🧠 あらすじと概要:
あらすじ
チャールズ・チャップリンの映画「街の灯」(1931年)は、彼の代表作とも言える作品で、放浪者(The Tramp)が盲目の女性に恋をし、金を工面するために奮闘する姿を描いています。物語はコメディ要素に富んでおり、酒乱の大富豪とのドタバタ劇が展開されます。視覚のみで笑いを提供し、セリフをほとんど必要としないこの作品は、観客を楽しませることに全力を注いだチャップリンの姿勢を強く感じさせるものです。
記事の要約
「街の灯」は、セリフなしで観客を笑わせる力強い作品であり、映画史においても高く評価されています。チャップリンの努力が凝縮されたこの映画は、普遍的な笑いを提供し、様々なコントに影響を与えています。著者は、個人的にはあまり笑えなかったとしつつも、最後のシーンに感動を覚えたことを述べています。また、当時の社会状況やエンターテイメントの違いについても考察があり、映画の影響力を再確認する重要な作品として紹介されています。
チャップリンの最高傑作、といえば1931年の映画「街の灯」(原題は City Lights)を挙げる人が多い。音声の入ったトーキーではなく、音楽を同期させるという手法で公開された本作は、観客を楽しませるためにセリフなんてほぼ不要であるという事実を証明してみせた力作だ。誰が観ても分かるように設計され、何度リハーサルを繰り返したのだろうと感心するほどにひとつひとつのシーンの完成度が高い。フェリーニ監督からキューブリック監督に至るまで、大勢の映画監督たちが本作を絶賛する理由は、これを公開するためにどれだけの努力があったか手に取るように分かるからだろう。
同時代の映画監督といえば、F・W・ムルナウ監督やジャン・ルノワール監督などが有名であるが、チャップリンはとにかく観客みんなを楽しませるということに注力していた。僕は1947年の映画「殺人狂時代」(原題は Monsieur Verdoux)がチャップリンの作品のなかで最も好きだ。しかしあの作品はインテリ向けである。
「街の灯」は、放浪者(The Tramp)が盲目の女に恋をして、酒乱の大富豪とドタバタしながら女のために金を工面するーー、という物語である。物語というより、ほとんどコントのようでもある。ドリフから吉本新喜劇まで、あらゆるコメディに影響を与えたことは一目瞭然だ。これは動作の可笑しさ、つまり視覚からの情報だけで観客を笑わせようとしているのだから、洋の東西を問わず普遍的な笑いである。たとえば同じくセリフを廃したコメディアンにジャック・タチがいるが、タチは動作などで笑わそうとしていない。世の中や登場人物たちを批判するような、冷笑の目線によってタチの映画は構成されていた。
僕は「街の灯」で笑うことはほとんどできない。水のなかに落ちた人を助けようとして落ちてしまったり、石鹸とチーズを間違えて食べてしまったり、テーブルの椅子を取り合ったり、そのような表現はドリフなどのコント(つまりオマージュ)で見飽きたものであり、子どもの頃ならいざ知らず、成人してからはウィットに富んだ表現、つまり機転を利かせた会話、当意即妙なものを”面白い”と感じるからだ。チャップリンが本作を公開した頃はまだトーキーが珍しい時代だったのだから、言っても仕方のないことではある。しかし盲目の女が Yes, I can see now. と言うラストシーンは良かった。これはもちろん、チャップリンの姿を見ることができるという意味の see だけでなく、目が見えるようになったからこそ、美しい心の持ち主が分かるという意味の see でもある。こうした筋書きには、当時の大恐慌(Great Depression)が反映されている。映画が公開された時はフーヴァー大統領の任期中であり、アメリカの経済はどんどん傾いていた。このように世相を映画に投影するという手法は「殺人狂時代」などチャップリンの作品に共通している。「街の灯」は誰でも分かるコメディであり、とにかく完成されている。みんなを楽しませようというエンターテイナーの本領である。だから先日記事にしたデヴィッド・リンチ監督は、自らのヴィジョンを映像にしているアーティストと言える。リンチ監督はエンターテイナーではない。
ともあれ、映画の歴史に興味がある方だけでなく、いかにコントと呼ばれるものがチャップリンのパクリであるか知りたい方にもオススメの一作である。
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