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概要
この記事は、INFOBARとiPhoneを通じて、デザインの意味と変化を考察しています。INFOBARの登場がもたらした衝撃と、それに続くiPhoneの出現がいかにしてデザインの概念を変えたのかが語られています。著者は、デザインが単なる視覚的な美しさから「体験」や「使われ方」に重要性が移ったことを強調し、今後のデザインにおける問い直しが必要であると述べています。
要約ポイント
- INFOBARが登場した時、自分の中でのデザインの意味が変わった。
- INFOBARは「思想や文化を表現するデザイン」として衝撃を与えた。
- INFOBAR2への期待が薄れる中、時代はiPhoneに移行していった。
- iPhoneは「未来を反映したデザイン」で、体験を重視した。
- INFOBAR xvの登場には懐古的な失望感を抱いた。
- iPhoneはデザインの理念を「見た目」から「体験」に変えた。
- UX(ユーザー体験)主義が全業界に広がり、デザインは体験価値の提供へシフト。
- 企業は過去の延長線を見ても進化できず、新しい未来を提示したiPhoneに遅れを取った。
- デザインは「未来のための問い」であり、過去の美しさに頼るだけではない。
- デザインの本質は、答えを出すことではなく、問いを立てることである。
プロ雑用です。
先日SNS上でINFOBARに関する話題を見かけまして、ふと、デザインについてちょっと考えてみました。
INFOBARと出会った日、僕は“思想”を持ち歩いていた
INFOBARを初めて見たとき、とても衝撃を受けたことを覚えています。ケータイって、こんなに美しくなるの?無機質で機能的で、どこか画一的だった携帯電話の世界に、あの“野心の塊”、そして一連のデザインプロジェクトが現れたとき、僕は本気で「時代が変わった」と感じたのでした。
当時、au design projectという取り組みは、それまでの“機能競争”に疲れた僕らに対して、まったく別の価値を提示してきました。それは「使いやすさ」でも「スペックの高さ」でもない。もっと言えば「便利さ」ですらないかもしれない…。“デザインを通じて、思想や文化を表現する”─そんな空気がそこには確かにあったんですよ。
その衝撃から興奮冷めやらぬ当時の僕は、INFOBAR「ICHIMATSU」を手に入れるべく奔走したのでした。発売日には、何店舗も電器店を回ったりして、結局ネットショップに残った僅かな在庫を手に入れたのですが、手にしたその日から、何度も取り出して眺めていました。当時から、メールも電話もあまりしなかった。でも、持っているだけで嬉しかったし、なにやら誇ろらしかったのです。
「これは、感性の表現なんだ」とさえ思っていた。ちょっとしたアイデンティティのように、INFOBARをポケットに入れていたんですよね。今となっては懐かしい。
INFOBAR2、そして静かに終わっていった熱
INFOBAR2が発売されたとき、迷わず買い替えました。あの滑らかに湾曲したフォルムは、初代とはまた違った美しさを持っていたんですよね。そしてなにより、「あの感動を、もう一度味わいたい」という期待が強かった。
でも、どこかでちょっと思ってたんですよ。最初のINFOBARほど、心は躍っていないって。生活の中で“あの美しさ”に慣れてしまったのか、それともデザイン以外の部分、たとえば操作性や連携機能が他機種に劣ることを無視できなくなったのか。理由ははっきりしないけれど、あの頃のように、持っているだけで誇らしい─そんな気持ちは、少しずつ薄れていきました。それでも、INFOBAR2は僕にとってまだ特別だった。しかし、もはや時代の流れは”ケータイ”ではなくなりつつあったのですね。
そして、iPhone4で僕は観念した
INFOBAR2を使っていた頃、世の中には「iPhone 3G」が出回り始めていました。正直ちょっと3Gの時点では「む、すごいけど、電話でしょ?まだau design projectのほうが…」って思ってました。いや、思うようにしていたというほうが正しいか。もう時代が変わり始めていることに気づいていたけど、まだちょっとそこに乗り切れない自分。ガジェット好きの知り合いは乗り換えていたけれど、僕はそれを横目で見ながらも、どこかで「まだいい」と自分を納得させていました。
でも2010年にiPhone4が登場したとき、僕はとうとう観念しました。さわった瞬間に感じた「滑らかさ」。指先が、世界と直結するような感覚。何も考えずとも直感で使えるUI。そして、「道具」としての圧倒的な完成度。
INFOBARに感じていた“未来”が、完全に塗り替えられちゃったんですよね。
それは、「ああ、もうガラケーの時代は終わったんだ」と実感する決定的な出来事でした。その時僕は、自分がかつて夢中になった“所有するデザイン”が、時代の主役ではなくなったことを、静かに、でも確実に受け入れたのでした。
懐古主義に陥ったかつての最先端
ときは流れて数年後、すっかりスマートフォンの時代になり、当たり前にみんながiPhoneを持っている時代。INFOBAR15周年モデルの「INFOBAR xv」が発売されました。ニュースで見たとき、「おお、懐かしいな」とは思った。
だけど、それ以上の感情は湧かなかったんですよね。むしろ、自分でも驚くほど、まったく欲しいと思えなかった。
あの色合い、あの形、あの独特のキー配列──たしかに、あれはINFOBARだったのですけど、でもそれは、15年前の熱狂を丁寧に再現しただけのもので、新しい何かではなかった。
もう「持つことで未来を感じられる時代」は、とっくに終わっているのに、これを出してしまうんだ、という軽い失望すら感じました。
スマホの時代、特にiPhoneのもとでは、デザインは“外見”ではなく“体験”にすっかり置き換わっていたわけで。INFOBAR xvを見て、かつての自分が熱狂していた理由が所詮は「見た目」だったことを、痛いほど思い知らされたんですよね。当時は、それでよかった。見た目の“思想”に酔えた時代だったわけですが、でも今は、何ができるのか/どう感じるのかが、すべてを決めてしまう。見た目よりも「体験」。
懐かしいのに、とても遠い存在。
INFOBAR xvは、まるで卒業アルバムのようでした。
なぜiPhoneは勝ち、他の名機たちは消えたのか?
iPhoneが圧倒的だったのは、スペックでも、ブランドでもありません。スペックだけなら他に高いものはあったし、実際、多くのメーカーは「あんなもの」と鼻で笑っていたわけで。しかし、それはデザインの思想の方向性が、完全に違っていたからなんですよね。
BlackBerryも、Nokiaも、VAIOも、CLIEも…みんなその時代の「先端」を走っていたましたよ。物理キーボードにこだわったBlackBerry。先進的だったNokiaのSymbian。スタイリッシュで軽快だったVAIOや、手書き文化を支えたCLIE。ガジェット好きなら一度は憧れ手に入れたそんな名機たち。どれも、「今ある世界を少しずつ良くしていく」努力を重ねていた名機たち。
でも、Appleは、ジョブズは違っていた。iPhoneは、「未来はこうあるべきだ」という前提から逆算して、すべてを組み立てられたもの。僕たちが知らなかった“当たり前”を、まるで最初からそれが正解だったかのように提示してきたのがiPhoneだったわけで。一枚ガラスのディスプレイ。アプリという新しい体験の単位。指一本で操れる直感性。「今の不便を解消する」ではなく、「もっとこうありたい」という理想像が、iPhoneの哲学。
そう考えると、INFOBARをはじめとする名機たちは、“過去の感性の延長線”をなぞっていただけのように思う。美しさや個性があれば、それが未来だと思えていた、ある種、牧歌的な思想。でも、その美しさは、どこかで「機能」と「体験」とは切り離されていたんですね。
結果として、iPhoneだけが「体験として完結するデザイン」を実現した。そしてその世界観に、僕たちは何の抵抗もなく、吸い込まれていったというわけでして。
iPhoneは”デザイン”の概念すら変えてしまった
ただ“美しい”は過ぎ去った
iPhoneが登場した2007年以降、デザインの意味は静かに、でも確実に変わっていきました。かつては“かたち”や”みため”こそがデザインだった。色、フォルム、素材。けれど今、デザインとは「感じ方」「使われ方」「繰り返したくなる心地よさ」にも広がっています。
「見た目が美しい」は、もう主役ではない。いかに“心地よい体験”を提供できるか。それがすべてを左右する時代に、切り替わっちゃた。
全業界に伝播した「UX主義」
これはケータイ電話だけの話じゃない。Webデザインもそう。フラッシュ全盛期の「派手さ重視」から、今は「素早く、迷わず、使える」が評価される。ファッションもそう。ユニクロや無印が愛されるのは、使う体験まで含めて“ちょうどいい”からでしょ。車だってそう。Teslaは、もはや「デジタルガジェットとしての車」として語られる。家具や家電でも、“シンプルで空間に溶け込む体験”が支持されるようになった。
すべての産業が、「モノの良さ」から「体験のデザイン」へと軸を移している。これはiPhoneがもたらした、文化的地殻変動だと思うのですよ。もちろん、iPhoneだけじゃなくて高速通信網が整備された、というのも大きいけど、そういうのも含めてiPhoneが震源だったことには異論はないでしょう。
企業がハマった“バックミラー思考”
じゃあ、なぜ他の企業は追いつけなかったのか?
それは多くは「今の延長線」しか見ていなかったから。それまでの常識を少しずつ改良して、スペックや価格で勝負する発想。それを“バックミラー思考”と言います。そしてiPhoneは“バックキャスト思考”でした。
「未来はこうあるべき」と理想像を定義し、そこから現在を設計する。その姿勢の違いが、数年後には圧倒的な体験差となって現れたわけです。iPodが出た時点でも、誰も気付けなかったんだよな、この思考の違いに。
あなたの仕事にもある“体験設計”の盲点
でもこの話、スマホメーカーだけのことじゃない。僕たちの働き方や日常業務にも、まったく同じ構造があるんですよ。
たとえば、業務改善。
「今の作業をいかに自動化するか」がバックミラー思考。「そもそもこの業務は何のためにあるのか?」から再設計するのがバックキャスト思考。
資料作りもそう。
「わかりやすい構成」「整ったデザイン」ではなく、「読み手がどう感じ、どう動くか」を考え抜いた資料は、体験設計そのものです。
プレゼンも、会議の段取りも、メールの書き方も、全部「体験」で差がついているんですよ、今の時代は。
すべてのビジネスは「体験価値ビジネス」になった
結局のところ、僕たちの仕事もまた「デザイン」なんだと思うのですね。かたちじゃなくて、関係性や流れや空気を、どう“編集”するか。誰かの目線に立ち、感情を想像し、行動を促す。
iPhoneはそれを、誰よりも早く、誰よりも精密にやってみせた。電話を再発明したのではない。「使う体験」を再発明したといっても過言ではない。
だから僕は、今あらためて思うのです。INFOBARが敗れたのではない。
デザインの意味そのものが、変わってしまったのだと。戦う場所がそもそも変わってしまったのですね。
デザインとは「未来のための問い」
INFOBARに夢中だったあの頃、僕は“未来”を持ち歩いている気がしていた。
その感覚が嘘だったとは思わないけれども、それは“過去の美しさを信じる未来”だったように思います。
いまの時代、僕たちが考えなくてはならないのは、「今をどれだけ磨くか」だけではなく「どんな未来をつくるか」なんですよね。
デザインの本質とは、答えをつくることじゃない。問いを立てることだと最近よく思います。そういう意味では、デザインという言葉の意味は「アート」に近づいているとすら感じるのです。そしてその問いは、「誰の、どんな体験をどう変えたいか?」「誰に、どんな体験をしてもらいたいか?」というところから生まれてくるものだと思います。
デザインのUIUXのみならず、カスタマーサクセスも、DXも全部そうなんじゃないかな。
僕がINFOBARに熱狂し、iPhoneに堕ち、そして今また「働き方」や「社会の変化」をデザインし直したいと思っているのも、すべて、あの15年の体験の延長線上にあるのではないかと、このを書いていて思いました。
ちなみに今のiPhoneはかつてのバックキャストから、バックミラーになってるよな、とも感じますが、さてこの先どうなるか…
そしてこの記事を読んでいるあなたの中にも、かつての僕のINFOBAR体験に似た経験が、きっとあるのではないかと思います。その感覚こそが、未来のデザインの出発点なのかもしれません。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回も別のネタでお会いしましょう。
それじゃ、また👋
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