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概要
この記事では、スマートフォン依存の影響とその対策について考察しています。著者は、スマートフォンがもたらす利便性が、人々の生活を支配し、時間を無駄にしていることを指摘します。過去の生活様式と比較しながら、スマホが奪った「人との時間」や日常的な脳の使い方の変化についても触れ、依存を脱却する方法について提案しています。
要約
- スマートフォンに依存することで時間が奪われ、生活が支配されている。
- スマートフォンの普及により、以前の生活では必要だった人とのコミュニケーションが減少した。
- 記憶力の低下や脳の使い方の変化が懸念される。
- スマートフォンが便利過ぎるため、生活がスマホ基準になり時間を浪費する。
- 依存症状として、睡眠不足やコミュニケーションの減少が挙げられる。
- スマホ依存を脱却するためには、ロック画面を工夫する、SNSアプリを削除する、PCでの利用を試みるなどの方法が有効。
- 過去の生活様式を見つめ直すことが、依存を減らす手助けとなる。
時間がとにかく奪われる。
これに尽きる。
と、一言で終わらせても良いのだが、ではどうすればスマホ依存から脱却できるかを考えたため、記事にしたみたいと思う。
おそらく色々な人に共通すると思うのだが、ふと思い出す「スマホがない時ってどう生活していたっけ」という疑問。
スマホが生活に馴染みすぎていて、それがない生活を想像できなくなってしまっているのである。
しかしこれは仕方がない側面もある。
当初スマホの元祖となるiPhoneはあくまで「iPodを携帯電話として使う」という目的のもと2000年に構想、開発されたものだった。
スティーブ・ジョブズ自身はiPodに注力している最中であったため、iPhone(開発初期はApple Phoneという名前だった)の開発に及び腰だったらしい(Apple Phoneの開発を提案したフランス人ソフトウェアエンジニアに説得された)。
その後試行錯誤の末に、2007年iPhoneが正式にリリースされた。
iPod touchの機能に携帯電話としての機能、通信デバイスとしての機能を取り付けたiPhoneはアメリカだけなく、世界中で話題を呼び、後継機を含め持っていることがステータスになるほど人々の間で浸透している。
時間確認、予定調整、メールなどの連絡手段、SNS、ゲーム、買い物、預貯金、ギャンブルなど、元々今で言うガラケーやPC、それ以外で行っていたものが、おしなべてスマホでできるようになってしまった。
するとどうなるだろう。
スマホの利便性に逆らえず、スマホなしでは生きていけなくなるのである。
生活をスマホに握られていると言ってもいい。
それでもスマホが手放せない。
これこそが依存だ。
そして、自分達がスマホなしでどう生きてきたのかが思い出せなくなっていくのである。
スマホがない生活をどうしていたかを思い出せない場合でも、事実としてはわかることもある。
よくテレビのバラエティで、昭和の生活と平成・令和の生活を比較してみたなんて企画が行われている(似たようなことをずっとやっているので、もうテレビ見る人が限られてきたことをテレビ側もわかってるような番組作りだ)。
こういうものを見ていると、携帯電話がない時代、何か予定を決める時は対面か家にある黒電話で行っていたと必ず説明される。
時代に合わないことを前提で言うが、これはこれで理に適っていたのではと思う。
スマホで個人の世界を作れるようになってしまった現代人にとって、必要なくなったものの一つに「人との時間」がある。
もちろん人それぞれで、人といないとダメな人もいれば、一人でも平気という人もいる。しかし、他人と歩調を合わせて生きるということが、昔よりも生活に密接に結びつかなくなった。
さらに、コロナによるおうち時間がそれを加速させた。
陰謀論を疑いたくなるほど、現代の病巣を大きくするような出来事だった。
弊害はコミュニケーションだけではない。
ガラケーが世に出るまで、相手の連絡先をどう保存していたのかというと、記憶に頼っていた。
特に連絡手段が電話しかない子供時代は、電話をかけ続けているうちに友達の家の電話番号を覚えたなんてこともあっただろう。
それが今の子供にはない。
スマホ以前にガラケーでも同様のことが言えただろうが、わざわざ電話番号を覚えずとも少し検索すればすぐに電話番号は出てくるし、スマホでは、LINEなどのメッセージアプリを使えばそもそも電話番号さえ必要ない。
これが何をもたらしたかといえば、日常における脳の使い方の変化である。
何かを覚えるという行為は、脳の活性化にも一役買うことはよく知られた話である(もちろん睡眠や食事運動と相関しての結果だが)。
何かを覚えるという作業は仕事でも何にでも起こりうることだが、スマホがないだけで覚えなければならないことが爆増する。
私はそれを脳のために、是とする。
あくまで例として二つ挙げたが、スマホがない時代に行っていたことは人として生きるために必要なことではなかったのか。
それをスマホが便利という言葉を巧みに使って奪ってしまったのではないかと思ってしまう。
最後に私がこの記事で一番言及したいことがある。
冒頭でも述べたが「時間を無駄にする」ということである。
先述したスマホの利便性は、片手に収まる板一枚で時間を無限に潰すことができるコンテンツを量産した。
それがSNSや動画サイト、ゲームなど多岐に渡る。
すでに研究され尽くしているとも言えるのが、脳の報酬系にスマホが作用してしまう点だ。いわゆるドーパミンというやつである。
一瞬の楽しさを得るためにスマホを手に取ると、ドーパミンが分泌される。ここまでは良い。なぜならドーパミンは多幸感を生み出す神経でもあるため、それ自体は悪いことではない。
問題なのは、抑制する意思がなければ時間を忘れて触ってしまう。いわゆる依存だ。
ドーパミンはこの二面性があるため、スマホの自由な使用に待ったがかけられるのである。
実際、20年ほど前に提唱されていた「ゲーム脳」というものもスマホ依存と同じ依存症の症状だ。
依存は明確に脳を破壊すると証明されている。
もちろん専門用語で「依存」と使うと、それは日常生活にも支障が出る(苦痛を感じる)レベルなのだが、たとえば「睡眠時間が極端に減る」「人の話を聞くより先にスマホのことを考えてしまう」などが起きれば、それは立派な依存症だ。
ちなみにSNSを扱う上でよく話題に出る「承認欲求」という言葉だが、実際には「LINEやSNSの通知が来ていないかふと確認する」という行為も承認欲求に当たる。
ここまで見てきて、何が言えるか。
スマホはできることが増えすぎた、ということである。
スマホで何でもできるようになると、自分の生活がスマホ基準になっていく。
だから、何かあるたびにスマホを手にとって、結果スマホを触っているうちに時間を潰してしまうのである。
ではどうすればスマホ依存を脱却できるか。
シンプルな考えだが、スマホを触ることを諦めるのが良いと思う。
私の友人が試していたことだが、自分でも覚えられないような長いパスコードをロック画面にかけておくのである。
もちろん開かなくなってしまったら、連絡手段さえなくなるのが現代であるためメモには残しておく。
しかし、そのメモを自分の手の届くところに置いておくとロックをしておく意味がないため、家の中の見つけにくい場所に置いておけば良い。
この一手間がスマホ依存に待ったをかけるのである。
他にはスマホで行っていたことの代替手段を考える。
たとえばSNSはアカウントだけ残してアプリを全て消すのである。
どこで開くかというとPCだ。
そして、PCでSNSを開くとき必ずログアウトした状態から始めるのである。IDやパスワードの入力をする必要があるからだ。
そして、ゲームの類もスマホでできるものがコンシューマ化され、テレビゲームでできるものも増えたため、スマホのゲームアプリも削除するのである。しかし、中にはスマホでしかできないものもあるだろう。
そういった時はPCで行うのである。
スマホのゲームは、PCでアプリをインストールすればできるものもある(できないものは諦めるしかない)ため、ゲームの役割をPCに原点回帰させる。
他にも電子書籍は紙の本を読むようにする。
動画サイトもPCで開くようにする。
tiktokやインスタグラムで何か投稿したいのなら、写真や動画を撮った後時間を空けてから投稿するなど、一つ一つの作業を区切りをつけて行うのも依存を止める手立てだろう。
ファッションの世界では時々リバイバルブームが起きる。
それと同じように、生活様式も今一度過去に立ち返ってみて、そこからどれだけスマホに依存しているかを見つめ直すのも、人生の楽しみの一つになるのではないだろうか。
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