
実際、研究チームが構成したこの三次元ワームホール解を詳しく解析したところ、そこから計算される量(例えば相関関数やエントロピーなど)が多数の境界付き共形場理論のデータを統計的に平均した場合の振る舞いとぴったり一致することが示されました。
重力側(ワームホール側)の幾何学から得られた統計的モーメント(平均値や分散など)は、二次元の共形ブートストラップ理論によって予言されていたデータの普遍的な漸近挙動と同じ数式を再現しています。
言い換えれば、ワームホールで縫い合わされた空間の幾何学的情報だけで、境界付き共形場理論に現れるさまざまな物理量の平均的な値を読み解くことができ、その結果は既知の理論的予想とも合致したのです。
多境界モデルが示した平均の奇跡

この研究は、これまで単一の境界系でしか確立されていなかった重力−量子系対応(AdS/BCFT)を大きく拡張し、複数の境界を含む量子場理論に対してもワームホールによる統計平均の描像が成り立つ可能性を示しました。
重力の古典的なワームホール解に円錐欠陥やエンド・オブ・ザ・ワールドブレーン(EOWブレーン)、キンク、パンクチャーといった要素を組み込むことで、量子場理論側の統計集合の振る舞いをバルク(重力側)で実現しうることを具体的に示した意義は大きいでしょう。
興味深いことに、こうした「宇宙のパッチワーク」による平均化が何でもかんでも可能というわけではないことも明らかになりました。
研究チームは解析の中で、ある種の物理量についてはワームホールを用いた統計平均には乗らない(再現されない)ことを示しています。
その代表例が g 関数(境界エントロピー)と呼ばれる量で、これは境界の自由度の大きさを表す指標ですが、g 関数はワームホールを繋いでも変動せず一定のままでした。
言い換えれば、ワームホールを駆使しても各宇宙の境界が持つ個性(エントロピー)は消えず、重力による平均化には限界があることを示唆しています。
実際、この g 関数の振る舞いについて重力側と境界付き共形場理論側で完全に一致する依存関係が確認されており、これはブレーン(境界)の持つトポロジー(位相的性質)によって説明できます。
ブレーンに張力を加えると空間に楔形の領域が増減して幾何学が変化しますが、そのとき重力作用(アクション)の変化はブレーンの位相的な特徴(穴の数や繋がり方)によって決まり、形状の細部には依存しないというトポロジカルな関係が見いだされました。
この性質のおかげで三次元重力側と二次元の境界付き共形場理論側の g 関数が一致し、さらにこのことから「シュレンカー=ウィッテンの定理」と呼ばれる重力理論の有名な主張に対応する結果(その境界付き場の理論版)が自然に導かれるとも述べられています。
シュレンカー=ウィッテンの定理とは「ブラックホール閾値以下の状態には統計平均は効かない」という内容のもので、今回の結果はその境界付き場の理論版に相当します。
つまり、境界の寄与に関しては平均化ができず、個々の理論で不変な量が存在するという深い洞察を与えてくれます。
本研究で提案された“宇宙を縫い合わせる”アプローチは、量子重力理論と場の理論の幾何学的な調和を象徴するものです。
一見奇抜に思えるワームホールによる宇宙のパッチワークですが、そこから読み取れる物理は従来の数理解析としっかり符合しており、難解だった計算を幾何学から解釈する道を拓きました。
今後、この手法がより高次元の時空や他の物理現象にも応用できるのか、あるいは今回明らかになった平均化できない不変量がどのような役割を果たすのかなど、解明すべき課題は残されています。
しかしながら、「ミニ宇宙をワームホールで縫う」という発想は、量子と重力の世界をつなぐ新たな一針となり、宇宙の謎に挑む理論物理のタペストリー(綴れ織り模様)に鮮やかな彩りを添えたと言えるでしょう。
元論文
Thermodynamics of coupled time crystals with an application to energy storage
https://doi.org/10.48550/arXiv.2411.04836
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部
🧠 編集部の感想:
この研究は宇宙の理解を一新する可能性を秘めており、ミニ宇宙をワームホールで「縫い合わせる」という比喩が非常に魅力的です。量子論の難解な数式が直感的に理解できるようになる可能性があるのは、科学の進歩を感じさせます。今後、この新理論が他の物理現象にもどのように応用されるのか期待が高まります。
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