🧠 あらすじと概要:
映画「人生タクシー」のあらすじと要約
あらすじ
「人生タクシー」は、アゼルバイジャン系イラン人監督ジャファル・パナヒが、自ら運転手となり、タクシーの車内で偶然乗り合わせた乗客とのやり取りを撮影したドキュフィクションです。物語は、現代のテヘランにおける市民の日常や体制への不満を描写し、映画というメディアを通じてイランの現実を世界に伝えようとしています。乗客のエピソードを通じて、パナヒ監督はリーダーシップや自由の欠如についての考察を行います。
記事の要約
この記事では、映画「人生タクシー」の監督であるジャファル・パナヒの背景や、作品の創作手法について詳しく述べられています。パナヒ監督は、政権からの圧力や禁止を受けながらも、自身の作品を製作しています。この映画では、乗客とのやりとりを通じて、テヘラン市民の苦悩や反体制的な視点が表現されています。また、パナヒ監督の姪が登場し、政府の制約についても触れられます。記事では、邦題に対する批判や、映画の政治的メッセージの重要性について強調されており、作品が持つ深い意味を解明しています。全体として、政治と表現の関係性について考えさせる内容となっています。
今年度のパルム・ドールを受賞した作品「シンプル・アクシデント」の監督は、アゼルバイジャン系イラン人のジャファル・パナヒだ。これによって世界三大映画祭と呼ばれる、ベルリン、カンヌ、ヴェネツィアの映画祭で最高賞を獲得したことになるのだが、どうしてもイラン人の映画監督は、映画としての価値よりも”政治的”な側面を強調されてしまう。パナヒ監督もまた2010年に映画の制作や出国を禁じられてしまい、当局とすったもんだをしながら、勝手に”映像作品”を作っては海外で公開するという生活を送っている。パナヒ監督は2015年、シェア・タクシーの車内にカメラを設置して自らが運転手となり、カメラに映り込んだものを作品とした「人生タクシー」をベルリン国際映画祭でプレミア上映し、見事に金熊賞(最高賞)に輝いた。俳優を使わず、たまたま乗ってきた客とのやりとりだから映画には当たらないという体裁である。こういう手法をドキュフィクション(docufiction)と呼ぶ。では、パナヒ監督がこの作品で目指したものは何かといえば、現代のテヘランの市民たちが抱えている体制への不満や、ありのままの生活を世界に向けて発信することである。だから、ひとりひとりの乗客には”政治的”な意味がある。もちろん打ち合わせもなくこのようなことは不可能に決まっているのだが、しかしこれはあくまでも”勝手に乗ってきた客”だと言い逃れができる。もちろんイラン国内では上映許可が下りなかったそうだ。
さて、タクシー運転手と乗客とのやりとりを通してイランを風刺するという手口は、パナヒ監督が若い頃に協業していたアッバス・キアロスタミ監督へのオマージュである。特に1997年のパルム・ドール受賞作「桜桃の味」そのものだ。
しかし「桜桃の味」のように俳優を起用して映画にする訳にはいかないので、本作での運転手はパナヒ監督自身である。それに「桜桃の味」では民族の差などを通じて、表現するということと政治の間の緊張が仄めかされているのに対し、本作でパナヒ監督はテヘラン市民たちの”具体的”なエピソードを数多く紹介する。微罪でも死刑になることを恐れていたり、それゆえに強盗に遭っても相手が顔見知りなら通報しづらいこと、海外の映画を観たり音楽を聴くための海賊版の業者が街のあちこちにいることなど、ありのままのテヘランが”演じられ”、あるいは映し出されている。本作の途中から登場するパナヒ監督の姪のハナちゃんがとにかく可愛らしい。学校の授業で”映画”を制作していると語るハナちゃんとパナヒ監督の会話を通して、イラン当局が何を映してほしくないのかということが説明され、そのような政府の主張は奇妙なものだと観客に伝えている。金熊賞をパナヒ監督の代理で受け取ったのはハナちゃんである。本作の終盤にタクシーに”たまたま乗車”してくるのは、イランで人権を守るために活動している弁護士ナスリーン・ソトゥーデだ。政府に対して女の権利を求めてハンガー・ストライキをしているゴンチェ・ガヴァミを見舞いに向かうところだと言う。そして本作の最後に、この車載カメラは強盗か、あるいは政府のエージェントなのか分からないが、何者かによって持ち去られそうになり、ブラックアウトしたところで幕を下ろす。もちろんこれが”演技”なのか、本当に起きたことなのか、パナヒ監督と一部の者しか知り得ないことだ。こういう作品は、映画というメディアの本質を突いている。劇中でもハナちゃんがカメラで撮影しているパナヒ監督の映像が使用されていたように、誰かが何かを撮影するということは、映っているものがあたかも演技、すなわち仕込んだことのように見える。いわゆる映画であれば、全て演技、ウソである。ではパナヒ監督の車載カメラは全て演技ではないと言えるだろうか。また、世の中でドキュメンタリーと称している映像作品には、仕込みが全くないのだろうか。だから本作はフェデリコ・フェリーニ監督の「8½」のパロディのようにも見える。パナヒ監督の車載カメラにハナちゃんが映っており、そのハナちゃんの構えるカメラに映るパナヒ監督の映像が本作として使用されている。つまり、映画の制作現場を映しているようなものだ。このようなドキュフィクションというものは、映すものがフィクションであると分かりきっているモキュメンタリー(mockumentary)とは異なる。なぜなら、映っているものは”演技ではない”という体裁だからだ。そのことによって、テヘランの本当の姿を世界の人たちに知ってほしいというパナヒ監督による映像作品である。だから本作の邦題を「人生タクシー」にして、ナントカカントカの人生讃歌!というキャッチフレーズを付けた関係者は全員映画に関わることをやめた方が良い。これは体制を批判するための真面目な映像であり、人生讃歌という単語から連想される要素は全く無い。自称映画ライターたちも記事やブログなどでそのキャッチフレーズをそのままコピペ(流用)していて、実に香ばしい業界である。
この列島の映画会社に言いたいことは、くだらない邦題を付けると観客に迷惑にかけることになるのだから、とにかく英題を直訳しておけということだ。本作ならば「ジャファル・パナヒのタクシー」あるいは「タクシー・テヘラン」で良いのだ。
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