🧠 あらすじと概要:
あらすじ
映画『ガール・ウィズ・ニードル』は、1920年代のコペンハーゲンを舞台に、貧困と母性をテーマにした物語です。主人公のカロリーネは、失業中であり、自身の子どもを育てることができない状況に置かれています。彼女は、大衆浴場で堕胎を試みようとしますが、そこで養子縁組をしているダウマと偶然出会い、彼女の運命が変わります。ダウマとの関わりを通じて、カロリーネは再び母性を感じ、同時にダウマの持つ深い「闇」に直面することになります。この物語は、経済的な安定が子育てに不可欠であることを問いかけ、終末にはほんの少しの「救い」が示されるものの、その背景には切実な現実が潜んでいます。
記事の要約
この映画レビューでは、『ガール・ウィズ・ニードル』が持つ印象深いテーマ、特に「実話」と「虚構」の重なりについて言及しています。モノクロームで描かれるコペンハーゲンの社会は、貧困と戦争という厳しい現実を強調しており、物語自体も悲しみを帯びています。主人公が母性を再獲得しつつも、経済的安定の必要性を痛感する様子は、現代にも通じる深いメッセージを投げかけています。映画は、実話に基づきながらも「虚構」の力を利用して、真実を力強く描き出すことに成功しています。そのため、観客には現代の分断をも思わせる衝撃的な体験が待ち受けていると述べています。
本編映像の一部がyoutubeで公開されていたので、それを貼っておく。ある意味で象徴的なシーンだ。 これは、なかなかすごい映画だと思う。 最近観た映画の中では『サブスタンス』と同じくらい、もしくはそれ以上のインパクトである。 話は余談だが、カバー写真は、本作の舞台となるコペンハーゲンの画像をで探して見つけたものだ。本作が描く1920年代にどうだったかは分からないが、現在ではおしゃれでかわいい色彩に彩られている。この画像と本作のモノクロ画面を対比させてみると、モノクロの画面が本作の表現にいかに大きな影響を与えているのかがわかり、監督が何故モノクロームを選択したのかということが分かるような気がする。 普通にカラーで撮れる時代になったのに、敢えて白黒で撮っている作品というのもけっこうあるように思うのだが、デビッド・リンチの出世作『エレファント・マン』もそうだった。そう言えば『エレファント・マン』も実話に基づいた話だった。 このように、実話を元にした映画というものはよくあるのだが、自分としてはどう理解していけばいいのかということで、いつもちょっとだけ悩む。 ドキュメンタリーというのは、 「実話」を「実話」として取り上げ、「実話」への批評的な観点を盛り込み、実際の映像を編集し、作り込んでいくものだと思う。 その一方で、「映画」は、それがフィクションである以上、「実話」を取り上げたとしても、決して「実話」にはならない。 正確に言うと、「実話」かどうかも決定不能になってしまう。例の「クレタ島の男が『すべてのクレタ島の人は嘘つきだ』と言った」というアレである。 決定不能であるということは、「実話」と「虚構」が重ね合わされているだと言い換えることもできる。それは「実話」でもあり、かつ「虚構」でもあるわけだ。 この重ね合わせによって、「事実は小説よりも奇なり」ということで、実話が我々の想像力を遥かに超えていることを発射台として、そこから想像の翼でさらに高いところへ飛び上がることも可能だろう。また同様にして、想像の世界におけるリアルさを実話という物証で担保することもできるだろう。 でもそれって、自分の観点で見てみると、お互いの良いとこ取りと言うと聞こえがいいが、むしろそういうケースは多くはなく、どっちつかずというのが、その大多数ではないかと思う次第である。 自分としては、やはり「虚構」は「虚構」として、自らのリアルを自らの「公理」を元にして証明してほしいとは思う。それこそが、人間に与えられた能力なんだと信じているためである。 しかし実話を脚色してフィクションに仕立て上げるという行為が止まないのは、先程述べたように「想像の世界におけるリアルさを実話という物証で担保する」ことを期待しているからだと思う。 本作は基本的には厳しい悲しい物語である。 戦争、貧困。 我々がもはや忘却の彼方に押しやろうとしていたものが、モノクロの画面で執拗に描かれる。 それらを描くカメラワークはフレキシブルだ。 ドキュメンタリータッチに動くところと、対象物を確実にフレームにおさめるべく固定されているところ、そのコントラスト故に社会性とドラマツルギーが絶妙のバランスで封じ込められている。「実話」と「虚構」、こんなところでもバランスをとろうとするマグヌス・フォン・ホーン監督の意思が明確に見えてくる。 サーカス、公衆浴場、アパート、工場等々がモノクロでフレームに刻みつけられる。どれもが貧しく見える。
余談も余談だが、工場のシーンがリュミエールの『工場の出口』を彷彿とさせるのは御愛嬌か。
それはともかく。 1920年代のコペンハーゲンの世相がモノクロームの中にくっきりと浮かび上がる様は、鳥肌ものだ。 不幸な恋愛で授かってしまった子どもを抱えたカロリーネは失業の身であり、困窮していた。貧困ゆえ育児がままらないことから、大衆浴場で堕胎を試みようとしていたとき、もぐりで養子縁組をしているダウマと偶然に出会い、お腹の子どもともども助けられる。 カロリーネは自らの貧困故に、堕胎を試みるなど一度は自らの母性を捨てたのだが、ダウマとの出会いにより、養子縁組を待つ赤ん坊の乳母となることで、再び母性を獲得していく。そして再び獲得した母性故に、ダウマが抱える深い「闇」を知ってしまう。 一度捨て去った母性を再び獲得していく過程において、彼女は幸せを感じていたようにも見えるが、そう見えるための必要条件としては、彼女が経済的に安定しているということが重要であったことは言うまでもない。 表面的に見れば、貧困が母性を失わせ、経済的な安定によって母性が再獲得されていくというのは、悲しい現実である。 それこそが現実なのだ、ということが、この映画ではモノクロームの画面に淡々と映し出される。 皮肉な話は大抵が現実なのである。 カロリーネは、自分が産んだ赤ん坊が幸せな生活を送っているはずだと自らを納得させてきのだろう。しかし自分の子どもの将来を不安に思ったとき、再獲得した母性も相まって、自らを押さえることができずに彼女はダウマの跡を追い、彼女の闇を覗いてしまうのだ。
「私は正しいことをしただけ。なぜ?」
ダウマは最後にこう問いかける。
子どもを産み、育てていくことは、経済的な安定なしでは不可能だ。
経済的な安定がない場合は、どうすればいいの? 私はそういう女性を助けてきたのに。 ダウマはそう言っているのだ。 経済的な安定は子育てに必要不可欠だが、それがない場合には誰がそれを埋め合わせていくのか? 単純な人道主義では答えは出せないような気がする。 その問いはあまりにも重く、正しい答えは誰にも分からないというのが、本当のところだろう。 人は物理的存在であるが故に、その生存のために経済的な安定が必要不可欠である。霞を食べて生きていくわけにはいかないのだ。 本作には、ごく当たり前の「基本的人権」というものを根底から問い直すような衝撃がある。 そんな重苦しい雰囲気が続く中、ラストシーンにだけは、そこはかとない「救い」が見える。しかし、その「救い」も経済的安定があればこそ、というところがあまりにも悲しい。 そこで、この映画が「実話」に基づくということで、恐ろしいほどのリアリティが、「虚構」であるはずの「映画」に無条件で付与される。「実話」を扱った「虚構」が真実を雄弁に語り始めるのだ。 「虚構」を駆使して悲しい「真実」を観客に告げるのが、この映画のすごいところだ。
まさに現代の分断にもつながる話であり、この衝撃は是非体験しておいたほうがいいと思うのだ。
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