🧠 あらすじと概要:
あらすじ
『クィア/QUEER』は、ビート文学の代表的作家ウィリアム・S・バロウズの小説を映画化したもので、グァダニーノ監督が手がけています。物語は、孤独な中年作家リー(ダニエル・クレイグ)が、魅力的な青年ユージーン(ドリュー・スターキー)と出会い、彼との関係を深めていく中での葛藤を描いています。進行は3章立てで、初めはメロドラマの要素が強いものの、物語が進むにつれて冒険へとシフトしていきます。この映画は、バロウズの行動や考えを笑いと共に描き出しつつ、彼の人間性や内面に迫っていきます。
記事の要約
映画『クィア/QUEER』とドキュメンタリー『バロウズ』についての感想が展開されます。著者は、グァダニーノ監督の作品に対する苦手意識を抱きつつも、バロウズを題材にしたことに興味を持ち、観ることにしました。映画はバロウズの深刻さを剥ぎ取り、彼の人間性を浮き彫りにすることで、滑稽さが生まれると述べています。リーとユージーンの関係はメロドラマ的でありながら、テレパシーをテーマにした新たな冒険へと展開します。また、タイトルの「クィア」の意味とその歴史についても言及し、主流とは異なるアイデンティティの追求が孤独を伴うことを指摘しています。最後に、ドキュメンタリーで描かれるバロウズのさらなる側面についての興味が強調されています。
『君の名前で僕を呼んで』、『チャレンジャーズ』のルカ・グァダニーノ監督がビート文学の代表的作家(というか、この中でも異端なのかしら)のひとりウィリアム・S・バロウズの小説『クィア』を映画化した『クィア/QUEER』と、同時期に公開された(元々は1983年に制作されたものの再上映ではありますが日本初公開。)バロウズ自身のドキュメンタリー『バロウズ』を両方観たので併せて感想を。
えー、まず、『クィア/QUEER』の方ですが、個人的にグァダニーノ監督の映画は苦手というか、よく分からなくてですね。『君の名前で僕を呼んで』も『チャレンジャーズ』も、何かおもしろそうなことが画面上で起こっているのは分かるんですが、その面白さの本質が掴めないでいたんです。『チャレンジャーズ』を観た時に、起こっていることの深刻さに比べてそれをシリアスに描かないということをしてるなと感じたので「これはたぶんコメディなんだろ。」と思ったんですが、そう思ったところで別に笑えなかったので、恐らくグァダニーノ監督とは笑いのツボが違うのだろうと諦めていたんですね。
だから、もう観に行かなくていいかなと思っていたんですが、なんと、新作はバロウズだっていうじゃないですか。僕は1970年生まれの55歳なんですが、僕と同年代くらいまでの人は青春期にビート・ジェネレーションにかぶれた人って結構いるんじゃないでしょうか(90年代に青春期を過ごした人というか。)。僕自身は何の影響でハマったかは覚えてないんですけど、この頃まではロック系のミュージシャン(この映画でも楽曲使用されているニルヴァーナのカート・コバーンとか、ドキュメンタリーの方でコメントしているパティ・スミス、他にもトム・ウェイツやボブ・ディラン、イギー・ポップ、デヴィッド・ボウイなどなどなど)が影響を語ったりしてたんですよね(アメリカのオルタナバンド”Pain Teens”のジャケが『ジャンキー』の表紙絵だったり。もちろんジャケ買いしましたがちゃんと中身も今だに好きです。)。で、ここまでだったかなって印象があるんです。ビート・ジェネレーションの影響を語る人がいたのって。
なので、なぜいまバロウズ?っていうのはあったんですが、観たら、「あれ、このひと(グァダニーノ監督)、ずっと、こういうのがやりたかったんじゃ?」と思ってしまいました(『君の名前で僕を呼んで』の方が意外というか。)。『チャレンジャーズ』と脚本のジャスティン・カリツケスさんが一緒というのもあると思うんですけど、深刻なことを深刻に描かないというのの発展形というか。バロウズ自身が深刻なことが起こっているのに、それをどういうつもりで書いてるのか全然分からないひとなので(現実と妄想が同次元にあって、それ以外の、思想性とか批評性とかメッセージみたいなものは何も存在しないみたいな。)どうとでも変換出来るんだとは思うんですけど、なんというか、今回のはバロウズ自身に纏わされたシリアスさを剥ぐような、その奥にある人間性を覗き見するような映画になってるんですね。そもそもバロウズというひとが、その人間性を思考の難解さ(=偏屈さでもいい)で綿密に覆い隠しているようなひとなのでなかなかに一筋縄ではいかないんですが、この映画はその行動の理由がなるほどなと納得出来るくらいのところまでは解読していると思うんです。
で、そうするとどうなるかというと、途端に滑稽になるんですよ。その行動の単純明快さというか(そりゃ、バロウズ自身がそう思って行動してたかなんてのは分からないんですが、グァダニーノ監督の解釈によるとですね。)。だって、性欲高めの中高年が若くてきれいな子にメロメロになって振り回される。そう、いわゆるメロドラマなんですよ。この映画(そういや『チャレンジャーズ』もメロドラマでしたね。)。映画自体は3章立てになってて、第1章が孤独な中年リーが酒に溺れながらカワイイ男の子を探すって章で、主人公のリー(=バロウズ)をダニエル・クレイグがやってるんですけど、これがまたね。ダニエル・クレイグっていったらついこの前までジェームズ・ボンドやってたひとですよ。マッチョイムズを内包したクールさで女性にモテモテの男。それをやってたひとに若い男の子に振り回される中高年をやらせてるんですから、これ、完全に狙ってますよ。滑稽さというかかわいさ(また、ダニエル・クレイグが身体つきなんか全然違うのにバロウズに見えるんですよね。時々本人かな?って見間違うくらいに。)。
で、ドリュー・スターキー演じるユージーンという青年に出会うんですけど、このユージーンがほんとにかわいくて美しい。若さゆえの冷たさというか暴力性も孕んでて、これはおじさんメロメロになるの分かるなって感じで。リーがかまって欲しくて、食事中のユージーンにちょっかい出して突き飛ばされるところなんか、やめてあげてって。このひとジェームズ・ボンドなのにって(同時に、このひとジャック・ケルアックに”アメリカ最高の知性”と言われたひとなんだよなとも。)。ただ、これがこのままラブストーリーで終わらないのが、さすがバロウズというか(バロウズにカタルシスとか構成みたいな概念もないと思うのでどちらからというと)グァダニーノというか。3章で突然映画のジャンルが冒険モノに変わるんです。サイケデリック・インディー・ジョーンズ的な。ユージーンの気持ちを繋ぎとめておきたいリーがユージーンを旅行に誘って、ついでに気になってたドラッグ試しに行こうぜってことになってジャングルの奥地へ行くんですけど。このドラッグの効果がテレパシーを使えるようになるってやつなんです。会話なしでも心が通じ合うみたいな。そういう人間の人智の届かないところに興味を示すのはバロウズっぽいですが、この映画観てると、そうか、人に理解されないことが寂しいのかって気持ちになってくるんです。そして、その姿もやはり滑稽に描かれるんです。それで、まあ、ここで映画的には(ヤバイドラッグの効果もあって)ある種のカタルシスを迎えるんですけど、やはり、一貫してコメディなんですよね。もちろん、メキシコのホテルの部屋なんかはもろセットって感じでスンとしたSF的な美しさがあって、そういうところでバロウズの作品の持つ無国籍感というか妄想と現実の狭間にいるような感覚はずっとあるんですけど、それを踏まえた上で現実の人間バロウズを描こうとしてるんだなって感じなんです。
サントラは最早映画音楽界の巨匠となったトレント・レズナー&アッティカス・ロスがやってるんですけ(まぁ、このふたりも90年代のオルタナティブ・バンド”ナインインチネイルズ”のメンバーですけどね。)、挿入曲としてかなり既存の曲が使われてるんです。それが、ニルヴァーナだったりプリンスだったりニューオーダーだったり、80~90年代のいわゆるオルタナティブ・ミュージックなんですよ。時代的にもビート・ジェネレーションと言えば50年代のジャズなんですけど、確かに、ことバロウズに関してはその時代よりも未来の、しかも(サイケデリックとかヒッピームーブメントとかともちょっと違う)オルタナティブなもの(パンクやハードコアとも違う。反体制のその先みたいなイメージですかね。)の方が合うんですよね。で、ふとこの映画の公式HPを見たら”クィア”という言葉の意味の解説が載ってて、
”自身の性のあり方について特定の枠に属さない、分からない、決めていない等の「クエスチョニング(Questioning)」と同様、LGBTQの「Q」にあたる。元々は「奇妙な」といった意味の侮蔑的な言葉。” ~ ”同性愛者等を侮蔑的に表現する言葉として用いられていた。しかし、現在では性的マイノリティの当事者がこの言葉を取り戻し、「ふつう」や「あたりまえ」など規範的とされる性のあり方に当てはまらないジェンダーやセクシュアリティを包括的に表す言葉として使われている。”
という風に書かれてるんです。これ、正しく”主流とは別の”とか、”それ以外の”って意味のオルタナティブということですよね。しかも、もともとが侮蔑的な意味の言葉を当人らが自らのアイデンティティとして使用するなんてのは”ロック”や”パンク”も正しくそうで。反体制というよりは、そういう全ての規範から自由になろうとする精神性の話だったというか。映画自体が、バロウズが若者に対して「君はクィアじゃない。」っていうシーンから始まるのも(バロウズが生きた時代というのもありますが、)あり得たかもしれない姿を求めるのではなく、あり得なくたってそれが自分だということだという宣言だったんではないかと。で、そういうバロウズの有無を言わせぬ”強さ”に僕らは憧れていたんだと思うんですけど、でも、それってとても孤独だってことをこの映画は言ってるんでしょうね(それまで深刻にならずにやって来たこの映画が、エピローグで突然シリアスさを纏うのも、そこで描かれてるエピソードと相まって、人間バロウズの本質というか、グァダニーノ監督のバロウズへの愛なんだろうなと思いました。)。
そして、この『クィア/queer』を観て感じたことの答え合わせみたいなものがドキュメンタリー映画『バロウズ』の方にだいぶあったんですけど。『クィア/queer』を見てからだと『バロウズ』に登場するバロウズ晩年の秘書だった青年との関係が、リーとユージーンのようにも見えてくるし、テレパシーに興味を持つほど他人の心の内を気にしていたのはバロウズ・ジュニアとの関係もあったのかもななんて、より人間バロウズに興味が湧いてくるのでした。そして、こちらの最大の見どころは、バロウズ本人を目の前にした実の兄からの『裸のランチ』のとても的を射た批評。それを聞いてる時のバロウズの姿がこれまた人間なんですよ。
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