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いまさら映画感想(19)『ノマドランド』が示す未来の暮らし──所有の不安に人生を左右される時代を超えて──カシオジュクチョー

🧠 あらすじと概要:

あらすじ

映画『ノマドランド』は、主人公ファーンが夫の死と工場の閉鎖により家や職を失い、キャンピングカーでの遊牧民生活を選ぶ姿を描いています。彼女は「ハウスレスなだけで、ホームレスではない」と述べ、自らの生き方を誇りに思っています。旅を通じて出会う仲間たちと共に、自分の居場所を見つけながら生活を再構築していく過程が描かれています。

記事の要約

この映画は「所有すること」の意味を問い直し、私たちの生活を支えるための手段が、いつの間にか人生そのものを決定づける要素になってしまっていることを指摘しています。所有の不安が根付いた社会で、ファーンは持たないことを選び、自らのリズムで生きる「自由」を見出します。映画は、不必要な所有への依存から解放され、自分の生き方を選ぶ力こそが真の安心や豊かさをもたらすことを伝えています。社会全体がこの構造を見直し、持つことと持たないことの両方が尊重されるべき時が来ていると結論づけています。

いまさら映画感想(19)『ノマドランド』が示す未来の暮らし──所有の不安に人生を左右される時代を超えて──カシオジュクチョー

カシオジュクチョー

2025年5月31日 00:08

「所有すること」は、本当に安心をもたらしているのだろうか。私たちはいつのまにか、「持たなければ不安だ」という空気の中で暮らすようになった。家、貯金、老後資金――本来は人生を守るための手段であったはずのものが、いつしか、それらを持たないこと自体が「人生のリスク」と見なされるようになっている。映画『ノマドランド』が描くのは、まさにそうした構造から零れ落ちた人々の姿である。しかし、それは単なる敗者の物語ではない。むしろ、失うことによって見えてくるもの、生き方を選び直すという静かな希望に満ちた風景が広がっている。「所有の不安に、人生を左右される」――そんな時代を、私たちはいま超えてゆけるのだろうか。

本稿では『ノマドランド』を手がかりに、「持つこと」と「生きること」のあいだにある問いを見つめ直したい。

「所有」から「縛り」へ──見えない檻のなかで

いつからか私たちは、「所有すること」によって人生をかたちづくるようになった。持ち家、預金、老後資金――それらは本来、生活を支えるための道具にすぎなかったはずだ。だが今では、それらがあるかないかによって、生き方そのものが決定されてしまう。35年ローンで家を買い、定年後の医療や年金に備えて貯蓄を重ねる。そうした感覚は、日本社会において常識として深く根づいている。

しかしその「常識」は、果たして本当に私たちを守っているのだろうか。それとも、「守られている」という感覚そのものが幻想にすぎないのではないか。

喪失を超えて始まる旅

『ノマドランド』の主人公ファーンは、夫の死と勤めていた工場の閉鎖によって家も職も失う。彼女が選んだのは、キャンピングカー一台で生きる「ノマド(遊牧民)」としての暮らしだった。彼女は語る。

「私はホームレスじゃない。ハウスレスなだけ。」

それは喪失の言い訳ではなく、選択としての誇りを込めた言葉だった。たとえ“家”という物理的な拠点を持たなくとも、自分の居場所は自分でつくる。ファーンの旅は、その静かな決意に支えられている。彼女は日雇いの仕事をしながら、広大なアメリカ西部を巡る。旅の途中で出会うノマド仲間たちは、それぞれに喪失や痛みを抱えながら、自分のペースで生を営んでいる。焚き火を囲んで語らい、別れ、また旅に出る。ときにファーンの表情には孤独がにじむ。しかしその眼差しには、「選び取った者だけが持つ明るさ」もまた宿っている。喪失を否定せずに引き受け、そのうえでなお生きていく。

そこにこそ、「しなやかな強さ」があるのだ。

自由とは、問いを引き受けること

この映画は、“モノを持たない暮らし”を賛美しているわけではない。むしろ、その奥底にあるのは問いである。

――なぜ、私たちはこれほどまでに「所有」に依存しているのか?

老後への不安、制度への依存、他者のまなざし。

私たちを縛っているのは、物理的な財産だけではない。

「こうあるべきだ」という、生き方の“型”である。哲学者アルベール・カミュは、不条理な世界に向き合う人間の姿をこう記した。

「意味がないと知りながらも、生きることを選ぶ――そのとき、人は自由になる。」

ファーンの旅は、まさにそのような自由を映し出す。彼女は確かな未来を求めるのではなく、不確かさと共にあることを選び取る。

それは、管理された安心とは異なる、“生きているという実感”に裏打ちされた自由である。

追補「持ち家信仰」という防衛本能──日本社会における不安と制度の構造

『ノマドランド』が描くのは、住まいを失った人々が、それでも人生を再構築していく姿だ。背景にはアメリカにおける構造的な貧困があるが、日本社会にもまた、異なるかたちでの「不安定さ」が存在する。たとえば「60歳を過ぎると賃貸住宅を借りにくくなる」という問題。これは都市伝説ではなく、現実だ。実際に、大家の6割以上が高齢者の入居に消極的であるという調査もある。孤独死、家賃滞納、保証人問題など、“合理的な不安”が理由として挙げられる。こうした現実が、「借りられないなら、持つしかない」という防衛的ロジックを生み、結果として「持ち家信仰」が文化化されてきた。住まいは本来、生活のための場所であるはずなのに、いつしか「老後の保険」「社会的信用」「家族の証明」としての役割を背負わされるようになった。背景には、昭和の三点セット――終身雇用・マイホーム・年金生活というモデルがある。しかしその制度はすでに機能不全に陥っているにもかかわらず、私たちの“不安”はいまだに、その名残に縛られている。安心とは、本当に「持つこと」でしか得られないものなのだろうか?もしそうであるなら、それはあまりにも脆弱な安心ではないか。

一度失えば崩れてしまうような、“依存型の安定”にすぎないのではないか。

教育という“安心の所有”について

この「所有を前提とした不安構造」は、住まいだけでなく教育にも及んでいる。「いい大学に入れば、いい会社に就職できる」「そのためには、幼い頃から教育に投資を」――。

そうした言説の裏には、「子どもの将来の不安を、先回りして回避したい」という親の焦燥が潜んでいる。

しかし、教育が「生き方を問う営み」ではなく、「安定のための資産」のように扱われるとき、そこには“学び”ではなく、“所有”としての教育が支配する。

安心のために学ばせるという構図自体が、すでに社会制度と文化に深く根を下ろしてしまっているのかもしれない。

所有を強いられる社会から、選べる社会へ

『ノマドランド』は、私たちにこう問いかける。「持たないこと」は不安定なのではない。むしろ、「持つこと」に過剰に依存した社会構造こそが、「持てない者」「手放した者」を排除してきたのではないか。所有を手放したあとに残るもの。それこそが、人とのつながりであり、移動する自由であり、そして「どこにでも生きられる」という感覚なのだ。私たちは今、「所有しなければ排除される」という構造そのものを見直すべきときに来ている。賃貸か持ち家かではなく、「選べる」ことこそが豊かさの条件なのだ。持つことも、持たないことも、どちらも尊重される社会。映画のような過酷な旅をせずとも、「どう生きるか」を自らの手で選び直せる社会。

『ノマドランド』は、そんな未来の暮らしの可能性を、広大な風景とともに、私たちの心に静かに刻んでいく。

カシオジュクチョー

指導歴27年。指導したお子様1900名以上。学習塾、英会話スクール、通信制高等学校のサポート校の運営、カシオ学習教室ジュクチョーとして29年、株式会社スマイルアカデミー代表取締役。ワシントン州シアトル大学卒。ホームページ https://casio-juku.com



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