🧠 あらすじと概要:
『ノスフェラトゥ』のあらすじと記事の要約
あらすじ
『ノスフェラトゥ』は、吸血鬼オルロック伯爵と女性エレンとの関係を描くホラー映画で、1922年のムルナウ版と1979年のヘルツォーク版に敬意を表しつつ、ロバート・エガース監督が新しい解釈を加えた作品です。エレンの夫トーマスは、オルロックを都市に招き寄せることで家族を危険にさらすが、最終的に彼女は孤独にオルロックに立ち向かうことになります。物語は、吸血鬼のテーマを通じて愛と裏切りを描いた新たなラブストーリーとして再構築されています。
記事の要約
映画評論家は、エガース監督の『ノスフェラトゥ』が持つ映像美や、モノクロとカラーの融合を評価しつつ、旧作へのオマージュを豊かに表現していると述べています。特に、エレンとオルロックの関係をシンプルなラブストーリーとして掘り下げている点が新しい視点を提供しています。彼の記事では、エレンのキャラクターが社会の抑圧や貞操観念と対峙し、最終的に彼女自身が自身の運命を切り開く姿が強調されており、ライラックの花が象徴的な役割を果たすことにも言及されています。この新しい『ノスフェラトゥ』は、過去の作品の集大成として、独自のメッセージを持った作品だと結論しています。
公式サイト
https://www.universalpictures.jp/micro/nosferatu
五感が順に凍り付く…まずは、映した網膜から血液が青く染まってゆくようだ。
白黒とか天然色とか、古風とか現代的とかを超越した異次元的な色彩。彩度を落とし繊細にコントロールすることで、カラーでありながら同時にモノクロに見える(※1)。黒の深さと層の多様さ、墓石の寒々しさと暖炉の温かみとが同時にある。ちょっと至福すぎるます。
1922年のムルナウ版と1979年のヘルツォーク版、いずれにもこよなき愛とリスペクトを表現しつつ、自らのクセ(※2)も遠慮なくぶっこんで新しい『ノスフェラトゥ』を見せてくれる映画だった。それって理想的なリメイクなんじゃあないだろうか。
ロバート・エガース監督は以前から自身のフェイバリット映画のラインナップにムルナウ版を挙げていて、「ぼくが一番ノスフェラトゥをうまく作れるんだ」(CV.古谷徹)って感じだったのかもしれない。そして今作はそれを証明するような仕上がりで、彼の作品史でも節目になるような作品になりそうだ。
ムルナウ版からはモノクロ/サイレント期への憧憬や影を使った演出の巧みさを。
ヘルツォーク版からは吸血鬼の「疫病(ペスト)を連れてくる者」としての位置づけの強調や街を支配する終末感を。
それぞれを拝借&現代らしいエンタメ感を増して味付けしつつ、では今回ならではの新しさとはどこにあるのか?といえば、『ノスフェラトゥ』(『吸血鬼ドラキュラ』)という物語の内にあった意外なほどシンプルな「ラブストーリー」としての側面を掘り出して浮かび上がらせたことだと思う。
それは、吸血鬼=オルロック伯爵(ビル・スカルスガルド)の造形にも現れている。
もともと『ノスフェラトゥ』は、ブラム・ストーカーの原作やベラ・ルゴシやクリストファー・リーの演技によって映画界を中心に定着した貴族的でカリスマ的、パワフルな侵略者・誘惑者としての『ドラキュラ』のイメージとは明らかに違う造形に舵を切ったシリーズ。さながら怪人的・病的、もっとわかりやすく言うなら「ぶさいくなネズミ男」だった。
そこのところ、今回のエガース版はめちゃくちゃ怖いし超低音で能みたいなテンポで喋るしゴリゴリ不気味…でありながら、カリスマ的成分も足されたチューニングになっている。このキャラ設計も、今作の「ラブストーリー」的骨格の形成に貢献しているといえるだろう。
そもそもの『ドラキュラ』を振り返ると、もともと元祖NTRモノといえるようなキャラとプロットだ。異国からやってきて、夜ごと女性を誘惑しては家の外の闇に連れ出し、その牙を「突き刺して」「血を流させ」、仲間にしてしまう…
異教、不貞、感染症のイメージ。
この構図には、男性および教会(キリスト教)中心に編成されてきた西欧の「家族」を中心とする社会の秩序と財産管理のシステムが常に抱える警戒心・恐怖心とそれらが反転した破戒の憧れ、さらには前提としてある女性蔑視の感覚をありありと読み取ることができる。国土や信仰に基づく秩序の略奪と家庭・貞操の略奪は等しく《財》として重ねられ、女性は男性視点での「弱さ」「未熟さ」ゆえにその誘惑に屈する、という偏った思考がベースにある(※3)ということだ。
原作の『ドラキュラ』後半では、男性たちによって組織された討伐隊による吸血鬼退治が描かれる。上記の視点を踏まえるとマッチョな展開に思えるわけだけれど、これまでの『ノスフェラトゥ』ではその展開をばっさりカット(尺や著作権対策の都合などもあったらしいけれど)。むしろ吸血鬼に見初められた女性=エレン(今作ではリリー=ローズ・デップ)が単身立ち向かうような展開を用意している。
特にヘルツォーク版ではこの側面が際立っていて、『ノスフェラトゥ』を(『ドラキュラ』との対比込みで)「女性史の映画」として観る可能性に気付かせてくれる。
そこを今回は、エレンの夫トーマス(ニコラス・ホルト)を中心とした組織討伐展開が復活するのだけれど、ここにはエガースならではの企みと罠がある。討伐は結局うまくいかず、やはりエレンは孤独にオルロックと対峙する事態を強いられるのだ。これによって、やはり今作は女性(エレン)の映画だったのだということが更に強調されるようだった。
トーマスは妻エレンを大切に思っていたけれど、ただ「側にいてほしい」というエレンの望みよりも「まずはひとかどの財産を持たなければいけない」という価値観に囚われたことでオルロックを招き入れる旅に出かけてしまう。この男性的な呪縛は、トーマスの友人であり財産と家庭をもつ「オトコらしい男」フリードリヒ(アーロン・テイラー・ジョンソン)というキャラによってより際立つ。
その隙間を突くようにやってくるのがオルロック伯爵であり、「夫不在の寂しさに入り込む存在」と考えれば、要するに王道NTRやないかいとも思えてくるところ。
加えて、今作ではエレンとオルロックの関係性にとある過去からの因縁が書き足されている。これは過去版にはなかった要素だけれど、単に後付けというわけではなく、機能が考えられている。
オルロックとの「つながり」は、エレンのもつ霊感に近い感受性とデリケートな精神の説明にもなっているし、社会や家庭が求める規範によって抑圧された欲求や本能、つまりもともと彼女の内にあった《可能性》そのものがオルロックであることを示す。そしてその蓄積がついに形をもって復讐しに来る…という風に解釈を試みるならば、男性&キリスト教式社会への警告にもなっているといえるだろう。
このエレンとオルロックの関係をただセクシュアルな略奪譚ではなく「ラブストーリー」に思わせるキーアイテムになるのは、序盤からラストカットの瞬間まで重要な役割をもつライラックの花だ。
日本では別名「リラの花」と呼ばれたりもするこの花、なにせ代表的な花言葉は《初恋》だったりもする。
かつて自身から半強制的に切り出された《可能性》に対するノスタルジーや思慕、それらが募った先に転じた憎しみをひっくるめて《初恋》に準える。それを受容する痛みと勇気を示すエレン、最後の姿勢は生き別れになった我が子を抱きとめるようでもなかっただろうか。
ライラックには別の象徴的意味として「春の訪れ」があり、「希望」「再生」のイメージを連れてくる。結末は、街に訪れた救済とエレンたちの魂の救済がやはりライラックによって示されているようでもある。『ノスフェラトゥ』という物語は、過去数度の転生を経てこのエガース版によって漸く救われたのかもしれない。
さて、1922年→1979年→そして今回と、おおむね半世紀ごとのリメイクが成されてきた『ノスフェラトゥ』。この調子でいけば次は2100年頃となり、そろそろドラえもんが生まれてきそうである。
『ノスフェラトゥ』はペストの媒介者としてのネズミがたくさん出てくる映画なので、ドラえもんとはかなり相性が悪い。よって、たぶん未来ノスフェラトゥは地球はかいばくだんで倒されるんだと思う。
注なるもの
※1:このアプローチはヘルツォーク版でも見られ、今回はそのアップデートでもあるのかも。
※2:『ウィッチ』や『ノースマン』でも頻発した謎の魔術的儀式シーンのねじ込みなど。あとウィレム・デフォーさんのぶん回しも。
※3:エレンの患う精神病(鬱)に関する扱い、社会的な視線や治療法にもこの点は表現されている。エレンの示す癲癇かヒステリーのような症状は、精神医学が未発達な段階においては数々の偏見と迷信をもとに認識されていた。
Views: 0