水曜日, 5月 21, 2025
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【映画随筆#10】世界の中心で、愛をさけぶニュートラル

🧠 あらすじと概要:

あらすじ

婚約者の律子が失踪したため、朔太郎は彼女を追って四国の故郷に向かう。そこで、彼は初恋の相手、病に倒れた少女との思い出と向き合いながら、忘れられない記憶を辿っていく。物語は、彼が過去の深い感情やリアルな恋愛の姿に直面する様子を描写する。

記事の要約

監督行定勲の『世界の中心で、愛をさけぶ』を観た筆者は、特に長澤まさみの演技と映画全体のリアリティに感動したと述べている。長澤まさみが演じるキャラクターのピュアさと強さ、そして彼女の表現力に感謝を示す。映画の中で使用されるラジカセによる対話手法が、独白の感情や記憶の再現を強化し、視聴者に深い共鳴をもたらす点も評価されている。最後に、視聴者が短期間の恋愛に感動する構図に疑問を呈し、もっと普遍的で持続的な愛こそが感動に値するのではないかと考える。

【映画随筆#10】世界の中心で、愛をさけぶニュートラル

ニュートラル

今回は、行定勲監督の ”世界の中心で、愛をさけぶ”を鑑賞し、感じたことを記事にしていきます。(注)本稿はネタバレを含みます。

基本情報

作品名:世界の中心で、愛をさけぶ公開日:2004年5月8日(日本)出演:大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ等

原作:片山恭一著『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館)

あらすじ

結婚を間近に控えた律子が失踪。彼女を追って故郷の四国に向かった婚約者の朔太郎は、そこで初恋の記憶と向き合うことに。不治の病に倒れた少女との淡い恋をたどるうちに、ある事実が浮かび上がってくる。

MOVIE WALKER『世界の中心で、愛をさけぶ:映画作品情報・あらすじ・評価』
https://press.moviewalker.jp/mv34186/

鑑賞後

最高に純度の高い恋模様を描いた本作。恋愛映画の金字塔として名高いだけのことはあると鑑賞しながら感じていました。

魅力①長澤まさみという女神

まず一気通貫してこの映画の監督に言いたいのは、「よくぞ長澤まさみをその役に抜擢させた」という賛辞です。主観かもしれないですが、あまりにも長澤まさみがなんというか、思春期男子が恋したい女子像と合致し過ぎて、私としては朔太郎に猛烈に共感できてしまいました。私が本作を見て泣けたのは、私も”当時の亜紀”に恋していたからだと思います。だからこそ、あの名シーンにて、フライトがでないと言う空港乗務員に怒りを向けた朔太郎の姿と、倒れる自分の恋人を想うばかりに叫んだ「助けてください」の8文字は、何よりも意志が乗っかった発言に聞こえて、私自身も共鳴するかの如く、心から感動しました。

病に伏す亜紀と助けを求める朔太郎

長澤まさみでなければできなかった演技はそこまでないと思います。でもあの役を最大限に引き出したのは、長澤まさみだと思っています。ただの痛ファンみたいに聞こえるかもしれませんが、オーディションの段階で長澤まさみが持つ本来のポテンシャルというものに、他の候補者は負けていったのだと思っています。それはシンプルな女子高校生役、初恋の相手役として求められるビジュアルや演技の話ではなく、”死に至る病を背負いながら健気に、ピュアなまま笑うことを(敢えて)選択している”女の子の可愛さと強さと弱さのバランスを持ち合わせている必要があって、長澤まさみにはそれが備わっていた、そんな気がしています。特に、この”ピュアに笑うことを選択する”というのも、我慢しているのがバレバレではだめで、少なくとも大勢には気にしていないように映ることができていながらも、大事な人であれば見抜けるようになっていた表情の使い方や、恐怖に溺れそうになる時の声の出し方、そういう演出を本心レベルでできていたのが、素晴らしいと感じました。最もらしく諸々語ってしまいましたが、結局は自分の煩悩レベルで、長澤まさみの様々な表情を忘れられないし、その声、生き様、朔太郎を慕う姿勢、全ての虜になっていたということです。その点に関して、本作に出会えてよかったと心から言えます。 

魅力②:リアリティが出るラジカセ対話

続いて本作の独自性を高めた仕様として挙げてよい点としては、朔太郎と亜紀がそれぞれ録音したラジカセをそのまま流すという、斬新な手法がとられていた点にあると思います。今でこそショート動画で流行している”ASMR”を先んじて取り入れている感じがして、自分は感心していました。

自分としてはこのラジカセでの声をそのまま流すことで2つの効果をもたらしたと思っています。一つ目は、ハードル低く”独白”を聴くことができる効果、2つ目は、記憶を当時のまま、収納することができるという効果です。一つ目については、手紙等を想像してもらえるとわかりやすいかもしれません。”ラジカセに自分の声を録音する”という行為は、無論相手を意識してはいますが、会話である必要がないというのが、一番の特徴だと思っています。いうなれば、その録音はある意味独り言に近いわけです。だからこそ、逆に会話を意識する方が難しく、自分の心中にあるそのままを語ることになるのです。自分の偏見かもしれませんが、人と人が顔を突き合わせて行う会話には、なにかしらの障壁がいつもあって、”本音で語る”という行為は何かとハードルの高いものになっていると感じます。相手の表情が見えてしまうことに対する抵抗や、いつもしている会話とのギャップが照れくさい等と、純粋な本音を語らせない要因が、F2Fのコミュニケーションには存在していると思うのです。その障壁が激減されているラジカセは本音ベースで語りやすくなっているし、手紙よりも肉声が入っている分、より感情に訴えかけることに成功する、見事な媒体利用だと思いました。

続く2つ目については、朔太郎の感情を喚起させる効果があったと思います。いうなれば、あの時にこだわっている、まだ亜紀がそこにいる気がする、という朔太郎の想いからくる幻想を強化したと思います。ここも音声が収録されてある、というのがポイントで、例えば動画であれば自分の過去の姿含めて映っている場合が多いと思います。そうなれば、映像に映っている自分の姿と現状の自分を嫌でも比較することになり、無意識下レベルでも”過去の自分たちの映像”として認識してしまうでしょう。他方、手紙であれば当時の記憶に準えながら読むことはできますが、当時の再現度はやや不明確なものになってしまうと思いました。やはり当時の、そして亡くなった亜紀からすれば最新の音声が入っている”ラジカセ”という装置が、見えずともまだそこに、当時のままの亜紀がいるような気持ちになれて、朔太郎の未練とうまくハマっていったと思いました。

余談:期間限定恋愛を報じることの功罪

私自身が”映画随筆”と謳っているわけですから、以前の自分の形式に従って映画から感じ取った教訓ではないですが、テーマ性とそれについての意見みたいなものを、久しぶりに言ってみようかと思いました。今回思ったのが、ドラマで切り取られるような恋模様がいずれも”短期間”であり、それに対して我々視聴者も感動を覚えるという構図がどうも100%良いものではないのでは、という気付きでした。分かりやすいゴールがあってしまうのが、こういう恋模様において感動しやすい状況を作るのかもしれないと、ちょっとした寂しさを実感した次第です。

本来我々が心を動かすべきは、”不断の愛”なのではないでしょうか。それはゴールなどなくて、死ぬ瞬間であっても、単なる日常を営んでいたとしても、変わらずに等倍で注ぎ注がれる、そのような愛の形こそが、感動するべき対象であるべきであり、多くの人がこの文面上では理解できる内容だと思います。しかし実態はどうでしょうか。そのエッセンスを前提化して、”短期間”の恋模様に涙していると、自信を持って言える人は多くはないのでは、というのが私の見解です。具体的に考えてみます。「好きな人と結ばれる」というラストシーンがあったとしましょう。もし仮に先ほど述べた「不断の愛」を感動の主軸とするのであれば、この”結ばれる”という状態に対しての感動は、”始まりの感動”であるべきです。今後愛を注ぎ合う日常が潜んでいることの良さ、その変わらない愛の領域に守られて生きていくことに対する喜びの概念として、感動が登場するはずです。しかし、自分で言っておいてなんですが、そんな考え方、基本我々の感動には付きまとわないのでは?と思ってしまいました。我々の感動はいつも時間に制限があって、終点があるのです。これは、感動というものの仕組みがそうなっているのかもしれません。あらゆる”起点”にまつわる感動を考えてみましたが、どれもこれも、始まりという側面ではなく、”何かの終わり”というニュアンスがとても強い印象を抱きました。初めて学校に行く我が子を見守るとき。その時に感じるのは、おそらく”何もできなかった頃の我が子”との比較で、その成長、所謂過去ありきの今という視点での感動の方が大きいと思います。不良が働き始めるのも、引きこもりが家から出るのも、全て過去の状態からの脱却という感動の側面が覇権的に思えます。

だから、恋愛についても、この結ばれるというのは、”結ばれていない状態からの脱却”であったり、思いを告げることができなかった状態から、ようやく本音が言えたという”達成の感涙”であることが多い気がしています。そしてそれを本質と仮定すると、逆算することで見えてくるのは、ゴールがある恋愛に、人は感動する、という割と救いようがない話なのかなという気もしていました。でもそれも人間の営みの一部でしょう。ロミオとジュリエットだって”別れ”を前提にしたロマンス劇です。期間の限定性が永遠を可能にしているという考え方もできる作品です。ですが、そういう短期間に人が感動するのであれば、我々のそれに肖って、いかに自分の大切な人との”短い時間”を大事にするべきか、そう考えるべきだと思いました。人の尺度ではなく、宇宙や作品の単位で考えた時に、いかにも短命なわが命を、尊い人に捧げる感動に、自分で酔いしれるようになると、良いかとも思った次第です。

別記事の紹介

高校生?の等身大の想いがつづられていて、まさしく映画随筆という感じであったので、紹介したいと思いました。併せてお読みください。

終わりに

ものすごい浅い動機で恐縮ですが、本当は平井堅の「瞳を閉じて」がどこまでこの作品とマッチしているか、それを確認したいがための作品視聴であり、そこまで考えてみるつもりではなかったのですが、結果的にものすごくいい作品を見た、そういう感情になりました。自分はグロとかホラーはちょっとしんどさがあるのですが、それ以外のテーマの縛りは基本ないミーハーなので、もしおすすめ等ありましたら、教えてください。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。では、また次回の記事でお会いしましょう。

ニュートラル

エンタメを追いかけるリーマン。趣味に対して、アツく、痛いくらいに語り分析して噛みしめたい、一人の人間です。お笑い/音楽/映画/漫画/読書等、幅広いエンタメに触れ、刺さった作品を紹介したり、自分のその時の心情を記述します。ミーハー界の革命児に早くなりたい。



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