🧠 あらすじと概要:
映画『メイデン』のあらすじと記事の要約
あらすじ
『メイデン』は、親友を突然失った少年の物語です。事故により命を落とした親友の存在を感じながら、少年は日常生活の中で深い喪失感に苦しむ。映画は、彼の日常がどのように変わってしまったか、そして彼がどのようにその悲しみと向き合うかを描き出します。視覚と聴覚が交錯する映像表現で、観る者は「誰そ彼」の時間に引き込まれ、少年の孤独や不安に寄り添っていきます。
記事の要約
この記事では、映画『メイデン』が描く「誰そ彼」という薄明の時間帯での感情や、個人の喪失に寄り添う深いテーマについて考察しています。少年の心の内面が、映像と音を通して表現され、孤独や境界の曖昧さが強調されます。登場人物たちの営みは、未熟さと成長の間の感覚を提示し、「大丈夫だよ」と誰かに言える準備が整うまでの時間を共に待ってくれる映画であると結論づけています。映画は、不確かな感情を精緻に描写し、観る者に「It’s OK」という希望を伝えます。
公式サイト
https://maiden.crepuscule-films.com/
誰そ彼とわれをな問ひそ 九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つわれそ
万葉集より
そこにいるのは誰、などときかないでください。冷たい露に濡れながらあなたを待っているわたしのことを。『君の名は。』でもお馴染みの歌だ。
ここ日本では薄明の時間帯をとらえて「誰そ彼」(たそかれ、夕方)または「彼は誰」(かはたれ、朝方)と呼んだ。いずれも辺りが薄暗くて人の表情が見えにくい状態を表現している。(※1)
視界が曖昧になる空間、昼と夜いずれでもない時間、そのイメージは「あちら」と「こちら」の区別もまた融け合わせる。
つい先ほどまで隣で親しく話していた人を、ふと離れて振り返ると表情が影に沈んで見えない。そんな様子を想像すると、まるで向こう側に行ってしまったようでおそろしくも目が逸らせない、惹きこまれるものがある。
この映画は、そんな「誰そ彼」どきの映画であったと思う。そして、きっと掛け替えなく忘れられない映画だ。
物語は静かに、あるごく個人的な喪失に寄り添う。
突然、親友を失った少年。いつも慣れていたはずの遊び場で、彼はまるで追いついた夜に吸い込まれるように消えてしまった。かえらない返事。それは不慮の事故だったのか、それとも…?答えはないまま、少年は日常に取り残される。
多くの場面が淡い光から闇へのグラデーションの中にあり、たっぷりと時間をとって佇んでいる。
その中で、何よりもそばだつのは《音》だ。風が葉を揺らす音、水が河べりを撫ぜる音、虫のささやき。光が空気の色を塗り替えてゆく音。映画は聴覚を整頓し、感度を上げ…次の瞬間、「ごう」と列車が悲鳴を上げる。あるいは、スケートボードがアスファルトを削る。このような緩急の往復によって、観る者は「あちら」と「こちら」を行き来する。
やがてこの「誰そ彼」どきにおいて、ぼやけるのは《境界》だ。それを示すかのように、映画の中には何度も「隔てるもの」のモチーフがあらわれる。
線路やフェンス、流れる河。自ずと、それらは生と死(此岸と彼岸)のイメージに繋がり、親友に置いて行かれた少年を招く引力になる。
つまりは、希死念慮だ。かつて親友がスケボーで軽く下って行った坂道や、何食わぬ顔で流れ続ける河の中心に少年は引き寄せられる。
それはいわばネガティブな《越境》の誘惑であり、彼は闇の中で何度も親友の気配を感じる。まるで足跡のように親友が得意としたスプレーアートがそこかしこに残り、電灯の気まぐれに声をきき姿をみる…
ここには、他者には決して完全には理解することのできない《孤独》の輪郭が、影絵のような方法で丁寧に浮かび上がっている。周りの大人や級友たちとのズレ。忘れたくても忘れられないちょっとした瞬間の反芻。
親友と少年の間にいつから・どれだけの想い出があったのか、その前提は決して多くは語られないけれど、それゆえに外部から安易に踏み込むべき(踏み込んだ気になるべき)でない「理解できなさ」について誠実だと思った。
他者は共感したり支えになったりすることはできるけれど、最後には彼自身が折合いを見つけなければならないということ。この映画の静けさは、そのために必要な忍耐の時間そのものだ。
映画は後半から大きく転換をみせて、別の少女に視点が移る。
彼女は少年や親友と直接の交流はなかったのだけれど、思わぬ形で運命が交錯し、ある幻想によって重なり合うことになる。ここでもやはりパーソナルな《孤独》と、夜の中心へ働く引力の形が別の角度から照らし出される。
この少女の存在によって、彼らが共通して抱える《孤独》とは「早く大人になれと加速する世界とのズレ」だったのかもしれない、と思い至った。
ナイーヴで未だにキラキラとしたラベンダー色のリュックサックを愛用する彼女は、意志とは無関係に周囲で高まる思春期の圧から逃げるように家を出た。ここではないどこかを思い描いて音楽の夢を語っていた親友の彼も、本心と比べて大人び過ぎていたのだろうか。
2人の感じていたであろう乖離は、親友の喪失を「はやく乗り越えろ」と急かされているように感じる少年の寄る辺なさと重ねられる。スプレーアートの署名『Maiden』(処女、乙女)とは取り残されようとする彼らの「子供でいられる時間」そのものだったのかもしれない。(※2)
映画のラストは、二通りに解釈ができると考えている。彼が「こちら」にとどまったのか、あるいは「あちら」に踏み込んだのか。
いずれにしてもそこにはささやかながらポジティブな意志をもった《越境》が感じられて、彼が口にする “It’s OK.”(大丈夫だよ)ほど純粋で優しい言葉はない、と思える。時にはいっしょに泣いたり傷つけあったりして、最後の最後に何かかけてあげられる、かけるべき言葉があるとすればこれだけなのだ。
「誰そ彼」どき、たぶん二つの世界は思っているよりずっと近くにある。残された署名、足跡、におい。見えなくても、話せなくても、重なった薄紙のように隣り合っている…その気配をあたたかさとして感じられたとき、ようやくわたしたちは”It’s OK.” と誰かに言えるのかもしれない。
これは、その準備ができるまでの「九月の露に濡れ」たままで居るような長い長い時間を、一緒に待ってくれる映画だった。
注なるもの
※1:英語でこれらを示す「Twilight」も、twi-(二つの、半ばの)と light(光)を語源にもつ。中間、グラデーションの中にある曖昧さとリンクする言葉だ。
※2:パンフにて、監督は「言葉に特別な意味はありません」と語っている。
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