🧠 あらすじと概要:
あらすじ
映画『コナン考東(京)ベルリン市民』は、名探偵コナンの新たな冒険を描いています。物語は、コナンが様々な謎を解きながら、京とベルリンを舞台にした複雑な事件に挑む様子を中心に展開されます。コナンは印象的なガジェットや超人的なアクションを駆使しつつ、忙しく動き回る登場人物たちと共に、事件の真相に迫っていきます。映画は、駆け引きやサスペンスに満ちたストーリーの中で、友情や自己犠牲のテーマを描きつつ進みます。
記事の要約
記事では、著者が休日に映画を観ることになった背景や、コナンシリーズに対する个人的な思いを振り返ります。著者は、作品の中での楽しさやテンポの良さ、登場人物たちの忙しい出入りを評価し、昭和のマンガのようなエンターテイメント性を称賛しています。また、現代社会における倫理や規範についても言及し、自己犠牲や違法行為の正当化といったテーマが映画にそもそも存在することの意義について考察しています。最後に、エンターテイメントが持つ社会的メッセージについても触れ、大人としての責任や表現の重要性を再確認しています。
休日、月初来の気象性の頭痛でなんもやる気が起こらず、このまま孤独死を迎える恐怖に煽られて劇場予約して無理やり外出した。
中学か高校の時に『YAIBA』を買って読んで、後にコナンくんのアニメが始まって喜んだ。しばらく試聴していたけど根本の謎がいつまでも解決されないし、設定が無理(子供でも分かる製品の機構が不適切、能力値高すぎ、現象としてあり得ない)で脱落した。
自分はそうだったが、時を置かず映画は公開されるしアニメも長寿で不思議だった。東浩紀をゲストに迎えた「山田玲司のヤングサンデー」で、R指定が無関係で休日の家族が安心して見られる番組だと話されていて、そういうのも大事なんだと思い知らされた。(筆者は鉄壁のシングルマン)
さて本題。リタイアした者に厳しい今作までの流れがあり、エンドロール後にさらに含みを持たせた演出があり、筆者は頭を抱えた。本編中もお馴染みのガジェットとコナンくんの超人的アクション、機器や装置類の貧弱な表現、登場人物が忙しく出入りしての大人たち(本来は大人のキャラも含む)の全員がそれぞれネタ明かしに参加するなど、昭和の「マンガやん!」な(揶揄する例えとして用いられた)はちゃめちゃで手に汗握ってドキドキできる楽しい映画だった。
マンガ側の人たちにとっては、これは希望だろうと思う。熟達した神がかりな描写でなくても、筋が良くて読者/視聴者を楽しませられたら正解ってのはある。展開が忙しくて一回では全人物の名前や、どこでどの発言/行動をしたか覚え切らない目まぐるしい展開も、最終的に回収されて大団円(大円団は誤りです)なら正義なのではないか。
そのことよりも、筆者のテイストで気になるところ。それは、戦後の短期間ながら伝統的なロマンティックラブ、自己犠牲、悪を成敗するためには違法行為が許される場合がある演出、などである。そもそもメルモちゃんの亜種のような子供になるクスリ(毒と表現される)から始まるファンタジー作品なので、そこはいい大人なら黙っておくべきなんかな。
令和において、近代までの家族は文字通り昔話で子供を持つことすら非現実的な可処分所得しかなく、結婚自体が難しくなり生涯未婚率は上昇し続けている。
90年代からの自己責任論は、個人の自律的な社会参加としながら他者への関心も献身も奪って、行政が謳う共生社会とは真逆の利己主義的な行動を促した。これには、不当に搾取されてきた主従関係など構造的な問題に焦点が当てられ社会問題化した良い側面もあったと思う。
3点目の必要悪については、かつてならば近隣や身内などの卑近な範囲に留まる不文律の制裁が拡大し、SNSの後押しを受けて「〇〇警察」として突如として無関係の第三者から公開処刑される例がある。
エンターテイメントを構成する要素として、知らず知らずのうちに伝わってしまう規範だとか社会の有り様はあると思うので、「大人たちの指導が必要」な表現作品というのは、グロいとかエロい作品ばかりではないと思うんよね。
日常で、この人たちは男女で恋愛してるけど君は好きになった人を大切にすればいいんだよ、銃火器を使う時は操作だけじゃなくて社会的な取り扱いにも気をつけるんだよ、そんな風に言わずとも体現できる大人になりたい人生でした(辞世の句)。
『アドレセンス』(Netflix)のような作品を見ると、手放しに「子供のうちは好きにさせて興味を持たせる後押しさえすればいい」というのもにわかに信じられなくなるよね。
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